もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

登山にインターハイが有ったんだ。初めて知った。

栃木県那須町湯本の「那須温泉ファミリースキー場」で27日午前に発生した雪崩による登山部の事故で、参加した登山部は、高体連主催の行事に参加して事故になったという報道がありました。

・・・・・

え、高体連! それにニュースを良くみたら登山部!

・・・・・・・

私は登山部体験はありませんから、ネットで検索してみたら、登山部にもインターハイがあるんですね。びっくりしました。だから高体連主催の行事が計画されるんだ。

インターハイの種目に「登山」があったと思うのですが、主に何を競うんですか? (ヤフー知恵袋)

・・・・・

ところで、このような場合は補償は何処が行うんでしょうか? 高校の登山部顧問ではないような気がします。企画は高体連ですから。でも、高体連はおそらく県から補助金を貰って運営している組織で、その会員は登山部担当教師と登山部経験者有志会員のみで、県からの補助金は紐付きですから今回のような行事でほぼ無くなるはずで、事故の補償金まではないはずです。ということは、高体連に補助金を出していると思われる教育委員会?

まあ、何処が補償してもいいんですが、お金では解消できない思いが残ることも理解してますが、被害者の気持ちが少しでも早く収まるように補償すべきところは速やかに進めてもらいたいなと、まったくの部外者ですが、個人的に思います。
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稀勢の里優勝のニュースに思ったこと

久しぶりに誕生した日本人横綱の優勝に昨日はNHKのニュースはそれ1色になった感じでした。

ただ、なんというか、日本の相撲のいびつさが、日本人横綱優勝にチラホラと見え隠れするように感じるのは、私がちょっとひねくれものだからでしょうか?

ネット上には解説があるようですが、実は日本では法令で国技と言うものは決められていません。ですから、大相撲が日本の国技であると一般には思われていますが、根拠はないんです。ちなみに噂では、国技館を作ったから相撲が国技と呼ばれるようになったという話もあり、個人的には事実なのかなと感じます。

法令で決定していないけど、日本人の常識として、伝統的なスポーツだから国技なのだという考えもあるようです。同様な立場で、柔道・剣道なども国技だという人もいます。中には空手も国技という人もいますが、これは名称からして国技に入れるのはどうなんでしょう。元々は唐手と書いていたのですから、外来武術だと思います。東京オリンピック種目にしたのは個人的にはどうなんだろうと感じています。

日本では、伝統的と考えられる条件として、江戸時代中頃までには完成し、現在に伝わっているものが伝統文化と考えられているフシがあります。文化財保護法で保護される文化財はだいたいそういう感じのものが多いような気がします。(ちょっと関係ないけど、宗教でも幕末頃以降に発生した宗教は新興宗教に分類されます。)ですから、いつ完成したが定かでなくくらいの狂言とか、室町時代に完成した能とか、江戸時代中期頃には完成した歌舞伎は伝統芸能と行っても何も問題ないと感じます。竹刀で練習する剣術は柳生流が最初のようなので、剣道も伝統的と行っていいと思います。

では、柔道はどうなのか? 柔道の開祖は嘉納治五郎であることは有名です。そして、彼は幕末・明治時代の人間です。ですから、個人的には柔道は伝統的武術に入れたくない感じがします。

では相撲はどうなのか? 文献に現れる最初の相撲は、人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いだそうです。由来は十分古いんですけど、勝負内容は蹴りも使われており、現代人から見るとこれを相撲と読んでいいものか?

・・・・・

もう一つ感じることは、外国人横綱のほうが増えてしまった今の状態での、外国人横綱に対する扱いと日本人横綱に対する違いです。今回は稀勢の里が勝利しました。怪我を押しての優勝ですから、ちょっと過熱気味になるのも分からないではない。でもスポーツとか武道とかには、公平性が欲しい。何をいいたいのかは伏せますがなんとなく想像はつくかな。

・・・・・・・

こんなことを書くと、国技なのだから、日本人横綱を待望して何が悪いという反論が来そうです。気持ちはわかります。私だって、国技なのに横綱が3人もモンゴル人である相撲、どこが国技だと思いましたから。日本の国技なのだから横綱は日本人になってほしい。でも、外国人力士を入れた段階で、日本人も外国人力士も平等に扱ってほしいものだと考えているだけです。

やっぱりそれはおかしいというのなら、今からでも外国人力士の受け入れを辞め、外国人力士に引退してもらうしかないと思います。国技という日本独自の伝統芸能という1面を強調すれば、不可能な話ではないと思います。



おまけの動画。

『信長殺し、光秀ではない』 25


八切止夫氏は川角太閤記において、登場人物について追求しています。



真実は雲なのか・講談(164~172ページ)

<細川家記>では、信長に仕える前に信長に仕える前に溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら五百あまりの家臣を持つ身分で、江戸期なら浅野内匠頭より上の十万石くらいの身分だそうです。
---引用ここから---
 と思うと、また忙しく<川角太閤記>では、「三千石から一躍俄かに二十五万石拝領仕り候とき、人手がないから他からスカウトしたところ、信長に叱られ続けた。よって、我慢ならぬから謀叛をするのだ」と光秀自身の口から宣言をさせている。
---引用ここまで---
とのことだが、光秀は元々家来を五百余りもいたのだから、ここはおそらく川角太閤記の創作なんでしょう。怨恨説の一角はこれで崩れていると感じます。

---引用ここから---
<浅野旧侯爵家史料>によると、天正十一年に、「江州坂本二十一万石のところ、城代として二万石を拝す」という浅野長吉時代のものがあり<亀田高綱記>では二万二千石とある。つまり旧坂本領は二十万石位らしい。
 そして丹波亀山城主羽柴秀勝(信長の子)天正十二年突然変死したあと、前田法印が伜の前田利勝に先だち五万石にて亀山城主になっているから、その合計で二十五万石割り出したものと想像するが、それは後年の話である。
 江州坂本の支城でさえ二十万石の余を拝領している明智光秀に、「本城として丹波亀山旭城」をもたせる時に、支城の四分の一以下ということはない。丹波丹後に跨って、その頃やはり三十万石以上はあった筈である。
 つまり天正十年当時の明智光秀は五十万石以上と思えるのに<川角太閤記>は、後年の、
<慶長分限料>や<伏見城作事割当表>の石高から割り出して、すっかり間違えている。
---引用ここまで---
なんというか、怨恨説のために、光秀の身分を操作したのかなと感じさせますね。

---引用ここから---
 さて<川角太閤記>では、光秀が「人一円も持ち合わせず」つまり、目星(めぼ)しい家来が一人もいないのでと言わせているが、光秀と最期まで生死を共にしている三宅藤兵衛や溝尾庄兵衛にしろ、昔からの家臣である。
 ところが<川角太閤記>には変な家来が現われてくる。まず最初はその溝尾と、斎藤内蔵助を二つ合わせて、二で割ったような、「溝尾内蔵助」という人物である。初めの内は別々に書いてあるから、二人のことかとも思うが、それなら、溝尾や斎藤とか、庄兵衛内蔵助と併記するべきなのに合体させているのは何故だろうか。なにしろ筆頭の名前からして、江戸後期に流行した講釈の「湖水渡りの明智左馬助」である。実存は「明智秀満」で、これは荒木村重の嫡男新五郎の許へ嫁にいって戻ってきた光秀の長女の婿である。
 さて怪人物の溝尾内蔵助が言うのには、「目出たき御事を思召されました。では明日からは上様と仰せ奉れるでしょう。さて今日は、夜が短かいから急いで本能寺を五つ前に片づけ、それより、二条の御所をお討ちはたしなさったら、ごもっともと思います」
 と賛成している記述が出てくる。だが二条御所へ、信忠が妙覚寺から移ったのは、実にこの六時間あとの午前八時である。当時は、まだ行ってはいない。
 千里眼でない限り、予測ができる筈はない。だから怪人物であるとしか言いようもない。なにしろ御所に当時いられたのは誠仁親王なのだから、信長を倒したついでに、二条御所に居られる皇太子も亡きものにし、光秀を明智帝にしようという魂胆なのであろうか。どっちみち、出鱈目もよいとこである。
---引用ここまで---
(結果)を先に出して、それに話を結びつけて行った結果、わけがわからなくなるのだろうと八切氏は推測しているみたいです。なにせ江戸期の制作物ですから。

---引用ここから---
そのくせ、一方ではリアリズムぶって、
「沓掛の在所にて兵粮(ひょうろう)をつかい、馬を休ませてから『味方の者で本能寺へ注進する心いやしい奴が居るかも知れんから、見つけ次第に斬りすてえ』と天野源右衛門を尖兵(せんぺい)隊長にして先行させた。天野は東寺辺の瓜畑の百姓を、もし本能寺へ知らせに行かれては、まずいと追いかけまわして、二三十人も切りすてた。別に罪や科(とが)はないのだが、天野は(武者の心得)として念(ねん)のために処分したのだと、筆者はうけ給って(感心した)」と結んでいる。
 いかにも本当らしい。だが尖兵として早駆けを言いつけられた者が、徒歩で、てくてく行くとは考えられない。乗馬だろう。すると、(うり畑の百姓が、彼らより早く本能寺へ注進するのを気遣った)というからには、きっと百姓も馬にのって畑仕事をしていたのらしい。しかし、そんなばかげたことはなかろう。
 だが、そんな百姓よりも、続いて並んでいた細川番所の方は、どうしたのであろうか。
 江戸期に入って細川は九州へ転封され、豊前小倉から寛永九年十月には、肥後十二郡、豊後三郡に加増移封され、肥後熊本五十四万石になっていたから、この本の筆者は、天正十年六月二日には、(この一帯が、洛中警護のために当時丹後宮津城主だった細川の飛び地支配になっていて)細川番所というのが並んでいたのを、まるっきり知らなかったのでは、あるまいか。罪もない百姓を殺すより、番所の者を始末しなければ、大変な事になる筈である。
 ところが、そんなことは一行も出ていない。
---引用ここまで---
切羽詰ったときの判断はおかしな判断になることもありますが、もしそうだったのなら、番所からの通報で、本能寺の変が失敗したと思います。でもそのような事実(番所からの通報)はまったくありません。

---引用ここから---
 だが、出ていないには出ていない訳がある。この天野源右衛門というのが、これまた明智左馬助同様に、江戸後期の張り扇から叩き出されてきた人物である。後述もするが、「あいや暫らく、お待ちあれ、右府さまとお見上げ申して、御首級(みしるし)頂戴」と大身の槍をつきだし、信長の肘に傷をつけたところを、「あいや推参なり」と前髪だちの花も恥らう美少年の森蘭丸に邪魔をされて、怪我をして階段から、ころげ落ちる安田作兵衛という髭もじゃの五十男が、この男だそうである。
 講談では、安田作兵衛が九州の立花家へ奉公したときに、世をはばかって、天野源右衛門と名を変えたことになっているが、<川角太閤記>では、早手廻しに、まだ本能寺へ赴かぬ先から名を改めている。講談を利用しても、結果をさきに出している一例である。
 さて昔の江戸時代の辻講釈というのは、連日、読み続けて「さあ、あとは明晩のお楽しみ」と客を引っ張って行かなくてはならなかったから、信長も死に蘭丸も死んでしまう<本能寺>の続編に、仕組んだのが、傷はさせたが、命は助けておいた安田作兵衛である。
 これを天野とかえ、立花宗茂の家来にして、次の読物にしてしまった。おかげで現在なら、まだ高校一年か二年の宗茂が、張り扇のおかげで豪傑になり、やがて朝鮮の役になると、
「朝鮮碧蹄館、天野源右衛門と十時(じっとき)伝右衛門との一番槍の争い」という講釈になる。
 正確にいうと、本能寺の変後十七年たっているから、五十歳の彼だって六十七歳のわけだが、そこは講談だからアンチ・リアリズムで勇ましい。
 だから講釈で相当にあたったらしく、「天野源右衛門覚書」という当時の赤本も幕末に出たくらいである。
 その<覚書?>なるものによると、源右衛門を主にする立花宗茂の二千か三千の兵が、「明軍三十万を斬り殺した」と面白可笑しくかいてある。一人が平均百人を斬ったことになるが、テレビや映画のジュラルミンの刀ではあるまいし、そんなバッタバッタとやれたものであろうか。
---引用ここまで---
織田信長の桶狭間は、最初降伏したのに、雨で火縄銃が使えなくなったところで、反撃に転じたというのが八切説です。約束を守らず裏切って勝利です。でもドラマではそんな信長はみたくない。当時の講談もそんなところがあるんでしょうね。

けっこうこの後もいろいろ興味深いことが書かれていますが、偽書と考えるしかない<川角太閤記>、本ブログではこのくらいにしておきます。

次は、<川角太閤記>の本能寺関連部分の原文(172~176ページ)が引用されていますが、省略します。

ふう、ようやく半分まで読んだぞ。

『信長殺し、光秀ではない』 24


<川角太閤記>には、<明智日向守、謀叛を企てること>というのがあるそうで、それが、信長殺しが光秀である理由の補強になっていると八切氏は指摘しています。



真実は雲なのか・分析(159~164ページ)
<川角太閤記>では、六月一日に重臣たちと本能寺へ出発し、亀山の東柴野へ打って出、そのまま東へ進み、斎藤利三らを召し寄せ、決意を告げたとなっている。
小瀬甫庵作<信長記>では、亀山出発前に五人に心中を打ち明け、五人から起請文を取り人質を取ったと書かれている。ただし、八切氏は本能寺の変後、本拠地の亀山に戻っていないことから、内容に疑いを持っているようである。

---引用ここから---
 さて、川角太閤記は、その次の条に、
「日向守殿は腰掛から敷皮の上に居直って、存ずる旨を申し出すなり」と、まるで浄瑠璃のような語り口で始まって、
「さて、わが身三千石のとき、俄かに二十五万石を貰ったから、家来をあまり持ち合せず、他から止むなく引き抜きをしたところ岐阜で三月三日に叱られ、其後は、信濃の国の上諏訪では、暴力をうけて殴られた。そして今度の家康卿ご上洛のとき、安土に御宿をいいつかって泊めたところ、ご馳走の次第が、どうも手を抜いて油断しているように叱られ、俄かに西国出陣を仰せつけられた。こう再三にわたって苛められていては、終には(所領没収又は切腹追放)という我が身の大事に及ぶべしとも想う。だが、よく熟考してみると、以上あげた三つの怨みは、或いは目出たいことかも知れん。なにしろ有為転変は世の慣(なら)い。老後の思い出に、たとえ一夜たりとも天下をとった上で、その痛快さを味わってみたいものであると、この程、この光秀は思い切ってついに謀叛の覚悟をつけた。だから、家来の其方らは気が進まなくば同意しなくともよい。そのかわり、それならそれで、今から、この光秀一人で、本能寺へ乱入し、そこで暴れ廻ってやってから腹を切って、‥‥思い出をつくる決心なのである」と、まず一息に光秀がいう。
 これが川角太閤記における、犯行自白の録取書なのである。つまり光秀自身の口から、犯行の動機と、これが怨恨を目的とする犯罪で、決して突発した精神錯乱ではなく、謀殺であって、この殺人予備罪にも該当する相談は、光秀自身の発案で、言い渡されたのであるとされている。
---引用ここまで---
ここの部分の分析が、ここでの眼目なんだろうと感じる。

---引用ここから---
 もちろん光秀の遺恨説というのは、この他にも数限りないくらいあるから、それはそれで一括して解明するにしても、さっぱり理解に苦しむのがここへ出てくる「我が身三千石のときに、頼みもしないのに一躍、二十五万石にされた」という段階である。この時点を、「岐阜城で、三月三日の節句、大名高家の前にて、面目を失いし次第」と原文にはあるが、
「高家(こうけ)」というのは、慶長十三年十二月に徳川家康が関白二条康道と相談して、持明院の末孫の大沢基輔と、足利氏の裔の吉良義弥をもって、それにあてたのが嚆矢とされ、のち江戸幕府の職名になったものである。ところが信長が美濃井の口城を奪って、岐阜城と改め、そこにいたのは永禄七年から天正四年二月までである。すると、ここ江戸期までに三十五年間という最低のギャップが生じる。
 つまり高家などと呼ばれる者が、岐阜城にいた筈はない。まだ、そう呼ばれる者は作られていなかったからだ。
 次に三月三日の節句というのもおかしい。
 これは桜井秀の<雛祭考>に<時慶卿記>を引用して説明されているように、
「上巳の節句は寛永六年三月三日より始る」か。
 又は「お湯殿日記」を史料にする有坂与太郎の<雛祭新考>に、「上巳の節句の始りは、寛永二年三月三日」の、どちらかが正しく、いずれにしろ信長時代にはない節句で、これは江戸期からの年中行事である。
 それまでは宮中に於て(周や魏の風俗で三月三日に汚れを川へ流す風習をうけつぎ)この日を「曲水宴」といって酒宴にしたり、漢詩はつくっていたが、大陸の行事なので、節句とは決して呼んでいない。また武家は絶対に、この遊びはしていない。つまり、三月三日を節句にしたのは徳川秀忠の五女の東福門院が、後水尾帝の中宮になられてから、関東の「おしら神」を祝って白酒をあげ(白木のままで彩色したのが子消し神)そして白桃を供えだしたのは、信長の死後四十余年経過したあとの事である。
 それでも江戸初期は、まだ「三季」とよばれ、「節句」ときめられていたのは、「五月五日の端午(たんご)」「九月九日の重陽」「十二月二十一日の歳暮」の三日である。
 つまり「三月三日の」が節句になったのは、ずっと後年の江戸中期以降のことであるから、この<川角太閤記>が、「元和七年から九年までの著作」とする校注者の説は可笑しい。三月三日の節句だとか、高家といったような書き方からみれば、これも、天和、貞享、元禄の頃に一大流行をした古書贋作ブームによるもの。やはり源内たちのような偽作者達が、せっせと書いて、それを故買(けいず)業者が、わざと灰汁につけて古色蒼然とした用紙に、筆耕させて仕上げたものだろう。なにしろ天下に浪人が溢れていて、コピーライターに不自由しなかった時代である。
 だが、右から左へ、その通りに筆写するのは、つい億劫でリライトした結果が、
<桂川を渡る場景>みたいに馬の藁沓の紐を切ったり、雪沓を夏にはかせたり、当時は桂川に渡橋があったから、光秀の頃に間違えてしまったようである。
 なにしろ、この<川角太閤記>が偽書であると、明確に指摘できるのは、その書かれたと称せられる元和七年から寛永二十年までの時代は、明智光秀の家老斎藤内蔵助の娘阿福が「春日局」として天下の権勢を振っていたからである。その彼女の父のことを書いた物が、写本とはいえ流布できる訳はあるまいと考えられる。
---引用ここまで---
このようなことから、この<川角太閤記>は、春日局の死後(元禄から天保時代)に成立した偽書であると、八切止夫氏は結論づけているようです。

『信長殺し、光秀ではない』 23


前回は、秀吉伝記の中の織田信長の最後の場面で、信長が夜に女性を寵愛したと書かれていることを紹介しましたが、信長自身はホモであったことを八切止夫氏は述べています。勘違いされないように補足しておきます。



真実は雲なのか・デフォルメ(155~159)
小瀬甫庵(おぜほあん)の<太閤記>の本能寺について、まるっきり講談で引用できないと切って捨てた後、田中吉政の臣の川角三郎右衛門が元和三年に纏めたといわれる<川角太閤記>について、追求をしている。

---引用ここから---
<巻一の明智勢、本能寺に乱入のこと>
 は、四章で構成されている。
 一は、光秀が桂川へつくと、軍勢の者共に火縄を切り点火し、草鞋をはきかえ、戦闘準備をせよと命令を下したということ。
 二は、(まだ本能寺へも向かっていないのに)光秀が本日から上様になられると、家来どもが喜び勇んだということ。
 三は、主格が、いつの間にか、光秀から斎藤内蔵助に転換されてしまい、彼が下知するには「町へ入ったら、いつもの如く、町木戸の潜り戸はあいて居るだろうから、その戸を押して開けて中へ入れ。入ったら後からの者のことを考えて、閉めずに戸は開けておいてやれ。次に目標は本能寺の森のさいかちの樹か竹薮と決めておけば、まあ暗くても、月明かりでも道を踏み違えることもなかろう」と声高にいうのが聴えた。
 四は、この後は<信長公記>に詳しく出ているから、向こうをよめ。ただ違っているのは、二の家来が喜んだ話と、三の斎藤内蔵助の命令であるが、これには二人も証人があって、直接にきいた。だから正しい。と書いてある。
---引用ここまで---
もっともらしいけれど、そこは八切止夫ですから、ここはおかしい、という点が追求されていきます。

---引用ここから---
 これは元和元年に、大坂夏の陣が終り、どうも泰平ムードの時代のものかと思ったが、とんでもない。もっと後年の贋作らしい。
 一の章に原文では(馬のくつ切り捨て、かち立ちの者共、新しき草鞋足半(あしなか)をはくべきなり、火縄一尺五寸にきり、その口々に火を渡し、五つずつ火先を逆に堤げよ、との触なり。さて桂川をのりこし候こと)とある。だが、<相州兵乱記>に「急坂を駆け降りなむと、馬の藁沓の結びを縮め」とある。つまり結んだ端がピンと立っていては、馬が勾配(こうばい)に掛ったとき、前脚の切れ端が後脚を刺してはいけないからと言うのである。だが、これから桂川へ入るのである。たいていの藁は水に浸かると柔らかくなる。ピンと刺さる筈はない。あべこべに、水にふやけるから後で締め直さなければならない。そのとき、前もって端を切っていたら、どうして締め直しをするのだろう。
 おそらく、これは<摂戦実録>にもある「大坂夏の陣で、木村長門守が、決戦の心構えで、二度と兜をはずすまいと、その結び目を短かく切って出陣した」という高名な話からヒントを得て、兜の緒と馬沓の紐をうっかり書き間違えたのであろう。
 次に、川を渡ってから新しい草鞋に履きかえろと言うのなら判るが、今から水に浸るのに、はきかえろではこれは二重手間ではないか。(足半(あしなか))というのは、半分の草鞋という誤説もあるが、雪沓(ゆきぐつ)みたいに藁で編んだ半長靴である。川を渡るのだから、これをはけというのだろうが、六月一日は雨である。桂川の水かさは増している。まさか、そんなものを穿(は)いたところで、浅瀬にしたって、膝まであったろう。だったら、わざわざ六月に雪沓をはくことはない。それに第一、そんなものを持ってきている筈もない。
 次に、火縄を点火して逆にしろというのは、携行ランプの代用のことらしいが、普通は、川を渡るときは、濡らさぬように桐油紙で包むか「雨火縄」とよぶ革袋に入れ、頭のてっぺんへ結いつけて渡河したものである。この<川角太閤記>みたいに、当時所定の五本全部に火をつけ、しかも、ぶら提げて川を徒歩で渡ったら、びしょ濡れで廃品になってしまう。
 これは、どうも、桂川に橋があったと間違えているらしいが、ここへ架設されたのは、ずっと後年のことである。当時ここは細川藤孝領で、細川番所の渡船があったきりである。だから、細川家で手伝ってくれても、せいぜい二三艘の小舟で、一万三千が渡っていては夜があけてしまう。やはり徒歩で水中を渉って渡河したのだろう。
 それから、<兵器物具考>によると、
「火縄一尺五寸は、風なく一刻なり」とある。
 つまり一尺五寸という寸法は、点火させてから風の吹かないときでも二時間しか保たないと決まっていたのだ。
 桂川を渡る前に火を、五本ともつけてしまうというのは、徒歩では三時間半かかる本能寺へ急行できるように、川向こうにジープやトラックでも待たせてあったのだろうか。そうでなければ、余りにも変である。なお、当時の軍用草鞋は、水中へ入っても切れぬように、木綿の芯が入っていて、これを武者草鞋と言い、高級品は皮編みになっていた。だから、江戸期の博徒の出入りみたいに、それっと言って、新しいのにはきかえるような事はなかったものだ。
---引用ここまで---
書かれている内容はよく検討してみるとおかしな事だらけ。なんというか、日本の歴史は講談とか小説が現実と思われているのでしょう。

・・・・

話は変わりますが、ちょっと前の教育課程編成で、聖徳太子の名を厩戸皇子に変えると計画されていたようですが、日本人の常識として聖徳太子の名は残さななければならないという議論が出たらしく、又、聖徳太子という名称を復活させようという動きになったそうです。
個人的には、聖徳太子というのは死後に付けられた諡(おくりな)だそうで、生前に呼ばれていた厩戸皇子でも何も問題はないと感じます。天皇になれた人は区別するために諡で呼ぶのは仕方ないんですが(言霊信仰のある日本では、本名を知られることは支配されることという信仰があったようで、天皇現職中は名前が無くなります。天皇名はすべて死後の諡。戦後の天皇は除きます。)、聖徳太子は天皇になれなかった人です。それに聖徳太子という名で呼ばれる時は、一度に10人の言うことを聞き分けたとか、常人よりもすごいという伝説のときが多い気がします。歴史の学習からは、伝説のようなことは除いたほうが、歴史学のためにもいいのじゃないかなと個人的には感じます。

・・・・

<川角太閤記>の分析は、まだ続いていますが、今日はここまで。
プロフィール

Author:kaneya
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真似してもいいけど、その場合は自己責任でお願いします。

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