もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 33





信長は腹を切らない・細川記(212~221ページ)

<筒井家記>は明智の寄騎として、京に向かったことが書かれているが、そうならば、他の寄騎、細川、高山、池田、中川も当然京に向かって進軍しているはずだと、八切氏はにらんでいるようである。そして、<筒井家記>では六月二日の早朝に出発したことになっているが、親分である光秀よりも子分である筒井がゆっくり移動するはずはないだろうから、寄騎衆は、六月一日夜半に、部下を率いて出動していたはずだと確信しているようである。

そして、<細川記>に対して厳しい追求を試みている。

---引用ここから---
つまり、この時点で、信長の動員令が下って、方面軍指令官の光秀を初め、寄騎衆の各師団が京へ、集結に向かっていると言うのに、この細川家の宮津師団だけは、
「六月三日になりて、本能寺の変を、その居城の丹後宮津城にてきく。細川藤孝及び御長子の忠興のご父子は、早速に、もとどりを切り払われ、信長公に弔意を表し奉り。このとき藤孝の大殿は、世をはかなみ直ちに隠居。一切をあげて忠興公に委ねられる」
という。
 こんなバカげたことが、はたしてあるであろうか。
 せめて、<筒井家記>のように、京へ向うための途中で「包囲されている」と本能寺の変をきき、「急いで駆けつければ間に合う」とは迷ったが、「信長公を助けに行くべきではない」と思ったから止めた。そして罪滅ぼしに髪を切った、というのなら、まだ、すこしは話にもなるが、これでは、てんで変てこではあるまいか。
「抗命拒否」つまり宮津師団だけは、のっけから信長の至上命令に背いて、出動をしなかった。ということになってしまう。
 だから、常識の線にたてば、この<細川家記>の記載は、まったくのフィクションで、細川父子も京に六月二日早朝は入っていたか、又は近づいていたかであろう。これは作為されたアリバイである。なんといっても、
「天正十年六月二日の暗い内」までは、織田信長は、絶対的な国家主権者である。
 何十年と奉公してきた者でも、その逆鱗に触れたら、前年の林道勝、佐久間父子、安東伊賀守らのように追放されている。
 それを承知の上で、敢えて命令に従わず、六月三日に到るも、のうのうと宮津の城内に父子共に、まだ居座っていたという細川父子の横着な態度を示す、この、
<細川家記>を、従来の歴史家のように全面的に信頼するとすれば、これは、とりも直さず、
(細川父子が預言者ヨハネでない限り)予め、つまり前もって「六月二日朝のクーデターを予知していた」と、しか考えられない。でなければ、当日の実行部隊である。
 前にも書いたように、老の坂のある大江山は、丹波ではあるが飛び地としてこの当時は丹後の細川領で、京への関所だから、細川番所が並んでいたのである。この領内から出兵すれば、細川父子は二日の午前中に目的をすませ、三日には悠々と、宮津へ戻って居られた筈である。

---引用ここまで---
信長の命令に反抗して、生き残ったのは、吉川英治の新書太閤記だったと思うけど、それを信じれば秀吉くらいでしょう。

細川親子が髻を切って信長に弔意を表し、光秀に味方しなかったのは大抵の本能寺の変の小説に描かれています。でも、よくよく追求すると、これは本当に信じがたいことなんですね。

---引用ここから---
 ところが<細川家記>では、原文をひけば、
「これより先に幽斎は、家老の米田(よねだ)求政(もとまさ)を京へ遣わして、信長父子の上洛、且(か)つ佐久間甚九郎の勘気赦免を喜び聞えんとせられしを、求政が、今出川相国寺門前に着せし時、本能寺の変を聞きしかば、愛宕下坊幸朝と相(あい)議(はか)り、早田道鬼斎というものを急ぎ丹後にさし下す。このとき忠興は、中国出陣の筈にて、先手はすでに押し出したりしに、道鬼斎は泥足にて広間に走り上り、文箱をさし出して、本能寺の変を告げまいらす」という事になっている。
 佐久間甚九郎というのは、天正八年大坂本願寺攻めを怠っていたと勘当状をつきつけられ、高野山へ放逐された佐久間信盛父子の子の方である。しかし、これは織田の家では先代から奉公の家系の譜代衆。それを、ここ十年くらい前から足利義昭を捨てて信長に奉公した新参者の細川幽斎などが、仲へ入って勘気を願うとか、取持をしたというのも訝しい。だいいち赦免になったのは、この時ではない。それは本能寺の変後であって<寛政譜>によれば、織田信雄に仕え、小牧長久手合戦では秀吉方の尾張蟹江城を攻めている。細川幽斎が喜んでくれるように、彼の骨折りで勘気が許されたものならば、まさか二年後に、細川にそむき、反秀吉方の陣営にたつ事は、まずあるまいと想われる。
---引用ここまで---
本能寺の変を告げに来た人物は、本当に家臣だったのか怪しくなってきてますね。

---引用ここから---
 さて次に、「信長父子の上洛」というが、なにも父子揃って上洛してきたのではない。信長は、本能寺の変の二日前の五月二十九日の上洛だが、信忠は違う。
<信長記>の五月十四日の条によれば、「丹羽長秀が仮殿をたてた江州番場に、家康と穴山梅雪が一泊して安土へ向かった後、信州諏訪から凱旋してきた信忠も通りかかって、立ちよって休憩、長秀が一献献上した」とある。
 つまり、<細川家記>に「これより先」と書かれているのは、信忠が上洛した頃をさすのであろうか。すると、五月十六、七日か二十日ぐらいの事になるが、その頃から、丹後を出発して、六月二日の事件当日の最中に、彼米田だけが一人で京へつき、しかも相国寺前の私宅へ着いたと言うのは、どうしたことをいうのだろうか。この当時、丹後宮津から京までは途中で物見遊山しても、二日しかかからない事は、<西国紀行>にもあるし、また当然なことである。だから米田という家老が主命をおび、真面目に歩いて来たものならば一日か、一日半の道程である。それが半月掛りの計算である。
 そして普通なら、細川の京屋敷へ直行すべきなのに<細川家記>には肝心な、殿様の屋敷はなくて、米田個人の私邸。しかも今出川の相国寺前というのは、この後、大坂方の残党の長曽我部盛親が寺小屋を開いていたような、京における下町である。そう
いう場所に米田の京邸があったとは、まるで妾宅でも連想しそうな粋な書き方である。
 だが、殿様に京屋敷がなく、家老だけが別邸をもっているなんて事は、考えられもしない。全く奇妙である。
---引用ここまで---
これより先にをいつと見るかで日程は変わるので、そちらは判断保留。

---引用ここから---
 さて、次に、ここで大切なのは、
「愛宕(あたご)下坊幸朝」という人名である。つまり、愛宕権現の下坊の神官で「幸朝」という男が、ここに出てくるのである。この愛宕権現というのは、細川幽斎の上の娘の伊也を再嫁させた京の金融を司っていた吉田神道の兼治の出店にもあたる神社なのである。
 後世になると、愛宕山頂の勝軍地蔵を拝みに、出陣前の諸将は登山したように伝わっているが、実際は戦費の借出しに行ったのである。そして、金策がつくまで連歌をしたり、茶湯をたてて待っていたのは、(今日でも、預金者は入口の腰掛けで待たせても、貸出の客には、何処の銀行でも応接間へ通して、そこで茶を振舞うのと)同じである。
 そして、
「五月二十八日に愛宕へ登山した光秀が、二十九日に(その日は土砂降りの雨なのに)西坊から下山したに相違ない」。六月二日の午前九時すぎまで光秀の姿は京で見た者はいないが、その前日の六月一日まで愛宕にいたような事は、絶対にない」
 と、後になって証言するのが、この下坊の幸朝である。
 といって、この男は、予め信長が六月二日朝殺されることを知っていて、愛宕山から下って、洛中の米田と連絡をとっていたのか。それとも米田が、愛宕山まで駆け登って相談に行ったのか、ここは判らない。
 ただ、<大日本神祇史>並びに<山城名勝志>によると、
「愛宕神社は<延喜式>に丹波国桑田郡阿多古神社とある、是なり、丹波、山城両国の境にあり、当今は山城国葛野(かどの)郡に属す。東西南北に四坊ありて栄ゆ」とあって、西坊とか東坊というのはあったが、<細川家記>に出てくるような、下坊や上坊はない。たぶん米田との打合わせしやすいように、山頂では訝しいから、この時点だけ、まるで麓にでもありそうなと想えそうな、下坊なるものを、文字の上だけで作って、辻褄を合わせたのだろう。また、
「中国出陣の筈にて、先に、先発隊は押し出し出陣していたが」と、まことに苦しそうに説明しているが、いやしくも信長の命令なのに、「筈にて」というのも訝しい。また先発の部隊がすでに出ているのに、後続部隊は、まだ宮津城にて、オイチニとやっていて、幽斎や忠興は、暢気に城中にいる程の陸続とつづくような大部隊を、当時の細川はもっていたのだろうか。どうも信じられない。
---引用ここまで---
実際には存在しない下坊が出て来るあたり、信憑性が少ないですね。

---引用ここから---
 それに奇怪すぎるのは、信長の死体が本能寺に見当らず、生存説も高くて、四日、五日ずうっと洛中が騒いでいる時に、丹後の宮津城から動かなかったという細川幽斎と倅の忠興が、自信をもって、死を確信し、
「死んだ信長様への供養」と称して、父子揃って、バッサリ髷を切ってしまった事である。こんな不可解な事があるだろうか。
---引用ここまで---
確かに判断が速すぎる気がしますね。

この後、細川家の不自然な加増についても八切氏は疑問を持っているようです。たしかに、加藤清正よりも武勇が優れている細川家とは思えないんですが、清正は肥後の国半分で、細川は後に肥後一国です。

まだこの章は続いてますが、ちょっと長くなったので、続きは後で。
以下は7/20の追記。

この後、二条城での攻防に着いての記述がありますが、ちょっとだけ順序を変えて引用したいと思います。
まずは本能寺の変の10年ほど前です。

---引用ここから---
 十年前の、この二条城攻撃の時に、信長は、その全勢力をもってしても落とす事ができずに、<東寺>の<光明過去帖>に残っているように、上京(かみきょう)の二条から北を、すっかり焼野原にしてしまって、攻め易いようにまでして、改めて城の四方に、見下せるくらいの高い望楼の砦を構築。そこから、当時の輸入されていた火薬を使って攻撃。
 だが、どうしても落城させる事が出来ずに、とうとう正親町帝に願い出て、勅使下向を仰ぎ、やっと開城させた程のところが、どうして、僅か、たった一日。それも数時間でかたがついてしまったのか。
 二城城の周囲は、本能寺と違って、4米(m)幅の深い濠、跳ね橋をあげたら中へは一人も入れない。つまり普通の状態なら、何日でも篭城できる状態である。それに信忠は、なにも血戦するために、そこへ入ったのではない。
 安全を期するために、ここへ逃げこんだのである。それが一時間か二時間で全滅。
 まったく話が合わない。そこで<当代記>や<信長公記><川角太閤記>では筆を揃えて「二城御所に隣接した近衛関白邸の大屋根によじ登った兵士が、そこから二条御所の中を狙い撃ちして、全滅させた」と記述している。
 もちろん一緒に筆をとって同時に書かれたのではないから、この中のどれかが書いたものを、他の筆者は、そっくり失敬しただけだろう。だが、近衛関白邸が右隣だったら、左側に移ってしまえば、狙撃は免れる筈である。何故、信忠以下五百の精鋭は、わざわざ撃たれるために近衛邸の側よりに集まってゆき、そこで全滅したのだろうか。
 こんな可笑しな話があるだろうか。
---引用ここまで---

二条城が堅固な城であることや、義昭がここに篭って籠城したとき、信長は攻めきれなかったと以前書かれていましたが、その詳細がようやくここに出てきたということでしょう。そのように堅固な二条城が短時間に落城した理由について、このようにかんがえているようです。

---引用ここから---
 さて、<当代記>の原文で、さきに示したように、寄手が二城城へ近よりながら、あまり戦意を示していなかった点でも窺えるが、二城城にいた信忠の軍勢は寄手と同志討ちを、結果的にはしたのではあるまいか。
 つまり、城の内部と外部の双方へ、まったくの第三者から、不意に攻撃というか、爆弾でも仕掛けられたら、そういう結果を生じたかも知れない。なにしろ、混乱と昂奮が渦を巻き、それに六月一日は大雨だったが、この日は晴れていて暑い。
 当時の洋暦では六月二十一日になるが、現在の太陽暦では七月一日にあたっている。眩しいくらいの夏の陽ざしに照りつけられている双方の軍勢が、幻のような敵‥‥つまり僅かな少数の、目につかぬ相手から、着火された爆薬を擲げこまれたら、これは、
双方とも、それとは気付かずに、初めて寄手と城内の信忠勢との間に血戦が、ふって湧いたように開始されたかもしれない。

(上の引用部分なので中略)

こんなに短時間のあっけない全滅というのは、閉じこもった信忠勢に放りこまれた新型の爆薬としか、考えられはしないだろう。
 だが、これは一応この侭にして、また本能寺へ戻ろう。
---引用ここまで---

マカオから輸入されていた火薬に注目していた八切氏らしい推測だと感じます。

この後、前日の大雨でまだ濡れていた本能寺の建物が、全焼するだけでなく、隣の家屋まで焼いてしまっている事実の不審さを書かれ、

---引用ここから---
 こうなると、これまでの俗説のように、
「信長が、もはや最期と思召され、本能寺に火をつけ、お腹を召された」という話は、まったくのデフォルメになってしまう。
 しいて自害とみたいなら、また、<当代記>にある「終(つ)いに、御死骸見え給わず」という答えにあわせるためには、硫酸の水槽へとびこんで、身体を融かしてしまうか、その屍体の始末方法はないはずである。
 しかし、この時代に硫酸は、まだ日本にはない。
 すると、信長は、「弓もひかず、槍もつかず、火もつけず、腹もきらず」という事になる。
---引用ここまで---
腹を切ったかどうyかを判断する手がかりは実際は無いと思うが、戦国時代の武将が簡単に諦めたり、名を惜しんで腹を切るというのは個人的には考えにくと思う。

次の章は、信長は腹を切らないの中の最後の章ですが、大村由己の天正記の「本能寺」と「二条御所」関連の引用ですが、省略します。



おまけの動画。
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『信長殺し、光秀ではない』 32





信長は腹を切らない・筒井記(208~212ページ)

八切氏は、追求資料が足りなくなったために、俗悪書とされているものも読みあさりだしたことが書かれている。

---引用ここから---
 すると、その中に<筒井家記>もあった。この本には、別に<増補筒井家記>と二種類があるが、私が、これは、この種のものの中では真実性があるまいかと、気になったのは、その前者の方である。
 というのは、勿論、光秀を謀叛人にしている点では、他書と大同小異であるが、どうも内容が、あまりリライトされていなくて、天正十年の当時に、比較的、もっとも近い時点に書かれたもののように想えてきた。
 つまり「ああである」「こうである」と尤もらしい筆で、押しつけがましい説得力のくどさがなくて、他書に比べると、少し間が抜けたような部分も多いので、こちらの判断を押し込んで読んでゆくと、非常に思い当たる箇所もすくなからず見つけられた。
 まず、この歴史家の相手にしない<俗悪書>は、「信長公より出兵の命令が出たことをきき、秀満、治右衛門、伝吾、庄兵衛、及び妻木主計頭、四王天但馬守、並河掃部助ら十三人がより集まって『信長の無道と、将来の利害』をもってとき、主人の光秀に謀叛をすすめた」
 と、これを説明している。
(秀満、妻木、並河というのは、講談で作られた人名ではなく、実在の人物なのである)
「そこで、光秀も熟考ののち、坂本城に入って、これを利三以下のおもな人々に計り、また叛逆の慫慂(しょうよう)を十三人から、しきりに受けて、ついに決心をした。そして、兵を亀山に集めることに定めて、二十七日に坂本を発して、丹波亀山へと赴いた」となっている。珍らしく、これは光秀を受け身として扱っている。そして、「信長から光秀に出兵の命令が出たのは、五月十七日であるから」決心説としては<川角太閤記>や<甫庵信長記>より、この方が、とびきり早期説をとっている。
 そして今日でさえ、光秀が犯人だとは言いながらも、「違やあしないかな」という引っ掛りがあるように、四世紀前にも、この疑問は相当拡まっていたのであろう。
 だから、
「光秀は、その気がなかったのに、よってたかって十三人の者が、彼をそそのかしたのだ」
 という、いかにも、真相らしいような説である。だが、この筆者は当時洗礼を受けていた人間と、想われる節もある。
 何故かというと、光秀を受難の聖者にみたてている筆致だからである。つまり十三人の家臣というのは、十三人の使徒を、なぞらえているような匂いがする。この中に、一人のユダが混じっていた。その男の為に、光秀は煮え湯を呑まされたのだ。つまり、「その秘密を、ここには書けないが、本当は知っているんだ」
 といわんばかりのような箇所さえも見える。
---引用ここまで---
家臣の名として出ている秀満は、春日局の父親です。謀反人の家臣の娘が家光の乳母になれたのは、光秀を説得して本能寺の変を起こしてくれたので、家康が信長から討たれる事を防いだ事を感謝したからなのかとちょっと思ったりしました。でも確証はまったく持っていませんけど。

---引用ここから---
 そして、この<筒井家記>が「俗悪書ときめつけられている理由」たるや、これは<川角太閤記>や<信長公記>が、みな、筆を揃え、「中国(備中)へ向うのなら三草山を越えていくべきなのに、東向きに馬首を転じ、老の山(大江山)へ上り、そこから京へ向かった」
 と、これが光秀の叛乱行動の第一歩で、「この方向転換こそ、計画的逆心の現れである」と、ただそれを、唯一の確証として決めつけ、光秀が備中攻めを仰せつかっているのだから、「西へ向かって進撃すべきなのに、京都へ向かったのは怪しい」けしからんと、同じように書いているのに反して、この<筒井家記>のみは、悠々と違う事を記載しているからである。
 つまり、
「備中赴援に、明智組下として出向するよう、安土より命令を受け、居城大和の郡山城を出発し、京へ向け上洛しようとしたところ、途中にて、本能寺の変をきき、信長公は、ひとまず安土へ戻られたゆえ、京へ行かずにすむと、六月二日、そのまま郡山へ引きあげ、翌三日には、筒井の砦のある大安寺、辰市、東九条、法花寺へ、引き上げた兵を戻して、そちらを守らせた」
 と出ている。つまり「筒井軍も一応は京へ向かった」と、これは各書と全然、相違するからである。
 だから「俗悪」の烙印を押されているらしい。

 しかしである。この<筒井家記>をみると、
「京都から、出陣の用意ができたら本能寺へ来い」と信長の命令があったというのは、光秀の詐称ではなく、事実ではなかったかと思われる。
 筒井順慶の軍勢に上洛するように信長からの指令が出ているものなら、その寄騎親であり司令官である光秀にも、必ずや、通達は出ている筈である。
 そうなれば、これは嘘ではない。
 本来ならば、光秀が命令受領をしてから、各管下の筒井や細川、高山の各部隊へ連絡すべきだったが、それでは間に合わないと見て、信長から各部隊宛に同文指令が出たのではあるまいか。
 と言うのは、これは六月一日の喰い違いである。
 信長は、その前日の五月二十九日に、いと手軽く考えて、(あるもの)を一掃する目的で上洛した。処が現実に於て、六月一日になると折柄の雨天をついて、招かざる太政大臣や関白らに押しかけられた。思いもよらぬデモ騒ぎである。しかも、忙しいのに、五時間も六時間もねばられてしまった。手をやいてしまった。
「大慶々々」と山科言経たちは帰っていって、自分の家で前祝いの祝杯をあげた。
 しかし信長は、忙しい最中に、なにも公卿達を喜ばせる為に上洛したのではない。あまり集まった公卿共がうるさいから、なんらかの形で譲歩したにすぎない。そこで早速、次の手段を何か考えたのであろう。それは今も昔も同じである。デモに対しては、実力行使の機動隊である。
 それを召集するために「用意ができ次第上洛せよ」と、明智を寄騎親とする出動準備中の各部隊に対し、緊急通達がされたのではあるまいか。名目は「検閲(けんえつ)」であったとしても、信長が何を一掃しに上洛したか位は、近畿管区の武将は、前もって知
っていたのだろう。だから臨戦体制で洛中へ入って行ったのだろう。
---引用ここまで---
おそらく、公家や天皇に圧力をかけたかったのでしょうか?

この後、大江山から京に向かうと、細川番所を通ることになり、隠密に京に向かうことは不可能でないかということも八切氏は指摘している。そのようなことから、信長の命令で京に向かった可能性が高いと八切氏は考えているようです。



加計問題はそろそろ収束かなとちょっと前に書いたんですが、どうもマスコミは、そのような事実は見たくないようで、青山氏の国会質疑はまったく無視されたままですね。

松居一代の件は、裏取りしているマスコミ(文春)も、加計問題では裏取りもしないし、両論併記で報道するということもない。どうもこれは、マスコミの人間は、マスコミの記事で世の中を動かしたいと考えているからではないかという、武田邦彦教授の説が当たっていそうですね。でも、マスコミの人には、そのような野望は捨ててもらいたいものです。そんな野望を持っているなら、どんどん選挙に打って出て、政治家になってもらいたい。世の中を変える役割を持っているのは政治家です。

クマが出たのだから、悩むことなしに、

害獣駆除に取り掛かってほしいものです。

北秋田市の男性職員 遺跡でクマに襲われけがというニュースをテレビでみました。

いずれリンクが切れてしまうので、引用もしておきます。

---引用ここから---
7月14日 18時51分

クマの目撃情報が相次いだため一般公開をとりやめていた秋田県北秋田市の遺跡で、14日、市の男性職員がクマに襲われてけがをしました。警察によりますと、職員は意識があり命に別状はないということです。

14日午前9時半すぎ、北秋田市にある伊勢堂岱遺跡で、市の50代の男性職員がクマに襲われて顔などにけがをしました。職員は意識があり、命に別状はないということです。

北秋田市によりますと、伊勢堂岱遺跡はクマの目撃情報が相次いでいたため、先月18日から一般への公開を取りやめていました。

14日は、自治体関係者の視察が予定されていたため、職員が県の職員などと4人で「環状列石」と呼ばれる遺跡の近くで、クマよけの爆竹を鳴らす作業をしていました。

クマは体長およそ1メートルで覆いかぶさるようにして襲ってきたため、音を出すなどして追い払ったということです。

伊勢堂岱遺跡は、国の史跡に指定されている縄文時代後期の遺跡で、市は15日から遺跡の一部で一般公開を再開する予定でしたが、今回の事態を受けて、一般公開を中止することを決めました。
---引用ここまで---

伊勢堂岱遺跡は、道路工事をしたところ、土器が出てしまい、発掘調査したところ遺跡であることがわかったという場所です。土器が好きで土器を見るとドキドキするという人は一度訪問した方がいいと思います。

・・・・・・

それにしても、秋田県はクマの駆除ということを何故考えないんだろうと感じます。今回もクマによってけが人が出ています。普通の自治体なら、一般人が入らないように封鎖するとともに、害獣駆除を行っているのではないかと感じます。
それに秋田県は元々マタギの里。クマを取った猟師が、熊の胆を売り歩き、そしておそらく秋田県にはもともとなかったバターを手に入れ、バター餅というものが作られました。(一部想像あり。でもバター餅はマタギの携行食とも言われているようです。)マタギに狩られてもクマは絶滅せずに現在まで生き残っています。現在はマタギ(猟友会)が高齢化で減ったためか、それとも、杉が売れないために雑木が増えてきて、クマの餌も増えてきたためか、クマが増えてきている感じがします。食物連鎖のバランスを考えてもクマの頭数は減らしたほうが良さそうに思えます。

問題は、猟友会が高齢化してしまっていること。ですから、自衛隊にも協力を仰ぎ、駆除をすることを考えてもいい時期に来ているのではと考えます。



おまけの動画。

加計問題もそろそろ終わりかな

ちょっと長いですが、青山繁晴参議院議員の国会質疑の様子。

今回の加計学園をめぐるニュース報道には、個人的には違和感しか覚えなかったんですが、この青山氏の質疑の内容が広まれば、加計学園問題は終了ではないかと個人的には思えました。やじが出ていないことも、すごいなと感じます。

個人的に、問題だと思っていることとして、

1.公務員には守秘義務があり、それは辞めた後にも義務は続くので、前事務次官は確実に守秘義務違反である。ですから、文科省が訴えた段階で前事務次官は逮捕されるはず。それが未だに逮捕されていないことから、文科省は前事務次官に対して、守秘義務違反で訴えていないことが考えられます。何故訴えないのか?

2.加計学園問題は、メモが問題の発端なんですが、テレビなどのコメンテーターはメモも公文書として残さないといけないと言っていましたが、バッカじゃなかろうかと、思わずテレビに突っ込んでしまいました。私が考える公文書とは、上司が承認した判がある書類とか、会議で話し合った後に纏められた書類とかが公文書で、メモは私文書だと考えます。作業文書でしか無いメモは、公文書をしっかり保管したら、残す必要はないと思います。なんでテレビのコメンテーターはこんなに劣化してしまったんでしょうか? 

3.自由党の森議員は、前事務次官は内部通報者だから、守秘義務違反でなく内部通報者として保護すべきと国会で言ったことがすぐニュースになりましたが、それに対して文科省はたしか、どのような違反になるか調査中という答えだったと思います。法律を審議する国会では当たり前の答弁だと思うし、法治国家である日本では、法律を遵守しようとする態度はものすごく当然の姿勢だと思います。それに対して、森議員は大声で恫喝するような姿勢で追求してましたが、恫喝ではなく、論理的に追求してほしかったということもありますが、そのときにテレビのニュースが、森議員擁護のような感じの報道が多かった(少なくとも私が感じた限りでは)のは何故なのか?
内部通報者と言うのは、元自衛官が中国軍隊の尖閣諸島への違法な侵入・侵攻とそれに対する自衛隊の防御に徹するしか無い現実を国民に知ってもらうために守秘義務違反を覚悟して外部に出した後に出てきた考え方でないかと思います。でも今回は、私は内部通報者とは思えないんですがね。規制緩和でようやく進んだ事業をちゃぶ台返ししただけで、今回の暴露には公益性はないと思います。

と、個人的に可怪しいなというところはありますが、こんなところで、加計問題は収束に向かうのかなと感じます。

雪沢産じゅんさい、手に入れることができず残念

秋田県はじゅんさいの産地です。能代・山本地区の三種町森岳が全国収穫量1位で、全国的にも有名です。

でも、大館市に住んでいる私としては、雪沢産じゅんさいを押したい。

森岳産じゅんさいは、大きさを揃えているところが、火の通り方まで気にする料理人にとっては使いやすいのかもしれません。それに、生産量が多いので、確実に手に入れることが出来るのも利点です。

対して、雪沢産の方は、たったひとりの人が、沼に入って、泥に足を取られながら収穫しているため、収量は微々たるもんです。そのかわり、森岳では資源保護のため収穫していない最先端の大きい芽も収穫しているため、不揃いですが、ノリと呼ばれるゼリー状の部分が多いことが一番の利点です。

ここのところ、秋田県では夏日が続いているので、生姜醤油でツルンとじゅんさいなんかを食べたいところです。それで、水曜日(7/5)、今日(7/9)(と、ゆきさわ産直センターに足を伸ばしたんですが、水曜日は収穫がなく、今日は午前中に全部売れてしまったとのこと。特に今日は、一人で数キロ纏めて買っていった人がいたとのこと。ううむ。小料理屋かどこかに先を越されてしまったか。

・・・・・・

3日くらい後にまた行ってみるとするか。



一応ネット通販も有るみたいですが、そもそもの生産量が少ないので、買えるかどうかはわかりませんがリンクを張っておきましょう。
小田柳さんの生じゅんさい【無選別】

じゅんさいは、一度湯通しをしてから食べる食材です。湯通し後のノリの多さを見ていただきたいと思います。


プロフィール

kaneya

Author:kaneya
もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。
真似してもいいけど、その場合は自己責任でお願いします。

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