もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

公開講演会『戊辰戦争150周年-秋田藩北部の展開-』

バイトから帰ってきてからこのブログを書いてます。

昨日6月2日午後1:30から、中央公民館で、北羽歴史研究会と大館郷土博物館の共済で、タイトルの講演会がありました。
公開講演会『戊辰戦争150周年-秋田藩北部の展開-』

講師は今回は二人ですが、私は前半の講師から連絡があったので聞きに行ったわけです。畑中氏は私のいとこみたいな関係ですから、連絡が来たわけです。
公開講演会『戊辰戦争150周年-秋田藩北部の展開-』

バイトの時間もあり、前半だけ聞いてきたわけですが、後半の講師は、配布資料によれば、秋田藩に攻めた盛岡藩のことも解説してくれたみたいです。
公開講演会『戊辰戦争150周年-秋田藩北部の展開-』

夜のバイトのせいで、昼食後はとても眠い時間帯です。ですから、今年のこの講演会も記憶が飛んでいる時間帯がありました。
ですから、覚えている範囲内で書きます。

今回の講演会では、市の教育長の挨拶もありました。大館市では歴史まちづくり法を使って市の開発をしようとしています。ですから、北羽歴史研究会の活動に期待する、といったような内容の挨拶でした。

今回は、もしかすると、そんなことにも配慮したのか、戊辰戦争において、大館の武士は頑張ったんです、ということを繰り返し述べていた感じがあります。

・・・・・

やっぱり眠くなったので、一時中断します。

(一晩経過)
さて、続きを書くか。
今回は、どうやら歴史まちづくり法による町づくりを進めようとしている大館市関係者から、観光につなげることができそうなことを、何てことを言われたのかな? NHK大河ドラマでは西郷さんが主役ですから、幕末から明治にかけての事件である戊辰戦争をネタに観光客を呼び込みたい大館市というのを、なんとなくですが感じてしまいました。それとも、大館市にある北羽歴史研究会に対する一種のサービスなんでしょうか。大館市の武士はすごかったんです、という話は。

戊辰戦争は、前半の横手戦から始まる、秋田藩のお偉いさんが指揮していた戦闘は負け戦。戦闘が大館に及び、ようやく押し返しています。当時秋田県に他所から来た指揮官は、戦闘になると神経性(?)腹痛になって戦線から離脱したり、戦闘が不利になるとまっさきに逃げたりしていたそうです。指揮官がこれでは弱いわけだ。そして大館での戦果を上げたのは地元の武士が指揮するようになってからのようです。

私は講演の前半で帰りましたが、帰る前に畑中氏とちょっと話ができました。佐賀藩から来た明治政府から来ている指揮官の武士や秋田藩本家から来ている武士は自分がまっさきに逃げたりしているから大館の武士は偉かったと言うような話をまたしていたので、やっぱりこのへんは北羽歴史研究会へのある種のサービスかも。
公演を聞いているときに一瞬大館戊辰戦争はベトナム戦争か、とも思ったんですが、大館盆地はジャングルでもないし、流石にそれはないかと思いました。そして、畑中氏に思いついたことを言ったんですが・・・・・。
偉い武士は、すぐ逃げるものだと思います。自分から先頭を切って戦っていたイメージの強い信長でさえも、桶狭間の戦以降は、負け戦とわかると、真っ先に逃げています。大将が生きている限り、復帰の芽は残るわけですから戦死するよりはマシ。

一生懸命という言葉は、一所懸命という言葉が元になっているそうです。一所(ひとつところ)を命を懸(か)けて守るという意味です。領地を守る、土豪の武士という感じです。そして、大館の武士団がそれに当たるんでしょう。そんな事を言いました。(ちょっと言葉は足しています。)

戊辰戦争は、明治政府と幕藩体制の衝突と見ることも可能なわけで、明治というのは実は明るい時代ではなかったのではという雰囲気も感じます。落語の演目は、江戸時代が多いわけですが、おそらく明治当時に作られた、明治時代の新作落語もあったはずと思うんですが現在に残っていません。落語全部を知っているわけではないので、あったらごめんなさい。でも、古典落語の殆どは江戸時代であることは否定はできないと思います。江戸の頃の風情を好む人が明治の新時代を好む人よりも多いのはなぜか考えてみると、実は明治時代は暗い時代だったのかもしれないと感じたりします。

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山田風太郎の明治物は、明治時代は決して明るい時代でないことが書かれています。柔道を創始した嘉納治五郎も出てきます。もちろん実際はここに書かれていたような活躍はないと思いますが。

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おまけですが、私は行政主体の、歴史まちづくりによる観光にちょっと疑問を感じてます。教育長の挨拶からちょっとそういう方向性を感じてしまったもので。
大館市は、大火の町で古いものは殆ど残っていません。大館戊辰戦争で大館の武士は奮戦したと言っても、その武士が有名でヒーローとなっているわけではありません。前田慶次は実際は小説で書かれたような人物でなかったらしいですが、隆慶一郎氏によって魅力的な人物として描かれ、原哲夫氏による漫画のヒットでさらに人気に火が付きました。それによって直江兼続のように、地味だったのに人気が出た武将のもいます。そのくらいになれば、観光客を引っ張ることも可能になるでしょう。では、大館戊辰戦争で誰を目玉に?

東北地方はどちらかというと、中央に踏みつけられてきた歴史があるだけに、実は東北地方はすごかったんだという話題が出ると嬉しくなってすぐそれを祭り上げたりしますが、それでサギが起きたりします。

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今回のアフェリエイトは一部試し読みができるみたいです。偽書「東日流外三郡誌」事件はまえがきとあとがきを見ると筆者の言いたいことが全てわかってしまうという本ですから、そこのところを読んでもらって、くれぐれもサギにかからないようにと思ったりします。
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北羽歴史研究会の講演に行ってきました。

1月20日に、大館市中央公民館で行われた、北羽歴史研究会の講演会「英雄なき戦場-秋田藩戊辰戦争の実像-」を聞きに行ってきました。

北羽歴史研究会の講演に言ってきました。

公演を行った講師、畑中康博氏は、いとこづきあいをしている間柄で、連絡があったので講演に出かけたわけです。普段は県立博物館に勤務してます。

戊辰戦争では、秋田藩は最初新政府側、途中で奥羽列藩同盟側、最後の方ではまた新政府側となったので、東北の中では秋田県はあまり好感を持たれていない感じがします。なんというか、関ヶ原での小早川みたいな感じに見えてしまいます。

私のいとこで花輪に住んでいる人がいますが、花輪を含む鹿角地方は元々南部藩の領地ですが、秋田藩が新政府側に着いたということで廃藩置県のときに秋田県にくっつけられたとようです。でも今現在も南部文化圏で、秋田県に買い物に来るよりも盛岡なんかに買い物に行く人が多いそうです。政治的に境界を変更しても人間の意識はなかなか変わらないみたいです。

公演では、古文書から戊辰戦争に迫っていました。

幕末での侍は、経済的に貧窮してしまったため、鎧兜がない、石高に応じた兵数を出せない、鎧櫃は何とかあってもそれを運ぶ馬がない、ないないづくし。
それで領主が出陣を命じた所、早速質問書が領主に出され、それが記録として残っています。
質問の中に具足は貸してくれるかという質問もあったそうで、当時の武士の困窮が伺えます。それに対する答えは、具足がなかったらそのまま出陣しなさいだったそうで・・・・。

なんというか、当時の戦闘に赴いた武士は、戦後にいざという時に証拠として出せるように戦場でも記録していたそうで、時代劇ではでてこない戦闘の実態が浮かんでくるというか、古文書が読める人に解説してもらうと結構面白いですね。
・・・・もっとも、一瞬記憶が飛んでいる時間帯もちょっとありましたが、・・・・・・・

当時の秋田藩は、東北の中では会津藩、仙台藩、庄内藩などには勝てないため、奥羽列藩同盟に迫られるとそちらに味方し、新政府の方から命令が来ると、もう徳川家は大政奉還してしまっているので、そちらの命令を聞き、という状態になってしまっていたのですが、当時の秋田藩の領主・閣僚たちが何とかその間で生き残りをかけてジタバタしていた感じが古文書から伺えるとのことでした。

最後の方で、横手の古文書、秋田市の古文書は解読が始まっているが、大館市の古文書がまだ見つかっていないとのことで、探していただけたらとのことも話していました。

大館市は過去に3度の大火を経験していますし、戊辰戦争の後半では奥羽列藩同盟を裏切ったということで、大館市の花輪よりの十二所が焼き討ちにあったりしています。ですからもう残っていない可能性もなくはないんですが、探してほしいとのことです。旧家の方であるという方は、郷土博物館あたりに寄贈してくれたら、いずれその古文書の解読が進んで、今までわからなかった秋田県の歴史の謎が解明されるかもしれません。



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