もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 33





信長は腹を切らない・細川記(212~221ページ)

<筒井家記>は明智の寄騎として、京に向かったことが書かれているが、そうならば、他の寄騎、細川、高山、池田、中川も当然京に向かって進軍しているはずだと、八切氏はにらんでいるようである。そして、<筒井家記>では六月二日の早朝に出発したことになっているが、親分である光秀よりも子分である筒井がゆっくり移動するはずはないだろうから、寄騎衆は、六月一日夜半に、部下を率いて出動していたはずだと確信しているようである。

そして、<細川記>に対して厳しい追求を試みている。

---引用ここから---
つまり、この時点で、信長の動員令が下って、方面軍指令官の光秀を初め、寄騎衆の各師団が京へ、集結に向かっていると言うのに、この細川家の宮津師団だけは、
「六月三日になりて、本能寺の変を、その居城の丹後宮津城にてきく。細川藤孝及び御長子の忠興のご父子は、早速に、もとどりを切り払われ、信長公に弔意を表し奉り。このとき藤孝の大殿は、世をはかなみ直ちに隠居。一切をあげて忠興公に委ねられる」
という。
 こんなバカげたことが、はたしてあるであろうか。
 せめて、<筒井家記>のように、京へ向うための途中で「包囲されている」と本能寺の変をきき、「急いで駆けつければ間に合う」とは迷ったが、「信長公を助けに行くべきではない」と思ったから止めた。そして罪滅ぼしに髪を切った、というのなら、まだ、すこしは話にもなるが、これでは、てんで変てこではあるまいか。
「抗命拒否」つまり宮津師団だけは、のっけから信長の至上命令に背いて、出動をしなかった。ということになってしまう。
 だから、常識の線にたてば、この<細川家記>の記載は、まったくのフィクションで、細川父子も京に六月二日早朝は入っていたか、又は近づいていたかであろう。これは作為されたアリバイである。なんといっても、
「天正十年六月二日の暗い内」までは、織田信長は、絶対的な国家主権者である。
 何十年と奉公してきた者でも、その逆鱗に触れたら、前年の林道勝、佐久間父子、安東伊賀守らのように追放されている。
 それを承知の上で、敢えて命令に従わず、六月三日に到るも、のうのうと宮津の城内に父子共に、まだ居座っていたという細川父子の横着な態度を示す、この、
<細川家記>を、従来の歴史家のように全面的に信頼するとすれば、これは、とりも直さず、
(細川父子が預言者ヨハネでない限り)予め、つまり前もって「六月二日朝のクーデターを予知していた」と、しか考えられない。でなければ、当日の実行部隊である。
 前にも書いたように、老の坂のある大江山は、丹波ではあるが飛び地としてこの当時は丹後の細川領で、京への関所だから、細川番所が並んでいたのである。この領内から出兵すれば、細川父子は二日の午前中に目的をすませ、三日には悠々と、宮津へ戻って居られた筈である。

---引用ここまで---
信長の命令に反抗して、生き残ったのは、吉川英治の新書太閤記だったと思うけど、それを信じれば秀吉くらいでしょう。

細川親子が髻を切って信長に弔意を表し、光秀に味方しなかったのは大抵の本能寺の変の小説に描かれています。でも、よくよく追求すると、これは本当に信じがたいことなんですね。

---引用ここから---
 ところが<細川家記>では、原文をひけば、
「これより先に幽斎は、家老の米田(よねだ)求政(もとまさ)を京へ遣わして、信長父子の上洛、且(か)つ佐久間甚九郎の勘気赦免を喜び聞えんとせられしを、求政が、今出川相国寺門前に着せし時、本能寺の変を聞きしかば、愛宕下坊幸朝と相(あい)議(はか)り、早田道鬼斎というものを急ぎ丹後にさし下す。このとき忠興は、中国出陣の筈にて、先手はすでに押し出したりしに、道鬼斎は泥足にて広間に走り上り、文箱をさし出して、本能寺の変を告げまいらす」という事になっている。
 佐久間甚九郎というのは、天正八年大坂本願寺攻めを怠っていたと勘当状をつきつけられ、高野山へ放逐された佐久間信盛父子の子の方である。しかし、これは織田の家では先代から奉公の家系の譜代衆。それを、ここ十年くらい前から足利義昭を捨てて信長に奉公した新参者の細川幽斎などが、仲へ入って勘気を願うとか、取持をしたというのも訝しい。だいいち赦免になったのは、この時ではない。それは本能寺の変後であって<寛政譜>によれば、織田信雄に仕え、小牧長久手合戦では秀吉方の尾張蟹江城を攻めている。細川幽斎が喜んでくれるように、彼の骨折りで勘気が許されたものならば、まさか二年後に、細川にそむき、反秀吉方の陣営にたつ事は、まずあるまいと想われる。
---引用ここまで---
本能寺の変を告げに来た人物は、本当に家臣だったのか怪しくなってきてますね。

---引用ここから---
 さて次に、「信長父子の上洛」というが、なにも父子揃って上洛してきたのではない。信長は、本能寺の変の二日前の五月二十九日の上洛だが、信忠は違う。
<信長記>の五月十四日の条によれば、「丹羽長秀が仮殿をたてた江州番場に、家康と穴山梅雪が一泊して安土へ向かった後、信州諏訪から凱旋してきた信忠も通りかかって、立ちよって休憩、長秀が一献献上した」とある。
 つまり、<細川家記>に「これより先」と書かれているのは、信忠が上洛した頃をさすのであろうか。すると、五月十六、七日か二十日ぐらいの事になるが、その頃から、丹後を出発して、六月二日の事件当日の最中に、彼米田だけが一人で京へつき、しかも相国寺前の私宅へ着いたと言うのは、どうしたことをいうのだろうか。この当時、丹後宮津から京までは途中で物見遊山しても、二日しかかからない事は、<西国紀行>にもあるし、また当然なことである。だから米田という家老が主命をおび、真面目に歩いて来たものならば一日か、一日半の道程である。それが半月掛りの計算である。
 そして普通なら、細川の京屋敷へ直行すべきなのに<細川家記>には肝心な、殿様の屋敷はなくて、米田個人の私邸。しかも今出川の相国寺前というのは、この後、大坂方の残党の長曽我部盛親が寺小屋を開いていたような、京における下町である。そう
いう場所に米田の京邸があったとは、まるで妾宅でも連想しそうな粋な書き方である。
 だが、殿様に京屋敷がなく、家老だけが別邸をもっているなんて事は、考えられもしない。全く奇妙である。
---引用ここまで---
これより先にをいつと見るかで日程は変わるので、そちらは判断保留。

---引用ここから---
 さて、次に、ここで大切なのは、
「愛宕(あたご)下坊幸朝」という人名である。つまり、愛宕権現の下坊の神官で「幸朝」という男が、ここに出てくるのである。この愛宕権現というのは、細川幽斎の上の娘の伊也を再嫁させた京の金融を司っていた吉田神道の兼治の出店にもあたる神社なのである。
 後世になると、愛宕山頂の勝軍地蔵を拝みに、出陣前の諸将は登山したように伝わっているが、実際は戦費の借出しに行ったのである。そして、金策がつくまで連歌をしたり、茶湯をたてて待っていたのは、(今日でも、預金者は入口の腰掛けで待たせても、貸出の客には、何処の銀行でも応接間へ通して、そこで茶を振舞うのと)同じである。
 そして、
「五月二十八日に愛宕へ登山した光秀が、二十九日に(その日は土砂降りの雨なのに)西坊から下山したに相違ない」。六月二日の午前九時すぎまで光秀の姿は京で見た者はいないが、その前日の六月一日まで愛宕にいたような事は、絶対にない」
 と、後になって証言するのが、この下坊の幸朝である。
 といって、この男は、予め信長が六月二日朝殺されることを知っていて、愛宕山から下って、洛中の米田と連絡をとっていたのか。それとも米田が、愛宕山まで駆け登って相談に行ったのか、ここは判らない。
 ただ、<大日本神祇史>並びに<山城名勝志>によると、
「愛宕神社は<延喜式>に丹波国桑田郡阿多古神社とある、是なり、丹波、山城両国の境にあり、当今は山城国葛野(かどの)郡に属す。東西南北に四坊ありて栄ゆ」とあって、西坊とか東坊というのはあったが、<細川家記>に出てくるような、下坊や上坊はない。たぶん米田との打合わせしやすいように、山頂では訝しいから、この時点だけ、まるで麓にでもありそうなと想えそうな、下坊なるものを、文字の上だけで作って、辻褄を合わせたのだろう。また、
「中国出陣の筈にて、先に、先発隊は押し出し出陣していたが」と、まことに苦しそうに説明しているが、いやしくも信長の命令なのに、「筈にて」というのも訝しい。また先発の部隊がすでに出ているのに、後続部隊は、まだ宮津城にて、オイチニとやっていて、幽斎や忠興は、暢気に城中にいる程の陸続とつづくような大部隊を、当時の細川はもっていたのだろうか。どうも信じられない。
---引用ここまで---
実際には存在しない下坊が出て来るあたり、信憑性が少ないですね。

---引用ここから---
 それに奇怪すぎるのは、信長の死体が本能寺に見当らず、生存説も高くて、四日、五日ずうっと洛中が騒いでいる時に、丹後の宮津城から動かなかったという細川幽斎と倅の忠興が、自信をもって、死を確信し、
「死んだ信長様への供養」と称して、父子揃って、バッサリ髷を切ってしまった事である。こんな不可解な事があるだろうか。
---引用ここまで---
確かに判断が速すぎる気がしますね。

この後、細川家の不自然な加増についても八切氏は疑問を持っているようです。たしかに、加藤清正よりも武勇が優れている細川家とは思えないんですが、清正は肥後の国半分で、細川は後に肥後一国です。

まだこの章は続いてますが、ちょっと長くなったので、続きは後で。
以下は7/20の追記。

この後、二条城での攻防に着いての記述がありますが、ちょっとだけ順序を変えて引用したいと思います。
まずは本能寺の変の10年ほど前です。

---引用ここから---
 十年前の、この二条城攻撃の時に、信長は、その全勢力をもってしても落とす事ができずに、<東寺>の<光明過去帖>に残っているように、上京(かみきょう)の二条から北を、すっかり焼野原にしてしまって、攻め易いようにまでして、改めて城の四方に、見下せるくらいの高い望楼の砦を構築。そこから、当時の輸入されていた火薬を使って攻撃。
 だが、どうしても落城させる事が出来ずに、とうとう正親町帝に願い出て、勅使下向を仰ぎ、やっと開城させた程のところが、どうして、僅か、たった一日。それも数時間でかたがついてしまったのか。
 二城城の周囲は、本能寺と違って、4米(m)幅の深い濠、跳ね橋をあげたら中へは一人も入れない。つまり普通の状態なら、何日でも篭城できる状態である。それに信忠は、なにも血戦するために、そこへ入ったのではない。
 安全を期するために、ここへ逃げこんだのである。それが一時間か二時間で全滅。
 まったく話が合わない。そこで<当代記>や<信長公記><川角太閤記>では筆を揃えて「二城御所に隣接した近衛関白邸の大屋根によじ登った兵士が、そこから二条御所の中を狙い撃ちして、全滅させた」と記述している。
 もちろん一緒に筆をとって同時に書かれたのではないから、この中のどれかが書いたものを、他の筆者は、そっくり失敬しただけだろう。だが、近衛関白邸が右隣だったら、左側に移ってしまえば、狙撃は免れる筈である。何故、信忠以下五百の精鋭は、わざわざ撃たれるために近衛邸の側よりに集まってゆき、そこで全滅したのだろうか。
 こんな可笑しな話があるだろうか。
---引用ここまで---

二条城が堅固な城であることや、義昭がここに篭って籠城したとき、信長は攻めきれなかったと以前書かれていましたが、その詳細がようやくここに出てきたということでしょう。そのように堅固な二条城が短時間に落城した理由について、このようにかんがえているようです。

---引用ここから---
 さて、<当代記>の原文で、さきに示したように、寄手が二城城へ近よりながら、あまり戦意を示していなかった点でも窺えるが、二城城にいた信忠の軍勢は寄手と同志討ちを、結果的にはしたのではあるまいか。
 つまり、城の内部と外部の双方へ、まったくの第三者から、不意に攻撃というか、爆弾でも仕掛けられたら、そういう結果を生じたかも知れない。なにしろ、混乱と昂奮が渦を巻き、それに六月一日は大雨だったが、この日は晴れていて暑い。
 当時の洋暦では六月二十一日になるが、現在の太陽暦では七月一日にあたっている。眩しいくらいの夏の陽ざしに照りつけられている双方の軍勢が、幻のような敵‥‥つまり僅かな少数の、目につかぬ相手から、着火された爆薬を擲げこまれたら、これは、
双方とも、それとは気付かずに、初めて寄手と城内の信忠勢との間に血戦が、ふって湧いたように開始されたかもしれない。

(上の引用部分なので中略)

こんなに短時間のあっけない全滅というのは、閉じこもった信忠勢に放りこまれた新型の爆薬としか、考えられはしないだろう。
 だが、これは一応この侭にして、また本能寺へ戻ろう。
---引用ここまで---

マカオから輸入されていた火薬に注目していた八切氏らしい推測だと感じます。

この後、前日の大雨でまだ濡れていた本能寺の建物が、全焼するだけでなく、隣の家屋まで焼いてしまっている事実の不審さを書かれ、

---引用ここから---
 こうなると、これまでの俗説のように、
「信長が、もはや最期と思召され、本能寺に火をつけ、お腹を召された」という話は、まったくのデフォルメになってしまう。
 しいて自害とみたいなら、また、<当代記>にある「終(つ)いに、御死骸見え給わず」という答えにあわせるためには、硫酸の水槽へとびこんで、身体を融かしてしまうか、その屍体の始末方法はないはずである。
 しかし、この時代に硫酸は、まだ日本にはない。
 すると、信長は、「弓もひかず、槍もつかず、火もつけず、腹もきらず」という事になる。
---引用ここまで---
腹を切ったかどうyかを判断する手がかりは実際は無いと思うが、戦国時代の武将が簡単に諦めたり、名を惜しんで腹を切るというのは個人的には考えにくと思う。

次の章は、信長は腹を切らないの中の最後の章ですが、大村由己の天正記の「本能寺」と「二条御所」関連の引用ですが、省略します。



おまけの動画。
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『信長殺し、光秀ではない』 32





信長は腹を切らない・筒井記(208~212ページ)

八切氏は、追求資料が足りなくなったために、俗悪書とされているものも読みあさりだしたことが書かれている。

---引用ここから---
 すると、その中に<筒井家記>もあった。この本には、別に<増補筒井家記>と二種類があるが、私が、これは、この種のものの中では真実性があるまいかと、気になったのは、その前者の方である。
 というのは、勿論、光秀を謀叛人にしている点では、他書と大同小異であるが、どうも内容が、あまりリライトされていなくて、天正十年の当時に、比較的、もっとも近い時点に書かれたもののように想えてきた。
 つまり「ああである」「こうである」と尤もらしい筆で、押しつけがましい説得力のくどさがなくて、他書に比べると、少し間が抜けたような部分も多いので、こちらの判断を押し込んで読んでゆくと、非常に思い当たる箇所もすくなからず見つけられた。
 まず、この歴史家の相手にしない<俗悪書>は、「信長公より出兵の命令が出たことをきき、秀満、治右衛門、伝吾、庄兵衛、及び妻木主計頭、四王天但馬守、並河掃部助ら十三人がより集まって『信長の無道と、将来の利害』をもってとき、主人の光秀に謀叛をすすめた」
 と、これを説明している。
(秀満、妻木、並河というのは、講談で作られた人名ではなく、実在の人物なのである)
「そこで、光秀も熟考ののち、坂本城に入って、これを利三以下のおもな人々に計り、また叛逆の慫慂(しょうよう)を十三人から、しきりに受けて、ついに決心をした。そして、兵を亀山に集めることに定めて、二十七日に坂本を発して、丹波亀山へと赴いた」となっている。珍らしく、これは光秀を受け身として扱っている。そして、「信長から光秀に出兵の命令が出たのは、五月十七日であるから」決心説としては<川角太閤記>や<甫庵信長記>より、この方が、とびきり早期説をとっている。
 そして今日でさえ、光秀が犯人だとは言いながらも、「違やあしないかな」という引っ掛りがあるように、四世紀前にも、この疑問は相当拡まっていたのであろう。
 だから、
「光秀は、その気がなかったのに、よってたかって十三人の者が、彼をそそのかしたのだ」
 という、いかにも、真相らしいような説である。だが、この筆者は当時洗礼を受けていた人間と、想われる節もある。
 何故かというと、光秀を受難の聖者にみたてている筆致だからである。つまり十三人の家臣というのは、十三人の使徒を、なぞらえているような匂いがする。この中に、一人のユダが混じっていた。その男の為に、光秀は煮え湯を呑まされたのだ。つまり、「その秘密を、ここには書けないが、本当は知っているんだ」
 といわんばかりのような箇所さえも見える。
---引用ここまで---
家臣の名として出ている秀満は、春日局の父親です。謀反人の家臣の娘が家光の乳母になれたのは、光秀を説得して本能寺の変を起こしてくれたので、家康が信長から討たれる事を防いだ事を感謝したからなのかとちょっと思ったりしました。でも確証はまったく持っていませんけど。

---引用ここから---
 そして、この<筒井家記>が「俗悪書ときめつけられている理由」たるや、これは<川角太閤記>や<信長公記>が、みな、筆を揃え、「中国(備中)へ向うのなら三草山を越えていくべきなのに、東向きに馬首を転じ、老の山(大江山)へ上り、そこから京へ向かった」
 と、これが光秀の叛乱行動の第一歩で、「この方向転換こそ、計画的逆心の現れである」と、ただそれを、唯一の確証として決めつけ、光秀が備中攻めを仰せつかっているのだから、「西へ向かって進撃すべきなのに、京都へ向かったのは怪しい」けしからんと、同じように書いているのに反して、この<筒井家記>のみは、悠々と違う事を記載しているからである。
 つまり、
「備中赴援に、明智組下として出向するよう、安土より命令を受け、居城大和の郡山城を出発し、京へ向け上洛しようとしたところ、途中にて、本能寺の変をきき、信長公は、ひとまず安土へ戻られたゆえ、京へ行かずにすむと、六月二日、そのまま郡山へ引きあげ、翌三日には、筒井の砦のある大安寺、辰市、東九条、法花寺へ、引き上げた兵を戻して、そちらを守らせた」
 と出ている。つまり「筒井軍も一応は京へ向かった」と、これは各書と全然、相違するからである。
 だから「俗悪」の烙印を押されているらしい。

 しかしである。この<筒井家記>をみると、
「京都から、出陣の用意ができたら本能寺へ来い」と信長の命令があったというのは、光秀の詐称ではなく、事実ではなかったかと思われる。
 筒井順慶の軍勢に上洛するように信長からの指令が出ているものなら、その寄騎親であり司令官である光秀にも、必ずや、通達は出ている筈である。
 そうなれば、これは嘘ではない。
 本来ならば、光秀が命令受領をしてから、各管下の筒井や細川、高山の各部隊へ連絡すべきだったが、それでは間に合わないと見て、信長から各部隊宛に同文指令が出たのではあるまいか。
 と言うのは、これは六月一日の喰い違いである。
 信長は、その前日の五月二十九日に、いと手軽く考えて、(あるもの)を一掃する目的で上洛した。処が現実に於て、六月一日になると折柄の雨天をついて、招かざる太政大臣や関白らに押しかけられた。思いもよらぬデモ騒ぎである。しかも、忙しいのに、五時間も六時間もねばられてしまった。手をやいてしまった。
「大慶々々」と山科言経たちは帰っていって、自分の家で前祝いの祝杯をあげた。
 しかし信長は、忙しい最中に、なにも公卿達を喜ばせる為に上洛したのではない。あまり集まった公卿共がうるさいから、なんらかの形で譲歩したにすぎない。そこで早速、次の手段を何か考えたのであろう。それは今も昔も同じである。デモに対しては、実力行使の機動隊である。
 それを召集するために「用意ができ次第上洛せよ」と、明智を寄騎親とする出動準備中の各部隊に対し、緊急通達がされたのではあるまいか。名目は「検閲(けんえつ)」であったとしても、信長が何を一掃しに上洛したか位は、近畿管区の武将は、前もって知
っていたのだろう。だから臨戦体制で洛中へ入って行ったのだろう。
---引用ここまで---
おそらく、公家や天皇に圧力をかけたかったのでしょうか?

この後、大江山から京に向かうと、細川番所を通ることになり、隠密に京に向かうことは不可能でないかということも八切氏は指摘している。そのようなことから、信長の命令で京に向かった可能性が高いと八切氏は考えているようです。



加計問題はそろそろ収束かなとちょっと前に書いたんですが、どうもマスコミは、そのような事実は見たくないようで、青山氏の国会質疑はまったく無視されたままですね。

松居一代の件は、裏取りしているマスコミ(文春)も、加計問題では裏取りもしないし、両論併記で報道するということもない。どうもこれは、マスコミの人間は、マスコミの記事で世の中を動かしたいと考えているからではないかという、武田邦彦教授の説が当たっていそうですね。でも、マスコミの人には、そのような野望は捨ててもらいたいものです。そんな野望を持っているなら、どんどん選挙に打って出て、政治家になってもらいたい。世の中を変える役割を持っているのは政治家です。

『信長殺し、光秀ではない』 31


これが原本。


これが私の手に入れた本。


これが、私が手に入れた本の底本。



信長は腹を切らない・剽窃(201~208ページ)

カオリンの報告は続きます。

---引用ここから---
 次に、また詳細に繰返して、
「信長は都で宿泊する慣わしであり、坊主をみな追出し手入れをよくした本能寺という寺の周囲を、三万人が完全に包囲したが、街では、まったく意想外な出来事なので、何か騒動でも起きたのかと考え、その報らせを伝えた。
 なにしろ、わが南蛮寺の教会は、信長の所から、ほんの僅かしか離れていないから、キリシタン達はやってきて、ミサのため着替えていた私、つまりカリオンにむかい、寺で何か起こり、重大事件と想われるから、ミサを待つようにといった。すると間もなく、銃声が聞こえ、火の手があがって、つぎに喧嘩ではなく、明智が信長に叛いて彼を囲んだのだという知らせが来た。明智の兵は寺の木戸の中から入った。そこでは、このような謀叛を夢にも考えず、誰も抵抗する者がなかったので、彼らは更に内部に入り、信長が手と顔を洗いおわって、手拭でふいている背へ矢を放った。しかし、信長は、この矢を抜いて薙刀(なぎなた)とよぶ柄の長い鎌のような形の武器をもって、しばらく戦ったが、腕に弾創を受け、その室に入り、戸を閉じた‥‥
 ある人は彼は『切腹した』といい、他の人達は『客殿に火を放って死んだ』という。
 だが、吾らが知りえたことは、諸君〔バードレ諸君〕が、その名を聞いただけでも戦慄〔註・恐ろしくてとか、乱暴だからというのではない。悪魔(ジャボ)とノブナガとは、同義語だった点において〕した人が、髪一本残さず霧散消滅した事である‥‥」
---引用ここまで---

<信長公記>の「本能寺にて、お腹召され候こと」とほとんど内容が同じであるため、本当らしいと扱われているが、八切氏は<信長公記>を元に創作されたものだと考えている。

怪しげなところとして、
---引用ここから---
 当時のキリシタン信者というのは、午前四時頃から、ミサをうけるために教会へ集まってきたものだろうか。なにしろ初めは、
「重大事件らしい」と予報したものが、後になって「あれは、喧嘩ではない」などと言いにくるのは不自然すぎると考える。
 それに、このとき本能寺内部にいて、外へ脱出できた者は一人もいないのに、いくら、すぐ近くの三階建のバルコニーにカリオンがいたからといって、信長が顔を洗って手拭でふいていたから、背中を矢で射ったと、まるで実況中継みたいな書き方は、信用のできぬところである。
「講釈師みてきたような嘘をつき」という言葉あるが、これでは「宣教師みてきたような‥‥」と言わざるを得ない。

 なにしろ彼らは信長や諸大名に面接はしているが、日常の起居は共にしていない。
 だから、こういう叙景描写をするが、信長の頃から幕末まで、武家の殿様や奥方は、宣教師の考えるように、自分で洗顔したり用便の前後の始末はしないものである。小姓や腰元が、耳盥(みみだらい)に水をくんできて、一人が洗い、一人がふき、一人が、いつでも殿さまが手をかけられるように、刀の柄をさし出している。排泄のときは、左右から裾をめくって持ち上げ、背後の者が拭く仕度をして待っていたものである。
 と言って、これは人使いが烈しいとか、横着というのではない。自分の手を用いて、それに掛かりきっていて、もし敵に襲われたら大変だから、決して自分の手はふさがなかったのである。用心のための自衛行動である。

<カリオン報告書>をみると、まるで信長が洗面所へ立って行って、そこで一人で顔を洗い、外部へ背を向けたところを射られたというが、こんな西欧型の洗面の仕方は、野戦の時でも、武士たる者はしてはいない。
<相州兵乱記>でも「御寝なされしが、瞑られずと起きらる。侍臣ただちに、飼馬桶の新しきに水をくみ、幕内に運び四人がかりで手水(ちょうず)をあそばされ候」とあるし、
<越国春秋>にも「きんじの者が左右より顔を拭き奉れば、早よとせかされ、長尾をここへ呼ぶようと政景を召さる。政景、幕外より色代(あいさつ)し」と、野営の上杉謙信が、洗面しながら姉婿を呼ぶ場面がある。
 つまり野外でさえも、張りめぐらした幕から外へは、洗面といえど一歩も出ないのが、これが仕きたりである。だから本能寺のような建物の中なら、寝所へ洗面道具は運ばせ小姓どもが、座敷内にて、御湯敷(おゆしき)とよばれた白ごま油の油紙を広げて洗顔をさせていたわけである。ついでにいうが、その為に信長は、小姓を三十人も連れて行ったのである。なにも一人で、のこのこと外部に背をさらすような恰好でカリオンに見物されに洗顔に行くのなら、小姓などは一人も不要である。
 再言するが信長は、学校の体育教師ではないから、青少年鍛練のために小姓共を引率して行ったのではない。
 自分の身のまわりをさせる必要上から、彼ら三十人を随行させたのである。
---引用ここまで---

さらに、おそらく誤訳から起こったと思われる表記についても解説している。

---引用ここから---
 この間違いから、<信長公記>で「お弓をとり二つ三つ引きたもう」とあるところを、弓と矢と間違えて誤訳した。「矢を引きたもう」つまり「射る」という固有形容詞が判らなかったから文字どおりに Atrair というポルトガル語にし、それを「引く」「引きよせる」「引っぱる」と誤訳。矢を引っぱるとは、信長に刺ったからと訳した。致命傷ではないから背中にしよう。と考えた。「それには、洗面中という事にしよう」と、<信長公記>をポルトガル訳して自作とした。筆者は、つまりポルトガル人の翻訳者は知恵をしぼって、つけたしを書き加えてしまったのであろう。
 しかしである。<信長公記>の原文では、「すでに御殿に火をかけ、焼けきたり候、御姿を、お見せあるまじきと思召され候か、殿中奥深く入り給い、内より御納戸口をひきたて、無情にお腹召され」と、なっているのは、時代も後世だし、翻訳に困ったのであろう。
 初めに本能寺は、寺(templo)だと書いておきながら、「客殿」の意味である御殿は判らなかったとみえ、これを宮殿(palacio)と訳し、「信長は宮殿の奥深くに入ってドアを閉めた。或者は切腹したというし、別の者は火を放って死んだという」と、もう初めに「火の手の上るのを見た」と書いているから、ひっこみがつかず逃げをうっているが、さて嘘というものは最後までは、つけるものではないから、ここの<信長公記>の翻訳だけで止めておけば良いものを、とうとう終りへもってきて、
「吾々が知りえたところでは、信長は髪毛一本残さずに、その遺骸をふっとばしてしまった」と、本当のことを書いてしまっている。
---引用ここまで---

そして八切氏は、フロイス署名の有る追記も後世に後から書かれたのではないかと疑っているようです。

---引用ここから---
そして、何故<信長公記>が出廻った後の時代になってから、さも、もっともらしく改まってから、それを土台とする創作するというか、脚色の年報追記が、何ゆえにマカオで作成される必要があったのか。ということになる。
 この報告書の表面の人物である司祭カリオンは、その後は名前が何処にも現れてこない。だが、天正十年の時点で本能寺から一町以内の天主教公会堂の主であり、神による全命令権を握っていた京都管区長オルガチーノは、信長殺しの時は、アリバイがあって、京都から天馬(ペガサス)にのったか、鹿児島の南端の沖の島へ行っていたそうだが、何故か秀吉の非公式の庇護をうけ、彼のみは天主教弾圧後も追放される事なくして、長崎で暮し、慶長十四年まで生きていた。
 だから、フロイス名による「この不可思議な、天正十年版という第二通信」が、慶長時の作成であったとしても、オルガチーノの申請で製造されたものなら、これは怪しむにたらないかも知れない。--中公新書の<南蛮史料の発見>の信長殺しの描写は嘘だとも言える。
 なにしろ、天正九年三月八日(洋暦)最高巡察使のヴァリニヤーノが、フロイスやロレンソーメンスを従えて豊後の日出(ひじ)港を出発し本州へ入ってきたとき、京都管区長オルガチーノは、これを迎え、二十九日に、信長の許へ拝謁に伺候するときは、巡察使の伴をし、四月十三日の安土城拝観の時も、そのお供をしている。
 そして、ヴァリニヤーノが天正十年二月二十日に日本を離れるに際し、伊藤マンショ、千々岩(ちぢわ)ミゲル、中浦ジュアンの三名。他にスペアというのか、身分の低い原マルチーニと、やはり洗礼名を持つ少年を、ふいに人選して連れだす時にも、フロイスと共に、その謀議に加わっている。
 さて、
 フロイスが<日本史>を執筆したのは天正十五年から文禄二年の間とされている。そして、
<信長公記>は、文禄五年が慶長元年に当るから、其後のものとされている。しかし、その巻十三の<無辺成敗のこと>などという一章は、そっくり以前に書かれた筈のフロイスの<日本史>にそのままで入っている。
 尚<信長公記>巻十二の<法華、浄土宗宗論の事>の一章のごときは、京都管区長オルガチーノによって、既に天正七年に九州のフロイスの許へ詳細が送られ、村上博士訳の「エーヴォラ版」では同一であると、松田毅一氏の対照表まである。こういう具合にフロイスのものと、太田牛一筆ともいわれるものが重複している点からして‥‥
 一五八ニ年つまり天正十年<日本ゼズス会年報通信>の信長殺しの場面が<信長公記>と同一であったとしても、間違いが共通していても不思議ではないかもしれない。
 とはいうものの、何故、そこまで作為をしなければならないのか、という疑問は残る。
 なにしろ、ヴァリニヤーノ==オルガンチーノ==フロイスと、三人とも、立派なのが揃いすぎている。そして彼等は信長に対しては極めて友好的でありすぎ、死後さえも、そうである、と文字では残っている。
 しかし実際において、信長たるや異教徒(ゼンチョ)どころか、自分が天帝だと自称する悪魔(ジャボ)である。天にまします唯一の神しか信じない彼らにとって信長は外道(げどう)以外の何者でもない。
 また信長も、火薬の硝石を入手しなくては困るから、外面では友好的に彼らを偶していた。だから互いに笑顔をみせあっている。
 だが、双方の内心は互いに見抜きあっている。そして天正十年五月、信長は堂々と、自分が天上天下、唯一の神であることを、誇示する殿堂をたて参拝者の人山を築いた。
 だからこそ、その結果が、翌月二日、髪毛一本残すことなく吹っ飛んでしまった。
 これはどういう事になるのだろうか。
 --だが、そこを突きつめる前に、また、これまでの犯人とされている光秀に戻らねばならない。
---引用ここまで---

自分が神になってしまえば、天皇も不要ですから、変の前日、公家衆がデモに押しかけたのかもしれないと思ったりします。
信長に敵対する勢力が居なくなった時期ですが、それだからこそ、天皇(公家)、宣教師、・・・、など、実は周りは敵だらけになっていたのかもしれない。



関係ないけど、現在の安倍政権、野党があまりにもお粗末なため、敵無しな状態です。まるで、本能寺直前の信長のような感じです。

加計学園メール問題で、マスコミも野党も安倍政権を追い詰めようとしてたようですが、私は絶対ムリだと思っていました。
メールは絶対に保管されているはずだと私は思っていました。何故かというと、文科省職員が何故こんなことをしたんだと追求されたときに、こういう命令だったでしょ、という証拠として、職員自身が追求されないために残しているはずだと。

ただ、メールでは、裁判などで証拠として取り上げられるかどうかはちょっと弱いなということも感じていました。だって簡単になりすましが可能ですから。自筆の文書なら、筆跡鑑定などで個人をある程度絞り込むことができそうなので証拠となるでしょうが、メールでは。
内容も、規制改革会議などで推し進めると決定した後なので、総理のご意向と書かれても不思議はないという評論家が居ましたが私はなるほどと思いました。

ただこのような問題が出ていることは、まだまだ安倍一強なんですが、安倍政権に対する反発が強くなってきている感じがします。



おまけの動画。

『信長殺し、光秀ではない』 30



前回のダワイでは、日本以外の資料を調べる必要性を述べ、フロイスの記録について少しだけ触れています。

---引用ここから---
(一部略)さて、フロイス記述に係る<日本史>には、信長殺しは洩れてはいるが、そのフロイスが、九州の口(くち)の津(つ)港にあって、五畿道各地の師父(パードレ)によって報告されてくるものを整理して、彼や、その同僚が転写をし、<日本ゼズス会報>として、マカオへ送っていたものの中にはこれは入っている。
 しかし、これとても、正規の年一回の、<日本ゼズス会一五八二年(天正十年)年報>ではなくて、何故なのか。そこは不明だが、<日本ゼズス会年報の追信>として別稿として扱われている。つまり、天正十年の年報を纏めてしまって、マカオへ発送した後になって、信長の、この事件が持上がったから、第二報として送ったという形式である。
 もちろん当時、彼等の用いていた太陽暦と、日本の太陰暦は違う。といっても、問題の六月二日は、当時のヨーロッパ暦でも六月二十一日にすぎない。
 どうして一年ごとに一回ずつ出されていた年報が、この年に限って、半年前で、しめ切りになって、「第二報」の追加版となっているのか、不思議である。
 しかし実際は五月の記事も入っていて変である。そして、この追加版の末尾を引用し、それに註をつければ‥‥
ーーー引用ここまで---

ゼズスはおそらく、ジーザス、つまりイエスのことでしょう。そして、信長殺しが第一報になかったことはもしかしたら、宣教師たちも信長殺しに関係しているのではと思わされます。



信長は腹を切らない・会報(197~201ページ)
---引用ここから---
「当都〔何処か不明、九州の口の津港か〕において、日本の至宝がなくなったといい、日本人自身の手で葬り去ったのだと話して喜んでいる者さえ少なくない〔註・ここが重点である。喜ぶ者とは誰か。それこそポルトガル人を主にした師父(パードレ)達をさすからである〕。この世においてのみならず、天においても勝(まさ)るものはないと考えられていた人物が〔註:師父達にすれば、天にまします神が唯一である。それなのに信長は、それを冒涜して、自分こそ全智全能の神であると宣言していた。紀元前においては、バビロンの神に対立した国王はいたが、この十六世紀の時点において、『イエス・キリストより自分の方こそ天帝である』と言い出したのは、古今東西、信長一人きりである。つまり織田信長たるや、天主教徒からみれば、それは呪わしい悪魔(ジャボ)以外の何物でもない。ここが、本当のところである。いくら汝の敵を愛せよといっても、遥か故国を後にして日本列島へきている神々の使徒と、自負する者にとって、その天帝をないがしろにする地上の暴君を愛したり赦せる筈はありはしない。俗界でいえば、これは商売敵であるからだ〕かくの如く信長は、不幸にして哀れな死をとげ、彼におとらず傲慢であった明智も、また同じく不幸な終焉をとげた。だが前述した通り、信長が、まれなる才能を有し、賢明に天下を治めた事は、これは確かな事実であって、哀れ彼は、その傲慢さの為に身を滅ぼしたのである〔註・この、日本人が読んでも抵抗を感じさせない書きぶりは、なんと言ったらよいのだろうか。信長の死を喜んだ事を明瞭に冒頭に匂わせながら、続いては、さも同情的に、また尤もらしく書いている筆致は、いかに解釈すべきなのだろうか。再言すれば、信長は、マカオよりの火薬が入手したさに、初めの内こそ天主教にはシンパであった。しかし、この時点に於ては、彼は既に偶像崇拝者。といっても、単なる仏体や神体を拝むのではなく、自分こそ天帝であると、師父達の説くイエス・キリストを凌駕する至上の神に、自分はなっていたのである。異教徒(ゼンチョ)などというものではなく、師父からみれば、不倶戴天の悪魔(ジャボ)なのである。それなのに、これが、師父たる者の悪魔に対する者に対する言葉であろうか。この作為、この不自然さは何を匿しこんでいるのであろうか〕。毎日、新しい事が起こっているが、あまり長くなるので次の季節風期に譲る。〔註・テレビの番組欄ではあるまいし、そんなに毎日変わってはたまらない。しかしこれは、六月の出来事を追信の恰好にしたことを、さも自然に見せかけるように、信長の死ぐらいな新しい事は、次々と毎日起こって珍しくもないと、ごまかしているのである〕われら一同、尊師の聖なる犠牲において推薦せられ、また祝福をうけんこと願い奉る。
  一五八ニ年 11月5日 ルイス・フロイス」
---引用ここまで---

八切氏はゼズス会の公式文書である<日本ゼズス会>にフロイスの私信がそのまま載っていることに疑問を持っている。フロイス自身も編集員の一人だが、他の会報には署名はつけていないのにこの追信会報だけは署名が有る。八切氏は、わざわざこんなことをしたのは、私信に信用を持たせるためではと疑っているようである。ちなみに、原文はマカオで消失してしまっているようである。そして日本の歴史学者はフロイスの名前に騙されていると考えているようである。

---引用ここから---
 ところが、中心になっている本文たるや、これは日本の<信長公記>に輪をかけたものである。しかし<中公新書南蛮史料の発見>などでは、
「キリシタンらが、私にこう話した……というように一人称で記したことが、怪我の功名というか、この唯一の報告書を、絶対的に権威あらしめる結果となった」というが、はたしてどうであろうか。私には、拵えすぎが目につきすぎ、唯、信頼できるのは「信長が、髪毛一本残さず、灰塵のように、ふきとび消滅した」という情景描写の一章節だけと思う。
 なにしろ、当時の京都管区長はオルガチーノであるに拘らず、何故なのか彼は、沖の島へ遁れてしまう。そこで、「止むなく代理に自分が報告します」といった形式で、一司祭にすぎなくて責任者でもないポルトガル人のカリオンが<私>という一人称で、この報告書を書き綴っている。
 どうも腑に落ちない。オルガチーノは、その後、秀吉の宣教師追放令が出たときも、なぜか彼だけは特に黙認の恰好で、その儘日本に滞在し、慶長十四年に長崎の天主教会堂で昇天しているが、この天正十年の時点。沖の島といえば、京より遥か遠い九州の涯なのに、どうして、そんな遠い所へ、交通機関もない当時、徒歩で京から下関まで歩いて逃げ、そこから九州へ海をわたって、逃亡したのか理解に苦しむ。
 なにも、京から脱出するんなら、すぐ近くの高槻や伊丹、茨木に、和田とか高山、中川といった切支丹大名が、びっしりと目白押しに並んでいたから、オルガチーノ一人ぐらいなら、何処の城でもすぐ匿(かくま)ってくれ、手厚く大切にされた筈である。
 それなのに、そこを通り越して、九州の涯まで逃亡したという事を、フロイスが書いているということは、ここに二つの答えを提示しているのであるまいか。
 一は、「オルガチーノが、秀吉に何か依頼されて六月二日に、何か重大な事をしてしまった。そして、もし、それが発覚したら、自分一身の危険だけでなく、ゼズス派の教会や信徒みんなに迷惑を及ぼす。だから日本式にいうならば、長い草鞋(わらじ)をはいて逃げのびた」
 二は「この、フロイスの名入りの、一五八ニ年ゼズス会年報の追加版は全くの偽物である……ということは、或る種の秘密の漏洩を防ぐために、日本から当時送られてきた師父たちの報告はみな消却してしまって、日本へ行ったこともない人間の手によって、これは贋作された。だから、日本の地理に詳しくない人間が、沖の島というのを琵琶湖に浮かぶ竹生島ぐらいのつもりで書いてしまい、距離感を失念していたのが、その例証である」
---引用ここまで---

オルガチーノは、現在では、オルガンチーノと表記されるのではと思いますが、この人物が本能寺の変の最中には京都から逃れていることが気になります。手下に命令して、自分は疑いの掛からない場所でアリバイを作っていたのかと下世話な話が好きな私は勘ぐってしまいます。

---引用ここから---
 さて、この追加版には、こういう記事がある。
「安土に總(そう)見寺という社をたて、信長は自分から神と仰がれるようにと望み、神体を祭壇に飾り五月の彼の誕生日には、参拝する群衆で、ごった返した」
 という、私共が読めば、たいして奇異は感じはしないが、天帝を唯一の神と仰ぐ天主教徒の師父たちにとっては、まことに天地いれざる悪魔の所業を、まっ先に書いて信長を弾劾している。つまり原因結果論の、これは原因というところなのだろうか。さて、当日の事である。「六月二十一日(日本では二日)、まだ夜も明けぬ頃、ミサを行うため祭服に着替えていた私、つまりカリオンは急報に接した。〔註・誰から、そして何処からは、書かれていない〕「そして銃声が聞え、火の手が上るのが見えたのである。新町通りに接した南蛮寺から、西洞院通りの現場までは目と鼻だった〔註・雉も鳴かずば、撃たれもすまい。というが、こう言う不条理を書き残しておくから、私の疑惑を招いたのである。六月二十一日の天候の夜明け前と言えば、午前四時である。いくら早朝のミサといっても、服を着替えるのには、まだまだ早すぎる。これは急報を知らせにくる使徒の来るのが判っていたからこそ、手さぐりで灯をつけ着替えていた。次に、「暫くして」なら、まあ譲歩もできるが、「そして」とある。すぐである。銃声がして火の手が上がったというと、これでは午前四時半には、本能寺は炎上したということになる。それでは、この包囲軍が二条城に現れるまでの、以後三時間半というもの、この謎の上洛軍の首将達は、この南蛮寺へきて、カリオンにミサをしてもらい、神の祝福でもうけていたと言うのであろうか。それも距離が遠くて、はっきり判らないというのなら別だが、新町通りの裏通りが西洞院通りである。つまり南蛮寺の裏口から本能寺正面までは一町どころか、その半分もないことを、カリオン自身も、これを認めている。だから余計に訝しい。謎以外のなにものでもない〕
---引用ここまで---

流石に夏至の近くなった6/15付近では、秋田県の北の外れにある我が家では、朝4時では日の出前ですがそこそこ明るくなってきますが東経が違う京都ではどうなんでしょうね。6/2頃の京都の朝4時は矢切氏の言うように暗い時刻なのか私はわからないので知りたいなと思ってます。

ほとんど老人になりつつ有る我が家周辺では、年金暮らしのため電気代を節約するためか日の出とともに起きて活動し、夜8時ちょっと過ぎには寝てしまう、うちの親父みたいな人間が、電気照明なんか無い戦国時代はほとんどだったと思います。ですから、京都での6/2の朝4時の明るさがほんとに気になります。

それはさておき、宣教師側も信長殺しに関係していそうな感じが濃厚になってきてますね。



おまけの動画。

アップした人の紹介文によると、

足軽先生のラップをフィーチャーしたナンバー。ラガマフィン風のラップは先生自らのアイデア。 この曲では物事を鵜呑みにしちゃいけないよってことを伝えたくて。歴史には事実とは違う出来事が混じってたりするし、鎌倉幕府が開かれた年ひとつとっても、いろんな説があるんだよって。

とのこと。

『信長殺し、光秀ではない』 29





信長は腹を切らない・ダワイ(192~197ページ)

---引用ここから---
 さて、なんといっても不可解なことは、六月三日以降、つまり、その翌日以後も引き続く、「洛中騒動不斜」の連続である。
 従来の歴史家の解明では「信長の遺臣狩りをして、捕えては六条河原で斬殺した。その騒動が、ずっと続いて、洛中は上を下への騒動だった」というのだが、洛中どころか、六月二日までは誰彼なしに、みな信長の遺臣の筈である。
 叛乱軍側の叛徒探しならわかるが、一人残らず信長の旧臣であって、その連中を明智側では、味方に抱き込もうとしているのに、どうして、全部を敵に廻してしまうような「遺臣狩り」などするわけがあるだろうか。
 これは、はっきりいって「信長探し」であろう。なにしろ、まるっきり残されているものがないから、「事によったら本能寺に泊まって居られずに、どこか、他所で外泊されていたのではあるまいか」と、手分けして明智側で洛中を探し廻っていたのだろう。
 ということは、「信長の死を確認できずに、狼狽していた明智光秀」の方は、なにも、犯人ではなく、「遠隔の土地にいたとしても、信長の死を、はっきり知っていた連中」及び、同日、遠くへ逃げのびてしまった者の方が、これは怪しいということになるのではなかろうか。
---引用ここまで---

そして、光秀側が信長の死を確認できなかったのは、光秀軍はただ本能寺を囲んで見ていただけで、攻めかかっていないからと八切氏は考えている。なるほど、これなら、弓一丁、槍ひとつで何時間でも耐えることは出来る。何しろ攻めかかってこないのだから。そして、光秀側が信長の死を確認できなかったのも理解できる。

---引用ここから---
 どうして本能寺の方は、あくまで弓も射らず、槍もふるわず、全然、戦っていなかったかというのは、時間からも割り出していける。<当代記>によれば、二条へ信忠と一緒について行った連中というのは、坂井越中、団平八、野々村三十郎、赤座七郎左、猪子平介、菅屋九右父子といった、自分から槍をふるって奉公し、ようやく生き残って何万石かの大名になった、いわば立志伝中の武者である。
 当時の言葉でいえば「武辺(ぶへん)者」と呼ばれた豪傑である。この一騎当千の連中が約五百人で篭城したのが「武家御城(ぶけごじょう)」と呼ばれた洛中唯一の要塞の二城城。この方が、午前七時から午前八時までの間に攻撃され、午前九時には落城しているのに、壕もなく溝で囲まれ塀とてない本能寺の信長が、鉄砲一挺の供えもないままで午前四時から午前七時又は七時半まで持ち堪えられたということは‥‥
 対比さえしてみたら、その訝しさは、すぐにも判るものである。
---引用ここまで---

そして、日本側の資料は、権力者で改変された可能性や、陣内グループによる贋作の可能性もありますから、八切氏は宣教師側の、フロイスの日本史の資料を検討していきます。



おまけの動画。

原曲では確かパンフルートも使われていたような気がしますが、そこのところは、尺八で表現。いいフレーズは楽器が違ってもいい。
プロフィール

kaneya

Author:kaneya
もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。
真似してもいいけど、その場合は自己責任でお願いします。

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