もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 31


これが原本。


これが私の手に入れた本。


これが、私が手に入れた本の底本。



信長は腹を切らない・剽窃(201~208ページ)

カオリンの報告は続きます。

---引用ここから---
 次に、また詳細に繰返して、
「信長は都で宿泊する慣わしであり、坊主をみな追出し手入れをよくした本能寺という寺の周囲を、三万人が完全に包囲したが、街では、まったく意想外な出来事なので、何か騒動でも起きたのかと考え、その報らせを伝えた。
 なにしろ、わが南蛮寺の教会は、信長の所から、ほんの僅かしか離れていないから、キリシタン達はやってきて、ミサのため着替えていた私、つまりカリオンにむかい、寺で何か起こり、重大事件と想われるから、ミサを待つようにといった。すると間もなく、銃声が聞こえ、火の手があがって、つぎに喧嘩ではなく、明智が信長に叛いて彼を囲んだのだという知らせが来た。明智の兵は寺の木戸の中から入った。そこでは、このような謀叛を夢にも考えず、誰も抵抗する者がなかったので、彼らは更に内部に入り、信長が手と顔を洗いおわって、手拭でふいている背へ矢を放った。しかし、信長は、この矢を抜いて薙刀(なぎなた)とよぶ柄の長い鎌のような形の武器をもって、しばらく戦ったが、腕に弾創を受け、その室に入り、戸を閉じた‥‥
 ある人は彼は『切腹した』といい、他の人達は『客殿に火を放って死んだ』という。
 だが、吾らが知りえたことは、諸君〔バードレ諸君〕が、その名を聞いただけでも戦慄〔註・恐ろしくてとか、乱暴だからというのではない。悪魔(ジャボ)とノブナガとは、同義語だった点において〕した人が、髪一本残さず霧散消滅した事である‥‥」
---引用ここまで---

<信長公記>の「本能寺にて、お腹召され候こと」とほとんど内容が同じであるため、本当らしいと扱われているが、八切氏は<信長公記>を元に創作されたものだと考えている。

怪しげなところとして、
---引用ここから---
 当時のキリシタン信者というのは、午前四時頃から、ミサをうけるために教会へ集まってきたものだろうか。なにしろ初めは、
「重大事件らしい」と予報したものが、後になって「あれは、喧嘩ではない」などと言いにくるのは不自然すぎると考える。
 それに、このとき本能寺内部にいて、外へ脱出できた者は一人もいないのに、いくら、すぐ近くの三階建のバルコニーにカリオンがいたからといって、信長が顔を洗って手拭でふいていたから、背中を矢で射ったと、まるで実況中継みたいな書き方は、信用のできぬところである。
「講釈師みてきたような嘘をつき」という言葉あるが、これでは「宣教師みてきたような‥‥」と言わざるを得ない。

 なにしろ彼らは信長や諸大名に面接はしているが、日常の起居は共にしていない。
 だから、こういう叙景描写をするが、信長の頃から幕末まで、武家の殿様や奥方は、宣教師の考えるように、自分で洗顔したり用便の前後の始末はしないものである。小姓や腰元が、耳盥(みみだらい)に水をくんできて、一人が洗い、一人がふき、一人が、いつでも殿さまが手をかけられるように、刀の柄をさし出している。排泄のときは、左右から裾をめくって持ち上げ、背後の者が拭く仕度をして待っていたものである。
 と言って、これは人使いが烈しいとか、横着というのではない。自分の手を用いて、それに掛かりきっていて、もし敵に襲われたら大変だから、決して自分の手はふさがなかったのである。用心のための自衛行動である。

<カリオン報告書>をみると、まるで信長が洗面所へ立って行って、そこで一人で顔を洗い、外部へ背を向けたところを射られたというが、こんな西欧型の洗面の仕方は、野戦の時でも、武士たる者はしてはいない。
<相州兵乱記>でも「御寝なされしが、瞑られずと起きらる。侍臣ただちに、飼馬桶の新しきに水をくみ、幕内に運び四人がかりで手水(ちょうず)をあそばされ候」とあるし、
<越国春秋>にも「きんじの者が左右より顔を拭き奉れば、早よとせかされ、長尾をここへ呼ぶようと政景を召さる。政景、幕外より色代(あいさつ)し」と、野営の上杉謙信が、洗面しながら姉婿を呼ぶ場面がある。
 つまり野外でさえも、張りめぐらした幕から外へは、洗面といえど一歩も出ないのが、これが仕きたりである。だから本能寺のような建物の中なら、寝所へ洗面道具は運ばせ小姓どもが、座敷内にて、御湯敷(おゆしき)とよばれた白ごま油の油紙を広げて洗顔をさせていたわけである。ついでにいうが、その為に信長は、小姓を三十人も連れて行ったのである。なにも一人で、のこのこと外部に背をさらすような恰好でカリオンに見物されに洗顔に行くのなら、小姓などは一人も不要である。
 再言するが信長は、学校の体育教師ではないから、青少年鍛練のために小姓共を引率して行ったのではない。
 自分の身のまわりをさせる必要上から、彼ら三十人を随行させたのである。
---引用ここまで---

さらに、おそらく誤訳から起こったと思われる表記についても解説している。

---引用ここから---
 この間違いから、<信長公記>で「お弓をとり二つ三つ引きたもう」とあるところを、弓と矢と間違えて誤訳した。「矢を引きたもう」つまり「射る」という固有形容詞が判らなかったから文字どおりに Atrair というポルトガル語にし、それを「引く」「引きよせる」「引っぱる」と誤訳。矢を引っぱるとは、信長に刺ったからと訳した。致命傷ではないから背中にしよう。と考えた。「それには、洗面中という事にしよう」と、<信長公記>をポルトガル訳して自作とした。筆者は、つまりポルトガル人の翻訳者は知恵をしぼって、つけたしを書き加えてしまったのであろう。
 しかしである。<信長公記>の原文では、「すでに御殿に火をかけ、焼けきたり候、御姿を、お見せあるまじきと思召され候か、殿中奥深く入り給い、内より御納戸口をひきたて、無情にお腹召され」と、なっているのは、時代も後世だし、翻訳に困ったのであろう。
 初めに本能寺は、寺(templo)だと書いておきながら、「客殿」の意味である御殿は判らなかったとみえ、これを宮殿(palacio)と訳し、「信長は宮殿の奥深くに入ってドアを閉めた。或者は切腹したというし、別の者は火を放って死んだという」と、もう初めに「火の手の上るのを見た」と書いているから、ひっこみがつかず逃げをうっているが、さて嘘というものは最後までは、つけるものではないから、ここの<信長公記>の翻訳だけで止めておけば良いものを、とうとう終りへもってきて、
「吾々が知りえたところでは、信長は髪毛一本残さずに、その遺骸をふっとばしてしまった」と、本当のことを書いてしまっている。
---引用ここまで---

そして八切氏は、フロイス署名の有る追記も後世に後から書かれたのではないかと疑っているようです。

---引用ここから---
そして、何故<信長公記>が出廻った後の時代になってから、さも、もっともらしく改まってから、それを土台とする創作するというか、脚色の年報追記が、何ゆえにマカオで作成される必要があったのか。ということになる。
 この報告書の表面の人物である司祭カリオンは、その後は名前が何処にも現れてこない。だが、天正十年の時点で本能寺から一町以内の天主教公会堂の主であり、神による全命令権を握っていた京都管区長オルガチーノは、信長殺しの時は、アリバイがあって、京都から天馬(ペガサス)にのったか、鹿児島の南端の沖の島へ行っていたそうだが、何故か秀吉の非公式の庇護をうけ、彼のみは天主教弾圧後も追放される事なくして、長崎で暮し、慶長十四年まで生きていた。
 だから、フロイス名による「この不可思議な、天正十年版という第二通信」が、慶長時の作成であったとしても、オルガチーノの申請で製造されたものなら、これは怪しむにたらないかも知れない。--中公新書の<南蛮史料の発見>の信長殺しの描写は嘘だとも言える。
 なにしろ、天正九年三月八日(洋暦)最高巡察使のヴァリニヤーノが、フロイスやロレンソーメンスを従えて豊後の日出(ひじ)港を出発し本州へ入ってきたとき、京都管区長オルガチーノは、これを迎え、二十九日に、信長の許へ拝謁に伺候するときは、巡察使の伴をし、四月十三日の安土城拝観の時も、そのお供をしている。
 そして、ヴァリニヤーノが天正十年二月二十日に日本を離れるに際し、伊藤マンショ、千々岩(ちぢわ)ミゲル、中浦ジュアンの三名。他にスペアというのか、身分の低い原マルチーニと、やはり洗礼名を持つ少年を、ふいに人選して連れだす時にも、フロイスと共に、その謀議に加わっている。
 さて、
 フロイスが<日本史>を執筆したのは天正十五年から文禄二年の間とされている。そして、
<信長公記>は、文禄五年が慶長元年に当るから、其後のものとされている。しかし、その巻十三の<無辺成敗のこと>などという一章は、そっくり以前に書かれた筈のフロイスの<日本史>にそのままで入っている。
 尚<信長公記>巻十二の<法華、浄土宗宗論の事>の一章のごときは、京都管区長オルガチーノによって、既に天正七年に九州のフロイスの許へ詳細が送られ、村上博士訳の「エーヴォラ版」では同一であると、松田毅一氏の対照表まである。こういう具合にフロイスのものと、太田牛一筆ともいわれるものが重複している点からして‥‥
 一五八ニ年つまり天正十年<日本ゼズス会年報通信>の信長殺しの場面が<信長公記>と同一であったとしても、間違いが共通していても不思議ではないかもしれない。
 とはいうものの、何故、そこまで作為をしなければならないのか、という疑問は残る。
 なにしろ、ヴァリニヤーノ==オルガンチーノ==フロイスと、三人とも、立派なのが揃いすぎている。そして彼等は信長に対しては極めて友好的でありすぎ、死後さえも、そうである、と文字では残っている。
 しかし実際において、信長たるや異教徒(ゼンチョ)どころか、自分が天帝だと自称する悪魔(ジャボ)である。天にまします唯一の神しか信じない彼らにとって信長は外道(げどう)以外の何者でもない。
 また信長も、火薬の硝石を入手しなくては困るから、外面では友好的に彼らを偶していた。だから互いに笑顔をみせあっている。
 だが、双方の内心は互いに見抜きあっている。そして天正十年五月、信長は堂々と、自分が天上天下、唯一の神であることを、誇示する殿堂をたて参拝者の人山を築いた。
 だからこそ、その結果が、翌月二日、髪毛一本残すことなく吹っ飛んでしまった。
 これはどういう事になるのだろうか。
 --だが、そこを突きつめる前に、また、これまでの犯人とされている光秀に戻らねばならない。
---引用ここまで---

自分が神になってしまえば、天皇も不要ですから、変の前日、公家衆がデモに押しかけたのかもしれないと思ったりします。
信長に敵対する勢力が居なくなった時期ですが、それだからこそ、天皇(公家)、宣教師、・・・、など、実は周りは敵だらけになっていたのかもしれない。



関係ないけど、現在の安倍政権、野党があまりにもお粗末なため、敵無しな状態です。まるで、本能寺直前の信長のような感じです。

加計学園メール問題で、マスコミも野党も安倍政権を追い詰めようとしてたようですが、私は絶対ムリだと思っていました。
メールは絶対に保管されているはずだと私は思っていました。何故かというと、文科省職員が何故こんなことをしたんだと追求されたときに、こういう命令だったでしょ、という証拠として、職員自身が追求されないために残しているはずだと。

ただ、メールでは、裁判などで証拠として取り上げられるかどうかはちょっと弱いなということも感じていました。だって簡単になりすましが可能ですから。自筆の文書なら、筆跡鑑定などで個人をある程度絞り込むことができそうなので証拠となるでしょうが、メールでは。
内容も、規制改革会議などで推し進めると決定した後なので、総理のご意向と書かれても不思議はないという評論家が居ましたが私はなるほどと思いました。

ただこのような問題が出ていることは、まだまだ安倍一強なんですが、安倍政権に対する反発が強くなってきている感じがします。



おまけの動画。
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『信長殺し、光秀ではない』 30



前回のダワイでは、日本以外の資料を調べる必要性を述べ、フロイスの記録について少しだけ触れています。

---引用ここから---
(一部略)さて、フロイス記述に係る<日本史>には、信長殺しは洩れてはいるが、そのフロイスが、九州の口(くち)の津(つ)港にあって、五畿道各地の師父(パードレ)によって報告されてくるものを整理して、彼や、その同僚が転写をし、<日本ゼズス会報>として、マカオへ送っていたものの中にはこれは入っている。
 しかし、これとても、正規の年一回の、<日本ゼズス会一五八二年(天正十年)年報>ではなくて、何故なのか。そこは不明だが、<日本ゼズス会年報の追信>として別稿として扱われている。つまり、天正十年の年報を纏めてしまって、マカオへ発送した後になって、信長の、この事件が持上がったから、第二報として送ったという形式である。
 もちろん当時、彼等の用いていた太陽暦と、日本の太陰暦は違う。といっても、問題の六月二日は、当時のヨーロッパ暦でも六月二十一日にすぎない。
 どうして一年ごとに一回ずつ出されていた年報が、この年に限って、半年前で、しめ切りになって、「第二報」の追加版となっているのか、不思議である。
 しかし実際は五月の記事も入っていて変である。そして、この追加版の末尾を引用し、それに註をつければ‥‥
ーーー引用ここまで---

ゼズスはおそらく、ジーザス、つまりイエスのことでしょう。そして、信長殺しが第一報になかったことはもしかしたら、宣教師たちも信長殺しに関係しているのではと思わされます。



信長は腹を切らない・会報(197~201ページ)
---引用ここから---
「当都〔何処か不明、九州の口の津港か〕において、日本の至宝がなくなったといい、日本人自身の手で葬り去ったのだと話して喜んでいる者さえ少なくない〔註・ここが重点である。喜ぶ者とは誰か。それこそポルトガル人を主にした師父(パードレ)達をさすからである〕。この世においてのみならず、天においても勝(まさ)るものはないと考えられていた人物が〔註:師父達にすれば、天にまします神が唯一である。それなのに信長は、それを冒涜して、自分こそ全智全能の神であると宣言していた。紀元前においては、バビロンの神に対立した国王はいたが、この十六世紀の時点において、『イエス・キリストより自分の方こそ天帝である』と言い出したのは、古今東西、信長一人きりである。つまり織田信長たるや、天主教徒からみれば、それは呪わしい悪魔(ジャボ)以外の何物でもない。ここが、本当のところである。いくら汝の敵を愛せよといっても、遥か故国を後にして日本列島へきている神々の使徒と、自負する者にとって、その天帝をないがしろにする地上の暴君を愛したり赦せる筈はありはしない。俗界でいえば、これは商売敵であるからだ〕かくの如く信長は、不幸にして哀れな死をとげ、彼におとらず傲慢であった明智も、また同じく不幸な終焉をとげた。だが前述した通り、信長が、まれなる才能を有し、賢明に天下を治めた事は、これは確かな事実であって、哀れ彼は、その傲慢さの為に身を滅ぼしたのである〔註・この、日本人が読んでも抵抗を感じさせない書きぶりは、なんと言ったらよいのだろうか。信長の死を喜んだ事を明瞭に冒頭に匂わせながら、続いては、さも同情的に、また尤もらしく書いている筆致は、いかに解釈すべきなのだろうか。再言すれば、信長は、マカオよりの火薬が入手したさに、初めの内こそ天主教にはシンパであった。しかし、この時点に於ては、彼は既に偶像崇拝者。といっても、単なる仏体や神体を拝むのではなく、自分こそ天帝であると、師父達の説くイエス・キリストを凌駕する至上の神に、自分はなっていたのである。異教徒(ゼンチョ)などというものではなく、師父からみれば、不倶戴天の悪魔(ジャボ)なのである。それなのに、これが、師父たる者の悪魔に対する者に対する言葉であろうか。この作為、この不自然さは何を匿しこんでいるのであろうか〕。毎日、新しい事が起こっているが、あまり長くなるので次の季節風期に譲る。〔註・テレビの番組欄ではあるまいし、そんなに毎日変わってはたまらない。しかしこれは、六月の出来事を追信の恰好にしたことを、さも自然に見せかけるように、信長の死ぐらいな新しい事は、次々と毎日起こって珍しくもないと、ごまかしているのである〕われら一同、尊師の聖なる犠牲において推薦せられ、また祝福をうけんこと願い奉る。
  一五八ニ年 11月5日 ルイス・フロイス」
---引用ここまで---

八切氏はゼズス会の公式文書である<日本ゼズス会>にフロイスの私信がそのまま載っていることに疑問を持っている。フロイス自身も編集員の一人だが、他の会報には署名はつけていないのにこの追信会報だけは署名が有る。八切氏は、わざわざこんなことをしたのは、私信に信用を持たせるためではと疑っているようである。ちなみに、原文はマカオで消失してしまっているようである。そして日本の歴史学者はフロイスの名前に騙されていると考えているようである。

---引用ここから---
 ところが、中心になっている本文たるや、これは日本の<信長公記>に輪をかけたものである。しかし<中公新書南蛮史料の発見>などでは、
「キリシタンらが、私にこう話した……というように一人称で記したことが、怪我の功名というか、この唯一の報告書を、絶対的に権威あらしめる結果となった」というが、はたしてどうであろうか。私には、拵えすぎが目につきすぎ、唯、信頼できるのは「信長が、髪毛一本残さず、灰塵のように、ふきとび消滅した」という情景描写の一章節だけと思う。
 なにしろ、当時の京都管区長はオルガチーノであるに拘らず、何故なのか彼は、沖の島へ遁れてしまう。そこで、「止むなく代理に自分が報告します」といった形式で、一司祭にすぎなくて責任者でもないポルトガル人のカリオンが<私>という一人称で、この報告書を書き綴っている。
 どうも腑に落ちない。オルガチーノは、その後、秀吉の宣教師追放令が出たときも、なぜか彼だけは特に黙認の恰好で、その儘日本に滞在し、慶長十四年に長崎の天主教会堂で昇天しているが、この天正十年の時点。沖の島といえば、京より遥か遠い九州の涯なのに、どうして、そんな遠い所へ、交通機関もない当時、徒歩で京から下関まで歩いて逃げ、そこから九州へ海をわたって、逃亡したのか理解に苦しむ。
 なにも、京から脱出するんなら、すぐ近くの高槻や伊丹、茨木に、和田とか高山、中川といった切支丹大名が、びっしりと目白押しに並んでいたから、オルガチーノ一人ぐらいなら、何処の城でもすぐ匿(かくま)ってくれ、手厚く大切にされた筈である。
 それなのに、そこを通り越して、九州の涯まで逃亡したという事を、フロイスが書いているということは、ここに二つの答えを提示しているのであるまいか。
 一は、「オルガチーノが、秀吉に何か依頼されて六月二日に、何か重大な事をしてしまった。そして、もし、それが発覚したら、自分一身の危険だけでなく、ゼズス派の教会や信徒みんなに迷惑を及ぼす。だから日本式にいうならば、長い草鞋(わらじ)をはいて逃げのびた」
 二は「この、フロイスの名入りの、一五八ニ年ゼズス会年報の追加版は全くの偽物である……ということは、或る種の秘密の漏洩を防ぐために、日本から当時送られてきた師父たちの報告はみな消却してしまって、日本へ行ったこともない人間の手によって、これは贋作された。だから、日本の地理に詳しくない人間が、沖の島というのを琵琶湖に浮かぶ竹生島ぐらいのつもりで書いてしまい、距離感を失念していたのが、その例証である」
---引用ここまで---

オルガチーノは、現在では、オルガンチーノと表記されるのではと思いますが、この人物が本能寺の変の最中には京都から逃れていることが気になります。手下に命令して、自分は疑いの掛からない場所でアリバイを作っていたのかと下世話な話が好きな私は勘ぐってしまいます。

---引用ここから---
 さて、この追加版には、こういう記事がある。
「安土に總(そう)見寺という社をたて、信長は自分から神と仰がれるようにと望み、神体を祭壇に飾り五月の彼の誕生日には、参拝する群衆で、ごった返した」
 という、私共が読めば、たいして奇異は感じはしないが、天帝を唯一の神と仰ぐ天主教徒の師父たちにとっては、まことに天地いれざる悪魔の所業を、まっ先に書いて信長を弾劾している。つまり原因結果論の、これは原因というところなのだろうか。さて、当日の事である。「六月二十一日(日本では二日)、まだ夜も明けぬ頃、ミサを行うため祭服に着替えていた私、つまりカリオンは急報に接した。〔註・誰から、そして何処からは、書かれていない〕「そして銃声が聞え、火の手が上るのが見えたのである。新町通りに接した南蛮寺から、西洞院通りの現場までは目と鼻だった〔註・雉も鳴かずば、撃たれもすまい。というが、こう言う不条理を書き残しておくから、私の疑惑を招いたのである。六月二十一日の天候の夜明け前と言えば、午前四時である。いくら早朝のミサといっても、服を着替えるのには、まだまだ早すぎる。これは急報を知らせにくる使徒の来るのが判っていたからこそ、手さぐりで灯をつけ着替えていた。次に、「暫くして」なら、まあ譲歩もできるが、「そして」とある。すぐである。銃声がして火の手が上がったというと、これでは午前四時半には、本能寺は炎上したということになる。それでは、この包囲軍が二条城に現れるまでの、以後三時間半というもの、この謎の上洛軍の首将達は、この南蛮寺へきて、カリオンにミサをしてもらい、神の祝福でもうけていたと言うのであろうか。それも距離が遠くて、はっきり判らないというのなら別だが、新町通りの裏通りが西洞院通りである。つまり南蛮寺の裏口から本能寺正面までは一町どころか、その半分もないことを、カリオン自身も、これを認めている。だから余計に訝しい。謎以外のなにものでもない〕
---引用ここまで---

流石に夏至の近くなった6/15付近では、秋田県の北の外れにある我が家では、朝4時では日の出前ですがそこそこ明るくなってきますが東経が違う京都ではどうなんでしょうね。6/2頃の京都の朝4時は矢切氏の言うように暗い時刻なのか私はわからないので知りたいなと思ってます。

ほとんど老人になりつつ有る我が家周辺では、年金暮らしのため電気代を節約するためか日の出とともに起きて活動し、夜8時ちょっと過ぎには寝てしまう、うちの親父みたいな人間が、電気照明なんか無い戦国時代はほとんどだったと思います。ですから、京都での6/2の朝4時の明るさがほんとに気になります。

それはさておき、宣教師側も信長殺しに関係していそうな感じが濃厚になってきてますね。



おまけの動画。

アップした人の紹介文によると、

足軽先生のラップをフィーチャーしたナンバー。ラガマフィン風のラップは先生自らのアイデア。 この曲では物事を鵜呑みにしちゃいけないよってことを伝えたくて。歴史には事実とは違う出来事が混じってたりするし、鎌倉幕府が開かれた年ひとつとっても、いろんな説があるんだよって。

とのこと。

『信長殺し、光秀ではない』 29





信長は腹を切らない・ダワイ(192~197ページ)

---引用ここから---
 さて、なんといっても不可解なことは、六月三日以降、つまり、その翌日以後も引き続く、「洛中騒動不斜」の連続である。
 従来の歴史家の解明では「信長の遺臣狩りをして、捕えては六条河原で斬殺した。その騒動が、ずっと続いて、洛中は上を下への騒動だった」というのだが、洛中どころか、六月二日までは誰彼なしに、みな信長の遺臣の筈である。
 叛乱軍側の叛徒探しならわかるが、一人残らず信長の旧臣であって、その連中を明智側では、味方に抱き込もうとしているのに、どうして、全部を敵に廻してしまうような「遺臣狩り」などするわけがあるだろうか。
 これは、はっきりいって「信長探し」であろう。なにしろ、まるっきり残されているものがないから、「事によったら本能寺に泊まって居られずに、どこか、他所で外泊されていたのではあるまいか」と、手分けして明智側で洛中を探し廻っていたのだろう。
 ということは、「信長の死を確認できずに、狼狽していた明智光秀」の方は、なにも、犯人ではなく、「遠隔の土地にいたとしても、信長の死を、はっきり知っていた連中」及び、同日、遠くへ逃げのびてしまった者の方が、これは怪しいということになるのではなかろうか。
---引用ここまで---

そして、光秀側が信長の死を確認できなかったのは、光秀軍はただ本能寺を囲んで見ていただけで、攻めかかっていないからと八切氏は考えている。なるほど、これなら、弓一丁、槍ひとつで何時間でも耐えることは出来る。何しろ攻めかかってこないのだから。そして、光秀側が信長の死を確認できなかったのも理解できる。

---引用ここから---
 どうして本能寺の方は、あくまで弓も射らず、槍もふるわず、全然、戦っていなかったかというのは、時間からも割り出していける。<当代記>によれば、二条へ信忠と一緒について行った連中というのは、坂井越中、団平八、野々村三十郎、赤座七郎左、猪子平介、菅屋九右父子といった、自分から槍をふるって奉公し、ようやく生き残って何万石かの大名になった、いわば立志伝中の武者である。
 当時の言葉でいえば「武辺(ぶへん)者」と呼ばれた豪傑である。この一騎当千の連中が約五百人で篭城したのが「武家御城(ぶけごじょう)」と呼ばれた洛中唯一の要塞の二城城。この方が、午前七時から午前八時までの間に攻撃され、午前九時には落城しているのに、壕もなく溝で囲まれ塀とてない本能寺の信長が、鉄砲一挺の供えもないままで午前四時から午前七時又は七時半まで持ち堪えられたということは‥‥
 対比さえしてみたら、その訝しさは、すぐにも判るものである。
---引用ここまで---

そして、日本側の資料は、権力者で改変された可能性や、陣内グループによる贋作の可能性もありますから、八切氏は宣教師側の、フロイスの日本史の資料を検討していきます。



おまけの動画。

原曲では確かパンフルートも使われていたような気がしますが、そこのところは、尺八で表現。いいフレーズは楽器が違ってもいい。

『信長殺し、光秀ではない』 28



おそらくこれが、、最初に刊行された版だと思います。私の方は作品社で再刊行されたものを利用しています。



信長は腹を切らない・言経記(187~192ページ)

ちょっと前の土曜日の夜のニュースの一コーナーで、本能寺の変で、安田作兵衛という武士が信長に槍で傷をつけたことは絵草紙等で江戸時代には常識になっていたが、昭和に入ってからは、信長公記等の一等資料にその記述がないことから、おそらく自己宣伝のたぐいの話で現在では信用されていないという話題が出ていました。ただぼんやりテレビを見ていたので、一体どこの放送局なのか、地上波なのかBS放送なのかもわからなくなっています。

八切止夫のここの部分の最初は、安田作兵衛なる人物は創作上の人物で、講談であると断じています。
そして、本能寺の変で、信長が実際に本能寺の変の最中に確実に居たという証言をしている確実と思われる資料はは実は無いと書いています。

もし、本能寺の中に攻め込んで、信長の所在を確かめた部下がいたならば、(前のブロックに書いていることですけど)
>さて、この次に<当代記>は、はっきりと、
>「焼死に給うか。終いに御死骸見え給わず。惟任も不審に存じ、色々相尋ねけれども、その甲斐なし(御年四十九」
>と出ている。
とはならないし、その後、信長の遺体探しはしないでしょう。

---引用ここから---
 なにしろ、現実の問題としては、寄手(よせて)というか、本能寺外部の人間は、誰も信長を見ていないらしいのである。
 もしも誰かが、その存在を確認していたものなら、周囲には、びっしり一万三千という人数が蟻のはい出る隙間もないくらいに完全に取巻いていたのだから、もし屍体が発見できなくても「信長の死」と、いうものは、確認できた筈であろう。それなのに、
<言経卿記>
 六月三日、己丑、晴陰
一、洛中騒動不斜
一、禁中へ徘徊了、今夜番ニ弥二郎進了
(御所へ警戒のため夜番の者を供出)
 六月四日 庚寅
一、禁中徘徊了
一、洛中騒動不斜
  約五行分削除空白(続けて)
 六月五日より十二日まで削除中断。
 六月十三日
一、惟任日向守於テ山崎ニテ合戦。即時敗北。伊勢守(伊勢貞興)已来三十余人打死了。織田三七殿(信孝)羽柴筑前守已下従南方上了、合戦也。二条屋敷(下御所)放火了。首共本能寺ニ被曝了。
◯何故、もう一度、二条御所に対し、山崎合戦後に放火し、誰を殺して首をさらしたか、ここに問題がある。従来の史家の説明や東大史料編纂所の解明では「光秀又はその家臣が放火し、その首をとって曝した」ことにされているが、山崎合戦で破れ、そして追われた明智勢が、本拠地へ脱走するのが常識なのに、どうして堂々と勝利者みたいに入洛し、なんの必要があって十一日前に戦火にみまわれ、あらかた灰塵に帰した二条御所へ、改めて又も放火する必要があるのだろうか。
 もちろん、二条御所に放火したというのは、そこに特定な人間がいたという立証のない限り、これは六月二日事件の証拠隠滅を企てたものと思われる。となると、これは明智側から放火したのか、秀吉側か、はたまた、どさくさ紛れに誠仁親王の雑掌が潜入して、残っていた火薬に火をつけ、これが火災になったのか。疑問があるが、そこのところは判然とされていない。
(中略。簡単にまとめると、山崎合戦の真相を書いたものは残っていない。)
 =「小栗栖村長兵衛」という講談では、この十三日に、光秀が竹槍に刺って死んでしまった事にされているが、<言経卿記>では、全然違う。
 六月十四日 削除 空白
 六月十五日
一、惟任日向守、醍醐辺ニ牢篭、則チ郷人一揆トメ打之、首本能寺ヘ上了。
 六月十六日 削除 空白
 六月十七日
一、日向守内斎藤内蔵助(内蔵介利三)、今度謀叛随一也。堅田ニ牢篭、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六条川原ニテ被誅了。

 この<言経卿記>は、六月十八日からは、「甲辰、天晴、晩雨」などと、その日の干支や天候も入れられてあるが、六月四日から十七日までは、慌ただしく、それも記入されず、この十四日間で、残存されているのは僅か四日分。あとの十日分は、みな削除されて伝わっていない。それだけに真実性が感ぜられるけれど、もちろん、破いたのが、山科言経なのか、誰かは判らない。が、この中に、あらゆる秘密があったのだろうし、今日、光秀が犯人に仕立てられている謎も、この削除部分に有ったのだろう。
---引用ここまで---

加計学園問題では、政府側は安倍政権からの圧力を示すメモは不都合だからなかったことにしたいし、普通であれば、文科省内部の公務員も守秘義務違反になるので、辞めたとしても公開するはずがないので、普通は出ないんですが、おそらくは文科省の天下り問題の中心人物として首にされた(菅官房長官の話からはそういうふうに受け取れる。)恨みがあるために出てきたのでしょうか? それとも、戦国時代なら問答無用で殺されるけれど現代はそこまではされないために勇気を持ってメモの内容を話したんでしょうか?
ただ、公文書ではない単なるメモなので、裁判でも証拠として取り上げるのかな? おそらく証拠書類にはならないような気がするのは私だけでしょうか。

とと、話を戻して、・・・・・、

<言経記>の削除部分は残念ですね。あれば歴史の真実がはっきりしたのに。



おまけの動画。

DVD化されないのはほんとに残念。なんとなくジョニ・ミッチェルのバックで演奏しているジャコ・パストリアスのように、上原ひろみがサラリとすごい演奏をしていて、DVD化されないのがほんとに残念。

『信長殺し、光秀ではない』 27


私の記憶では、講談社版が最初の版だったような気がします。値段も安いしこちらを貼っておきます。



信長は腹を切らない・当代記
前半は、本能寺の変で防戦した信長や小姓の武器についての追求が書いてある。小姓たちは刀を持って防戦している絵が有名になってしまっているが、本能寺は寺であるし、武器を持ってきた記録がないそうで、およそ三十人いた小姓と同じくおよそ三十人いた厩(うまや)番の人間には武器がまったくない。その他にいたのは、当の信長と配膳の係としての女中衆のみである。(濃姫の記録は結構早い段階で見えなくなっているようです。ですから、本能寺で濃姫が戦ったということはありえないみたいです。)
信長だけは槍と弓を小姓が捧げ持ってきていただろうが、他の武器はなかったと八切氏は考えています。武器どころか、鎧櫃も持ってきていないから、鎧もない。
・・・・・
ということは、・・・・・・

信長が奮戦したとしても、一人では三時間半持ちこたえることはできないから、武器を持たない小姓たちが、弓・槍を持った敵将を防戦しきったということになります。まったくありえない話です。

絵のとおり、小姓が刀を持っていたとしても、戦闘力では刀は槍にはかなわないそうです。だから戦国時代の武将の武器は槍・弓・鉄砲が大部分であったそうで、関ヶ原の役に参加した二天一流の宮本武蔵はほとんど武功を挙げることは出来ず、細川家の食客で終わっているのもそのせいだと八切氏は書いています。

信長は弓が切れた後、槍で防戦したが傷をおったので、小姓たちに任せ、奥にこもって火をかけたと小節などで書かれています。それで、火の出た建物の中で探し回ったとしても、・・・・・

八切氏は、本能寺の敷地は一町四方と書いています。一町は約109mだそうです。本能寺は平屋だったそうで、せいぜい四間か六間くらいの建物だったのではないかと考えています。推定百二十平方米くらいの客殿は、暮しの手帖の花森安治の火災実験によると、およそ十二分から十五分となっていると書かれています。(八切氏は一時期消火器販売に乗り出し、こけし型の消火器を売っていたようです。そして、暮しの手帖の製品テストで叩かれたためか、消火器販売は大失敗しているようです。ですから、ここの部分は、その経験から書いているのかなと感じます。)

・・・・・・・・・
ということは、それほど部屋数がないのであっという間に信長の隠れた部屋は判るだろうし、三時間半持ちこたえる前に本能寺が焼け落ちてしまいます。

ということで当代記の内容はあまり信頼できないと考えているようですが、ここの部分は重要視しているようです。

----引用ここから----
 さて、この次に<当代記>は、はっきりと、
「焼死に給うか。終いに御死骸見え給わず。惟任も不審に存じ、色々相尋ねけれども、その甲斐なし〔御年四十九〕
とでている。
----引用ここまで----
信長の遺骸は、発見されなかった、ということを、八切氏は重視しているようです。



おまけの動画。

おそらくDVD化ができないのはこの箇所が原因か。
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