もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 18





森蘭丸は美少年か・目的(122~129ページ)

続けて、<信長公記>に書かれている信長の行動がおかしいと八切氏は書いています。

---引用ここから---
 その巻の十五の<信長公御上洛のこと>原文によると、
「御小姓衆二、三十人召しつれられ、五月二十九日ご上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り候て、御いっそう次第、羆(まか)りたつべきの旨、御触れにて、今度は、お伴これなし。さる程に、不慮の題目しゅったい候て、」
 で終わっている。ここで引掛るのは、
「御いっそう」という語句である。さっと読んでしまうと、中国地方へ出陣するのだから、至急いっそう次第に出立するというので、意味がその儘のみこめるようでもあるし、判らなくもある。但し原文は「一左右(いっそう)」となっている。ということは、この時代も、まだ漢字の使用法は発音を当てはめて用いるのであって、今日のように熟語の定型はないのだから、なんとも言いようもないが「一つのものを右から左へやる」のが「いっそう」ならば「一掃」という文字でも、良いのではないかと想える。まあ、こう当てるのが常識というものであろう。
 すると信長は、中国へ出陣するに先立って、
「何かを一掃する目的」で上洛した事になる。
 そしてその何かは、京都にあった。
 しかも、その何かは、信長が出陣に当って後顧の憂いのないように、自分で整理して行かねばならぬ程の大問題であるが、小姓ニ、三十を伴ってゆくだけでも、事たりてしまうような相手で、その示威のためであろうか、今度は「お伴これなし」それで、「舐めてかかったから」あべこべに「不慮の題目」が出来(しゅったい)してしまったというのである。
 これを検討していくと、信長殺しの謎の中の一部分は判ってくる。
 つまり六月二日に洛中の大名屋敷の留守武者二千が動かなかったのは、これはストライキではない。命令によるものらしい。しかも、その命令たるや、皮肉な話だが、信長からの発令らしい。
 おそらく「何かを一掃するために」上洛してきたのだから、
「洛中に騒動これありとても、構えて一兵も出すまじきこと」といったような指令が、本能寺門前にあった司所代役の村井長門守から、各大名屋敷へ通報されていたのではあるまいか。当時の事だから、もとより詳しくは教えてなかったのだろう。
 だから四条の本能寺で大騒動が起きて、各大名屋敷は色めいて周章狼狽したが、前もって、天下びとの信長から「絶対に出動すべからず」と命令されていたから、もし違反したら、大変であると、まさか当人の信長が包囲されて居るなどとは、夢にも想わず、みな自分の屋敷だけを厳重に守っていたのではなかろうか。と、これから納得できる。すると、その一掃すべきものは、これは、大物という事になる。
---引用ここまで---
~らしい。という文末がたくさん出てきます。ですから、ここは八切氏の想像が多分に含まれていそうなところです。

次いで、本能寺の変前日に茶会を催したことについて、追求している。
---引用ここから---
 さて<角川新書の織田信長>をもち出しては悪いが、その中に、左記のような記述がある。こと事件前日のことなので、徹底的に解明をしなければならない。
「<仙茶集>というのに<御茶湯道具目録>と題する覚え書が入っている」と、まず書かれている。
「それは『日付は午(うま)の六月一日』『宛名は宗叱(そうしつ)まいる』『差出人は長庵判』とあり、三十八点の名物茶器の名が列記されている。つまり、この覚え書は、天正十年六月一日、本能寺の変の前日に、博多の島井宗叱に披露して見せる信長秘蔵の名器三十八種の目録をかきあげ、宗叱に与えたものである。また長諳(ちょうあん)の追記として『この他にも沢山あるが一々書きたてるのは止めた。また、三日月の葉茶壷、松島の葉茶壷、岸の絵、万里江山の絵図、盧堂の墨蹟などは、大道具で、持運びが不自由なので、安土の城に残してきたから、また次の機会に改めて拝見させる』とことわりが出ている。だから、この目録にかいた三十八種を安土から本能寺に運搬してきて、本能寺の書院で茶会を催すために、信長は上洛してきたのである」
 と説明されている。そして、
「信長は単なる武将ではなく、茶の湯ずきの趣味家で風雅の道に志が深く武略にたけた強豪である反面に、かなりの数寄者でもあって、西国出陣の途中、わざわざ秘蔵の名物茶器を披露する茶会をやる為に、本能寺へよって、災難にあったのだ」
と、これを尤もらしく説明しているが、はたして、この人の説は、どんなものであろうか。奇怪そのものである。
 これによると、まるで楠長庵が、信長の代理人のように、「これとこれとを見せてやる。この他の物は沢山あるから書くのはやめた。大きな物は持ってこられないから安土の城へきたら、そこで見せてやる」と大言壮語をしているが、それ程のポストの人間だったのだろうか。
 吉川弘文館の<戦国人名辞典>においても、彼は、
「文禄元年、朝鮮の役にて、肥前名護屋城にて、宿直番士の記帳に当っていた」と出ている程度の人間である。つまり「誰某は宿直、誰某は、あけで帰った」という人間のタイム・レコーダー係である。しかも、これが本能寺の変から十年後の長庵という人物の現実の姿である。
 しかも初めは大場長左衛門といっていたのを、楠木正儀(まさのり)の子、正平の八代の孫だと自称して「楠正虎」とまで名のった人物である。
 だから<戦国人名辞典>では、彼に関しては「信用出来ない」という言葉を繰り返して二ヶ所も出している。
 もちろん「楠」に改名したのは、信長の在世時代ではない。その頃は長左衛門といって、祐筆の下の書記ぐらいの身分らしい。というのは、その後、安土城が炎上して実物が何も残っていないから、よい加減なことを書いているが「三日月の葉茶壷や松島の葉茶壷が大道具で、持ち運び不自由で安土へ残してきた」というが、この二つは普通の茶壷の大きさである。運び瓶(かめ)の茶の大壷と、掌にも乗る茶壷との区別さえ、この男は知っていないのである。
 それと、もう一つ訝しなことは、まるで彼が、信長の側近として、本能寺へ同行してきているような書き方を、この筆者はしているが、六月一日に本能寺で茶会を催しているというのに、彼と島井宗叱は双方とも唖で口がきけず、当日二人は筆談を交したのだろうか。
 さもなければ、手紙なら、いざ知らず、向きあった長庵が、眼の前の宗叱をつかまえ、
「うまの六月一日、宗叱へまいる。これこれと三十八点。この他に沢山あるが、いちいち書くのはやめた。また、あれとあれとは大道具で持ち運びできなかったから、後で見に来い」
 と、口でいったというなら話の辻つまも合うが、なぜ紙にかいて、それに判を押して、手交しなければならないのか、いくら頭をひねっても、愚かな私には、納得できもしない。
 常識で考えても、向き合った二人が筆談して、判までおし渡しあうというそんな変てこな状態は想像もされない。
 もし筆者が書いているような、そんな「覚え書」があるものなら、それは楠長庵が書いたことに、三百八十五年後の誰かがしてしまった想像の創造であろう。
 なにしろ当日、その宗叱が主客だというのなら、「耳がつんぼだったかも知れないから、向き合って筆談をしたか」とも、ごま化しはきくが、「六月一日の信長の名物びらきの茶会は、本能寺の書院でもよおされ、正客は近衛前久であって、地下人に相当する宗叱と宗湛は、相伴を命ぜられたのであろう」と、筆者は説明している。すると、主客は放りっぱなしにして、たった二人だけで紙にかいたり判をおしたりして、やりとりしていたのか全然ピンとこない。
 そして、おまけに筆者は、しつこくも、その島井宗叱が、初夏のころ、同じ博多衆の神谷宗湛を同道し、六月に信長が茶の供応をするというので本能寺に参上したところ、明智光秀の乱が起こった為に、早々と本能寺をひきとった。そのとき「弘法大師の真筆千字文の掛軸」をもち帰ったという。又、神谷宗湛の方でも、宗叱と同伴上洛し、本能寺で信長に謁見したが、そのとき、明智の乱が起こったので、本能寺書院の床の間にかけてあった「遠浦帰帆の図の一軸」を持ち戻った。というが<山科言経卿記>では「近衛前久ら四十人の公卿が本能寺へ集ったが、それは『数刻御雑談、茶子、茶有之』という原文になっている。つまり、茶会などひらいてはいない。御述するが、もっと大切な密談なのである。
 それなのに筆者は、宗叱と宗湛の二人だけを、旅館のように本能寺へ勝手に泊めてしまい、夜明け方明智の乱にあったという。だったら、この二人や楠長庵は、全員玉砕だからヘリコプターでも使って脱出したのだろうか。
 しかも、生来、手癖が悪いのか、二人で共犯で床の間の軸や掛物をかっぱらったということを、書き加えている。
 ふつう、他家の他人の物を黙って持ち出してきたということは、あまり賞められたことではないから、事実そうであっても、こんなに堂々とは書かないものである。処が、この場合は、明白に「窃盗行為」の事実をしめしている。ということは、歴史屋である一面、書画骨董(こっとう)の鑑定をば営んでいる筆者が、前述二品の書画に折紙をつけて、その市場価値を高めて謝礼を得る者に頼まれ、出所を権威づけようとして、信長の遺愛品として証明したさに、彼自身の都合で、六月一日を尤もらしく茶会にしてしまったり、架空のフィクションをさも本当らしく舞文曲筆しているのではあるまいか。いくら宗湛や宗叱が泥棒にされたり、楠長庵を勝手に躍らせても、四世紀前の人間では何処からも文句がこないからであろう。
 なにしろ、この筆者は歴史学者には惜しいくらい、小説家以上に創作能力があまりにも豊かにありすぎる。
 さて、この茶会が六月一日という彼の発想は、私の想像では「忠臣蔵」からの借りものではなかろうか。
「頃は元禄十五年、十二月十四日の赤穂浪士の討入」が、「吉良邸の茶会のあと」だったという連想から、「茶会 疲れてみな寝ている。夜明け前に討入り」というプロセスをかりて、あわれ織田信長を吉良上野介と同じようにしてしまったのではなかろうか。
---引用ここまで---
鉄砲の火薬欲しさに、信長は一時キリシタンを歓迎し、その後茶の湯を始めた豪商と手を組んだという八切氏の考えを以前紹介しています。だから茶会を行うとしたら、その豪商相手か、狭い場所で行うので武将と密談をしたり脅したりとかはありそうな気がします。
でも本能寺の変の前日の茶会はどうやらなさそうですね。

---引用ここから---
 歴史家の中でも唯物史観にたつ若い人は、よく勉強しているが、この筆者のような、尤もらしく書く人は困る。私の父と同年輩なので、あまりいいたくはないが、
「織田信長が安土から出洛してきた五月二十九日」
 この日、京にいた徳川家康は穴山梅雪と共に堺へゆき、同日は、津田宗及(そうきゅう)の昼茶席。
 その夜は松井友閑邸へ泊り、翌日は堺衆の茶席が催されている。ということは、彼の説をとるならば、同時に二ヶ所で盛大に茶会が催されたことになる。
 ところが、千の利休が、秀吉の御抱え茶頭になったのは翌年天正十一年五月からであり、当時の信長の茶頭は、やはり堺衆で、皮革商武野紹鴎(じょうおう)の門下津田宗達の伜の宗及である。それなのに、信長の茶頭役が、本職の信長の方の名物披露を放りっぱなしにして、堺の方で当日は家康接待の茶席を催している。こんな事が、有り得るのであろうか。
 そしてこの天正十年六月の頃は、まだ北向道陳の、流れを汲む利休の時代ではなく、武野派の油屋紹佐、茜屋(あかねや)宗佐、銭屋宗訥に、今井宗久の全盛期である。だから宮内卿法印の官名を持つ堺の政所(まんどころ)の友閑邸へ、六月一日、彼らは集まっていたのである。
 筆者の説によると、まるで徳川家康が信長に対抗して、同日に茶会を催していた事になるが、そんなことをしに、わざわざ信長へ献上の三千両を担いで出てきたのではない。しかも案内役というか随行に、安土から信長の近習の長谷川秀一がついてきている。信長が本能寺で名物披露の茶会をやるのに、何故同じ日に堺で同じようなことをやらせるか、とても常識では考えられもしない。一流の茶匠の数は限定されていて、しかも当時は圧倒的に堺在住が多い。
 それなのに堺で同時開催というのは、これは明瞭に、信長への対抗であり妨害である。もちろん、松井友閑も信長の家来である。どうして邪魔になるような事をするだろうか。この歴史学者は、今日の神風タレントの掛け持ちでも考えたかもしれないが、その頃の交通機関では、京と堺間の、同じ昼間でのトンボ返りは無理である。
---引用ここまで---
結論。本能寺の変前日の茶会はなかった。では何が有ったのかは次に書かれています。

※八切止夫氏の息子は、神楽坂でトレドというカレー店を営業しています。そこで『信長殺し、光秀ではない』を読みました、といったところ、読みにくかったでしょうと言われました。
森蘭丸は美少年かという大きな章の中の小さなブロックの途中から、森蘭丸のことは全く無くなり、前日茶会が有ったかという話になり、実際は茶会でなく◯◯だったというのが次回紹介するところで、勿論ここにも森蘭丸はでてきません。なんというか、推敲が全然足りないんです。たしかにそんなところは読みにくさにつながっていると思います。
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『信長殺し、光秀ではない』 17



もし、八切止夫氏が現在生きていたら、金正男暗殺事件について、どんなことを言っただろうと考えてしまうくらい、わけの分からない事件が起きています。
写真週刊誌を見ると、暗殺された人には入れ墨がないから影武者が殺されたのではないかと言う説が出ていましたが、たとえ影武者だとしても、あれだけ目撃者の多い中で暗殺したのだから、影武者が暗殺されたのなら、間髪入れずに本人から生きていることを、何処か安全な国でマスコミに流すはず。そうしないと社会的に抹殺されてしまいますから。
とりあえず、一番利益を得た国は何処だろうかと考えてしまう。金正恩もこの事件で数少ない友好国を失い、中国からも石炭を留められ、損ばかりです。案外、陰で糸を引いていたのは中国だったりして。不測の事態に答える用意はあると中国の要人が話したというニュースもあるみたいで、北朝鮮に攻め入るのではという観測もあるようです。



森蘭丸は美少年か・虚像(106~122ページ)
森乱丸が絵巻物などで、若い美少年に書かれてしまって、実際の年齢よりも若く書かれている理由について、こんなことを書いています。

明治から大正にかけての時代は、稚児ブームだったからと。つまりホモの時代だったと。

信長自身はホモであったという説があるようで、八切止夫氏も支持している感じがします。ただし、その原因は濃姫の嫉妬と書いていたような気がします。『徳川家康は二人だった』に、そんな感じのことが書かれています。

ということで、信長はホモだったから乱丸も稚児だったのではという考えも成り立ちそうですから、それに対する八切止夫氏の答えを引用しておきましょう。

---引用ここから---
 もちろん信長の側近の小姓でも、当時の言葉で「自愛のもの」とよばれる者も居るにはいた。<当代記>第二巻の谷河藤五郎のような者である。だが森兄弟は、森三左(容貌魁偉という記録があることを前回載せています。)の遺児である。なにも器量で召し抱えられゲイで身を助けていたのではない。
 そもそも小姓組、近習組というのは、信長が、諸国の軍団へ派遣する為に養成していた、織田幼年学校の生徒である。年長の者は、士官学校から陸軍大学までの個人教授を受けていたのである。
 というのも、電信電話のなかった時代だから、一々早馬をとばせて指揮を仰ぎに来ておられては、信長としては勝機を逸する恐れがある。そこで、(その場において、自分と同じような判断を下せるもの)をと、これを養成したのであって、つまりは幹部候補生である。
(中略)
 戦国時代の延長である天正十年頃は、美醜の観点が泰平期の徳川時代とは違う。なにしろ実用本意で通った頃である。
「猛々(たけだけ)しき好き顔にて」と、<武者物語>にもあるように、この時代の好男子とは、
「戦場へ出たら、敵がドキッと肝をつぶすような、威嚇的効果のある顔こそ」よしとされていたのである。だから堀久太郎のことも、「お化きゅう武者」として詳細に書いておいたが、当時は、「三つ目小僧」の異名があって、天正五年に大和信貴城に立て篭って、松永久秀、久通父子が、信長に叛いたとき、久太郎が先陣をつとめて、まっ先に城門に駆け向かったところ、松永勢の兵たちは、
「年こそ違え、今日と同じ日に吾らは奈良の大仏を焼き払った。だから降魔の利剣をふるって、こんな牛頭(ごず)天王のような化け物が、攻めよせたのであろう」
と、久太郎の異相に、びっくり仰天。
 みな城をすて退散してしまったから、やむなく松永久秀父子は割腹の余儀なきにいたったという話が伝わっている。
<多聞院日記>にも、こういう話がある。
「信長の小姓あがりの近習で矢部善七郎というのがきたから、おっかないから銭を出した。それで済んだものと思っていたら、また明智光秀が来るという。なにしろ八月二十二日に、矢部善七郎が奈良の法隆寺へきたというので奈良中は大騒ぎをしたものだが、自分は八月二十四日に銭百疋を贈って、よくしてくれるように頼んだばかりなのに、また違った者がくるとは、なんたる恐ろしいことであろうか。まるでエンマ大王がきたようなものだと、奈良の者は戦々兢々としている」
 と奈良興福寺内多聞院の住持の英俊が、その日記にかいて居るくらいだから、小姓出身の善七郎も、決して、見てくれのよい顔はしてなかったようだ。つまり森乱丸にしろ、当時の小姓は、決して美少年ではなく、それより豪傑型であったようだ。
 <当代記>によると「柴田勝家が敵に奪われた旗を、その小姓の水野次郎右衛門が奪い返し、勝家に手傷をおわせた相手を、難なく倒してしまった」と、元亀二年五月十日の条にある。
 私どもは「鬼柴田」とよんで「勝家は強い」という概念があるが、実際は、彼よりも遥かに勇猛な小姓が側にいたのだ。つまり乱丸兄弟だって容色より、腕力で奉公していたのであろう。今日でいうボディーガードである。
---引用ここまで---

次に、本能寺周辺の武家屋敷にいた武士は何をしていたかについて、書かれています。

---引用ここから---
 さて、
「湯浅甚介、小倉松寿の両人は、町の宿にてこの由を承りて、敵の中へ交じり入り、本能寺へ駆けこみて討死」
 と<信長公記>の小姓名の羅列の最後に、こういう記載がある。だが、いかに解釈すべきなのか。
「一万三千に包囲させられている所へ、どうして二名が潜って入って行けたか。これはデフォルメであって、小姓組の悲壮さや健気さを強調するための造り事である」
 と、きめつけてしまえば、これは簡単である。だが、「もし事実かもしれぬ」と認めれば、こんな訝しな話が有ってよいものだろうか。
 当時、安土には各邸地を賜って、諸大名の安土屋敷があった。しかし京にも各大名の留守屋敷は、あったのである。
 明智光秀の二条屋敷も、元亀元年の姉川合戦のあと、信長主従の重だった者を宿泊させているくらい宏壮なものであったと、
<毛利家文書>には、七月四日の条にある。
 つまり、秀吉時代の伏見城程には、各大名屋敷は、ぎっしり並んではいなかったろうが、それでも細川屋敷、筒井屋敷を初め、すくなくとも五十や六十はあった筈である。
 家がある。ということには、そこに人間がいたということを意味する。留守(るうず)とよばれた者達が、どの屋敷にも最低四、五十人はいた筈である。
 万一の際には、そこの屋敷に立て篭もって防戦し、あくまでも留って守るにたるだけの武者が、何処も待機していた。
 京の一条から九条までに散在していた大名屋敷を最低四十とみて、平均五十名の留守武者がいたとすれば、ここに二千名の精鋭部隊ができ上がる勘定ではなかろうか。
 そして、この時点。天正十年六月二日午前七時半に、本能寺が炎上する迄は、間違いなく「織田信長は天下びと」つまり国家主権者だったのである。そして、各大名屋敷の計二千の留守武者は、信長の家来の又家来、つまり陪臣ではあるが、やはり命令系統には入っていた筈である。何故、彼らは出動しなかったかのか。という疑問がどうしても湧いてくる。
 いくら当時の小姓は勇猛であったとしても、僅か二名の者が包囲中の本能寺へ入って行けたということは、なにも寄手へ斬りこんで、それで辛うじて境内へ駆けこめたと言うのではない。もし戦って侵入しようとしたものなら、本能寺の外で討死と見るべきだろう。
 そうではなくて、木戸口から中へ入れたのは、
「信長さまの小姓です」「そうですか。どうぞ」と、中へ入れたのだ。としか考えられない。
 そうなると包囲陣の態度も、従来の説明では通らなくなるが、何より不審なのは、本能寺へ駆けこもうとすれば楽に通行できたのに、このとき、一人も行かなかった大名屋敷の連中である。
(中略)
 このとき、二条の妙覚寺には、信長の嫡男で、かつて秋田城介の官位から三位中将に昇っていた二十六歳の織田信忠がいた。これには直属の寄騎である城持ち大名が約六十三人衆。
 旗本と後年は呼ばれる子飼いの武者や、小姓。そして、それらに従う陪臣がすくなくとも、初めの内は千はいた。
 だから、各大名屋敷の留守武者さえ行動をおこせば、信忠の手勢と共に、謎の上洛軍を一応は喰い止められるし、又そうすれば半日の距離である安土には、このとき、
<当代記>や<信長記>にあるごとく、
 本丸留守番は、津田十郎、加藤兵庫頭、野々村又右、遠山新九郎、世木弥左、市橋源八、櫛田忠兵衛。
 ニ丸御番衆は、蒲生賢秀、木村治郎左、雲林院出羽守、鳴海助右、祖父江五郎右、佐久間与六郎、箕浦次郎右、福田三河守、千福遠江守。
 といった陣容で、中国攻めの仕度をして、すぐにも出陣できる信長自身の旗本衆数万が揃っていたのだ。だから、これらが駆けつければ、本能寺は、ことなきを得た筈なのである。
 それなのに、彼らは動かずに、信長を見殺しにしてしまった。それも一糸みだれず何処からも打って出ず、まるで無人のごとく、ひっそり閑として、見送ってしまったのである。
 この時代は、まだ後年のように「忠義」というものは流行していなかった。大名は領地を、武者は銭を貰う恩賞しか、考えていなかった時代ではある。それにしても、これは、あまりにも極端すぎる。前もって、信長が死ぬ予報でも、出ていたのであろうか。
 そうでなければ恩賞目当てに、みんなで本能寺へ駆けつけ、信長公に尽くして、銭の一握りずつでも貰おうとした筈だろう。なにしろ儲かる機会だったのである。
---引用ここまで---
本能寺の火災は激しかったわけですから、駆けつける前に燃えちゃったんでしょうか?

『信長殺し、光秀ではない』 16





森蘭丸は美少年か・利用(108~115ページ)後半

---引用ここから---
 なにしろ偶像化されてしまっている蘭丸を、まず裸に剥いてしまわないことには、本能寺の虚偽は破れもしない。というのは、絵巻の中では、信長よりも、なんと言っても彼の方が立て役者にされているからである。
 絵によっては、小姓組の敢闘だけが画面に横溢して、信長のごときは右隅の濛々たる白煙の中から顔だけをみせ、完全なバイ・プレイヤーになり下がっている。

 さて、この時点。森蘭丸の身分は、どの位かというと、これは<信長公記>によれば、「天正十年三月二十九日、御知行割りを、仰せ出され、次第」とあって、「甲斐国を河尻与兵衛へ下さる。駿河国を家康卿へ」といった箇条書きの末文に、
「岩村を団平八へ、今度粉骨につきて、下さる。金山、よなだ島を森乱へ下さる。是れは勝蔵も忝(かたじけな)き次第なり」とある。
 岩村とは、美濃国岩村城で、それまで河尻与兵衛の城で、これは八切武者シリーズの「ああ夫婦武者」の主人公の団平八が貰ったのである。
 さて森蘭丸という名は、美少年として扱われる時だけの専用の愛情ネームとしての創作の当て字らしく、史書では「森乱丸長貞(ながさだ)」である。
---引用ここまで---
乱丸と蘭丸の違いがようやく説明されました。ということは、森蘭丸と表記されている資料は価値が低そうといえるのかな?
「ああ夫婦武者」は、作品社の再刊行した中にはない気がします。
---引用ここから---
 天正十年の武田攻めの総司令官として、織田信長の嫡男の信忠が進発したとき、その先遣隊として団平八と共に戦陣をつとめた乱丸の兄の森勝蔵が、その手柄によって、武田勝頼の旧領の中から、信濃の高井、水内、更科、埴科の四郡を貰い、「森武蔵守長可(ながよし)」として、川中島の海津城主として赴任のあと、それまでの居城であった「美濃金山五万石」と、「琵琶湖弁天浦よなだ島の一島」を拝領し、少なくとも五万五千石から六万石ぐらいの殿様だったのが、乱丸のまことの実像である。兄は当時「鬼武蔵」と呼ばれ、容貌魁偉といわれている。彼は、その弟なのである。「何々丸」というと「牛若丸」の、やはり絵本的教養から、すぐ稚児や小姓を連想するが「大蛇丸(おろちまる)」といった四十男の泥棒だって存在していた。
さて、美濃の金山城というのは、故高柳光寿氏の<本能寺の変・山崎の戦>などでは「兼山城」の名称で現れてくるから、ちょっと気付かないが、ここは、
「刀工関の孫六」で名高い関から入って、源氏野、八幡に到るまでの地域で、鋳掛屋部落といったの地名も、今日現存しているように、ここは当時、東海地方唯一の金山で、鉄も産出していたのである。
 つまり、金山城というのは、これは普通の城ではなく、<毛利家記>にでてくるところの、
「石見銀山は、銀、金、鉄をも、あまた産し、本城常光が当家に帰参せしより、山吹城にて採掘一切を司り、その奉行職を励む」
 といった山吹城にも当る、鉱山監督所なのだ。
 だから単なる領地を貰っての城主ではない。
---引用ここまで---
森乱丸の兄が容貌魁偉なら、おそらく弟の乱丸も容貌魁偉だったのではないかと思えてきます。それに鉱山の監督者が優男のはずはなさそう。

---引用ここから---
 そして、もし伝承されるように森乱丸が、当時それ位(省略した前文より、十五・六歳)の年恰好のものであるなら、弟の力丸や坊丸は何歳だというのだろうか。上の乱丸が十五、六歳なら弟共は、それより年弱の筈である。後年赤穂浪士が本所松坂町の吉良邸へ討入りしたとき、十三歳の茶坊主が、手当たり次第に物を擲(な)げて抵抗し、もて余した浪士に斬殺されたという事件があったから、この本能寺においても、同じように考えられがちだが、吉良邸の茶坊主は、そこに住み込んでいたのだし、力丸や坊丸は安土から馬にのって、早駆けして来ているのだ、という違いが現実にある。
 と言って、まさか「はいしい、はいしい、歩めよ、子馬」と、力丸や坊丸は、小さいのに乗ってきたのではあるまい。といって十や十二、三の子供が、普通の馬にのったのでは下まで脚が届くまい。といって、竹馬とも考えられないから、では誰かに背負われ、おんぶでも、してきたのだろうか。
 しかし、<信長公記>や<森家実録>によれば「坊丸は長隆(ながたか)」「力丸は長氏(ながうじ)」と、すでに元服を済ませているらしく名のりを付けている。
 すると下の弟の力丸あたりでも十四、五歳という勘定になる。さて、この二年後の天正十二年の小牧長久手合戦で、どうも故意に、秀吉に棄て殺しにされたのではないかと思うが、森武蔵守長可が戦死し、末弟の生き残りの千丸が跡目を継ぐ。森忠政であ
る。
 これは六男に当たっていて、生れた時は西暦1571年と記録に残っている。長男の長可の方は、これは1558年生れである。だから次男の乱丸以下は、この間の出生ということになる。
 ところがである。彼ら兄弟の父の三左衛門が、近江宇佐山の志賀城で討死したのは<多聞院日記>では、元亀元年九月二十三日、つまり1570年の事となっている。
 すると、これは数学上の問題であるが、1570年から1558年を控除した12という数字を六人兄弟の6で割れば、2となる。
 これは最後が六男だから、十二年間における森三左の生産能力の平均値である。勿論オール男というわけもないから、この間に何人かの女の子も、やはり産れているだろう。すると年子も入っていることになる。そこで兄弟の間隔は1年又は2年となる。兄の勝蔵長可が、本能寺の変の当時二十八歳だから、
「森乱丸は二十七歳か二十六歳」となる。
 これなら五、六万石の鉱山奉行でも訝(おか)しくない。
---引用ここまで---
本能寺の変当時、森乱丸は青年というよりは、壮年、というか武将としての働き盛りといえそうです。
やっぱり信長の立場としても、いざという時の用心棒が出来るくらいの年齢の武将を身の回りに置きたいのではないかとも思える。

『信長殺し、光秀ではない』 15



もうなんでこんな記事書くのかと、皆さん思っているでしょうが、ひとつは広告が出ないように、もう一つはこの読みにくい作品を読むために記録を残そうという大変個人的な事情で載せています。



森蘭丸は美少年か・青い実(102~108ページ)
今まで乱丸と表記していたのが、蘭丸となっています。<信長公記>での表記が乱丸、小説等では蘭丸ということでないかと想像します。いずれその説明も出るのかなと思います。
ここでは、森蘭丸を追求するということなんでしょうが、ここはばっさりカットしても実は問題なさそうなブロックです。マカオでの調査の日の思い出のようなものしか無く、愛しく思っていた若い現地の女性が嫁に行って寂しいとか、ホテルの若いボーイを見て森蘭丸のことを思い出したとか、そんな感じのことが書かれているだけです。

森蘭丸は美少年か・利用(108~115ページ)
森蘭丸の絵について、
---引用ここから---
 さて絵であるが、これは絵本よりも早く錦絵が出ていた。
 錦絵というのは江戸時代のものと思っていたら、これも明治二十九年本所から極彩四色刷の三枚続きで刊行されていた。どうも蘭丸や本能寺は、明治に入っての産物らしい。
 では、なぜ、こんな頃になってからブームになり、その後、大正、昭和となって今も続いているのかと思ったら、終戦時までは軍部推薦のものだ、ということが判ってきた。
 (一部略。日清戦争に勝った後、)
三国干渉を受けた。ロシアと衝突する立場に立たされた。(一部略)、国力の差があまりにも大きすぎた。小国が大国に勝つ方法が真剣に研究された。寡をもって大に当たる戦術を編み出すために、陸軍参謀本部は躍起になった。資料とすべき参考文献を漁った。そこで、ようやく見つけ、陸軍大学が採用したのが、明治十四年刊「史籍集覧」第十九である。
 つまり、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」というが、織田信長の(桶狭間奇襲作戦)が採り上げられた。
 勿論これは、解明する意志さえあれば「あんな非常識な出鱈目はない」と、すぐにも解きほぐしてゆけたろうが、そんな不都合なことはしなかった。他には毛利元就の厳島合戦ぐらいで、これといって別に何もなかった所為らしい。そして、大正、昭和と軍の指導方針は、これを踏襲した。
 そして、軍部の都合において、「人間、僅か五十年、化転のうちに比ぶれば、あに定めなき、人の世や」という「小敦盛」の謡曲も有名になったが、つまりは、
「死のうは一定。それ進め」と、ばかり私たち国民はガダルガナルやインパールの桶狭間へ追いたてられていった。もちろん奇勝する予定だった。だが信長みたいに義元の首級がとれなかった。なにしろルーズベルトもチャーチルも、本陣を、そこまで進めてこなかったせいだ。
「戦局苛烈」という言葉が使われ出した。
「玉砕精神」が国民精神総動員になった。
 青年が、ナパーム弾や火焔放射器のホースで、みんな真黒に焼かれて死んで行った。
 補充がつかなくなった。「産めよ増やせよ、地にみてよ」と、エホバの言葉まで蘇って出てきた。人間の増産を励行させるため、(一部略)、国策として「結婚奨励」が強行された。顔の美醜は問わず、第二の健全な少国民が産出できる母体こそ「愛国の花嫁」とされた。(一部略)
 だが、マカオの葡萄酒だって、まあ呑めるものは、少なくとも二十年もの、三十年ものである。だから人間も、インスタントに今日つくらせても、それはまだ赤ん坊で、明日立って歩けて、間に合うというものではない。仕様がないから軍部は、それ迄のつなぎに、青い果実のような少年を使いだした。しかし、それには模範的なサンプルを必要とした。
 Loyalty つまり「忠義」という、モラルの為に、その生命を提供させる雛型である。
---引用ここまで---
つまり、そういう戦時当時の軍部の都合により、桶狭間が強調され、兵力不足を補うための青年兵募集のために森蘭丸は美男で忠義者でなければならない。ということが解説されています。

次いで、森蘭丸の実情探しになります。

きりが良いので今日はここまでにして続きは次回。

kenbe氏設計15cm口径BHBSの図面 修正再アップ

よくよく見直したら、隠れ線が結構忘れられていたり、明らかなミスが見つかったりしたので修正して再アップします。

kenbe氏設計15cm口径BHBSの図面 修正再アップ
小口に色付けしたほうが見やすいので、ちょっと着色してみました。バッフルはいずれ斜めカットすると想像したので、45°斜めカットした図にしています。

※2/23追記
2号機の漫画図をキャドで清書で、スロート部分の、50mmの板も入れるとよいと書かれています。
製作途中でこの板がなかったこと、誤差が出がちなホームセンターのカットでは組立に支障が出そうなため、省略しましたが、挑戦しようとする人は、板を貼り付けるようにして下さい。
勿論、50mmという長さは、おそらく調整する必要が出ると思います。

切り抜いている部分は灰色で着色しています。

ついでに、内部で切り抜きのある板の図も出してみます。
kenbe氏設計15cm口径BHBSの図面 修正再アップ
さあて、多分作らないだろうけど、地元大館市で手に入れることができる赤松集成材18mm厚の箱にして、アルパインの16cm口径ユニットを入れて、高域は期待できないだろうけど、私の今まで作った箱よりも低域を狙ってみたいと思ったりしてますが、・・・・、床や壁が揺れる部屋で、さらにニアフィールドで聞くしかない我が家でこういう箱はどんなもんだろうか?

ついでにいうと、アルパインの16cm口径ユニット、ツィーター・コンデンサー付きで1万円ほどで買えるみたいです。



おまけの動画。

kenbe氏設計15cm口径BHBSの図面 とりあえずアップ

漫画図 【2号機】以降のkenbeさんのブログの情報から、ようやくここまで図面化出来ました。とりあえずアップします。

kenbe氏設計15cm口径BHBSの図面 とりあえずアップ

CADはフリーソフトのAR_CAD2010を使用しています。ノートパソコンで作業しています。AR_CADのメニューバーなどを消すことができればもう少し大きい画像をキャプチャーできるのですが、これが限界です。おかげで文字が小さくて、数値が読めないかもしれません。

板厚は大部分は20mm厚ですが、バッフルと背面の蓋は25mm厚です。kenbeさんの漫画図などではっきりしない部分は想像して描いています。

『信長殺し、光秀ではない』 14





光秀にはアリバイがある・旗印(94~101ページ)

今日まで<真実>とされている「明智と見受けた」という仮定に立って考察しています。

---引用ここから---
 さて、当時の慣習では、主人が存在することを示すためには「馬印」を立てる、そして相手方に対してその責任の有無をはっきりさせる筈であり、これが定法である。そこで<明暦版の「御馬印武艦」>によると、
「あけち、ひうかのかみ」は「白紙たて一枚に切目を入れた旗もの」とある。
 これが<總見公武艦>にいうところの、
「白紙のしでしない」である。
 これは神棚にあげる神酒の壷にさす、鳥の羽の片側のような物、つまり白紙の左耳を袋状にして竿に通し、右側に切れ目をずうっと入れ、風にはためくようにしたもので、風圧をうけるから貼り合わせなしの一枚ものである。当時の寸法として計れるのは、
<美濃紙縁起・日本紙業史>によれば、
 手すきの枠が30センチから70センチ幅が最高だったというから、美濃全紙を用いたにせよ、およその形体は想像できる。もちろん、このサイズは、眼の前に拡げた大きさであるから、本能寺のように周囲が1.2キロ平方であれば、信長のいた客殿を中央とみても、これに築土外の堀割1メートル80を加え、やはり600メートルの距離ともなるから、これは、「遠見物体に対する被写距離計数の算出法」という旧日本陸軍の「砲術操典」の測定法に従って計算すると、縦1メートルの物でも600メートルの間隔で割り出すと3センチ弱にしか視えないとある。
 ところが、である。
 これは視界が良好な、晴天の太陽光線による肉眼識別のものであって、
(「ようやく夜も明け方にまかりなり」で、京都へ入ったところ、「すでに信長公御座所本能寺を囲み居る」)といったような、午前三時から四時と推定される刻限において、はたして肉眼で、その3センチ弱が、視えるだろうか。
---引用ここまで---
『白紙のしでしない』が紹介されているブログでは、高さが70cm以上ありそうに思えます。棒に袋の部分を貼り合わせてしまえば、何枚かの紙を使うことで作れそうな気もします。ただ、風がなければ棒の太さくらいにしか見えないでしょうから、やっぱり見づらいのかなとも思います。

ちなみに、『しで』と言うのは、しめ縄や横綱の化粧廻しにぶら下がっている紙のことです。

---引用ここから---
<高橋賢一の「旗指物」>によると、
「水色に桔梗の紋をつけたる九本旗。四手しなえの馬印。つまり旗の方は『水色桔梗』といって、紋自体が青い水色をもち、むろん旗の地色も水色だった。これは『明智系図』といって、光秀の子で仏門へ入った玄琳が、父の五十回忌に編したものに出ているので間違いない」とある。純白の馬印さえ見えない時刻に、水色の桔梗の旗が見える筈も、これまた考えられない。
---引用ここまで---
水色桔梗の旗は、戦国ファンのために製作・販売しているサイトがありますから、ネットで検索すれば見ることが出来ると思います。

ただ、再掲しますが、『白紙のしでしない』が紹介されているブログでは、桔梗紋に関する旗印を使用したことを示す証拠がないそうです。こちらは考えなくてもいいのではないかと思います。

玄琳は、光秀の実子(男子)は二名しかいないのに、実子だけでも男子が六人もいる「明智系図」を提出し、自分は光秀の伜だと述べた人です。ですから、八切氏は、「明智系図」や<明智軍記>は資料にならないと述べています。

ちなみに、光秀の家老斎藤内蔵助の娘お福が春日局となって権勢を振るっていた寛永期の約30年後の明暦二年、玄琳の俗世のときの伜が、やはり妙心寺で得度し、蜜宗和尚となる。そして、自分は光秀の孫として「明智風呂」(当時の風呂は蒸し風呂。だから風という字が使われている。)を妙心寺の本堂参拝道の脇に建てているそうです。
このことから、八切氏は、当時は、光秀は謀反人ではないと考えられていたのではないかとも述べている。

次に乱丸が「明智が手のもの」と注進した理由を考えています。
---引用ここから---
つまり、これは識別したというのではなく、当時の常識によって、もし答えたものなら勘だろう。
 なにしろ‥‥
 当時、関東派遣軍滝川方面軍は上州厩橋。
 北陸方面軍の柴田勝家は富山魚津で攻戦中。
 中国方面軍の羽柴隊は備中高松で功囲中。
 四国派遣軍の丹羽隊は住吉浦から出発。
 指を追って算えていけば、どうしたって、兵力を集結して、まだ進発していないのは、中国応援軍の明智隊しか残っていないことになる。
 だから引き算をして、そこで差引きして残ったのを、「明智が手の者と見受けられ候」と答えた。
 という<原本信長記>の一章ができ上るのである。
 そして、この言葉の用法は、今でも、
「--さんと見受けますが、違いますか」
 といった具合に、必ず後にダブドがつき、?の疑問符をつけてこれは使用される。
 だから、<信長公記>の方でも、
「明智が者を見受けられ候も、しかと分別仕つれず」というニュアンスを残している。
 つまり「如何でございましょう」という疑問なのだから、これに対して信長自身も、
「そうか。そうであったか」
 などと肯定もしていなければ、
「まさか」と否定も、していない。
 ここの一節が(信長殺しは光秀か)どうかという分岐点になる微妙なところである。
 しかし、講談や、それに類した娯楽読物では、「花は紅、柳は緑」といった発想で、(信長殺害犯人は光秀)という単純なきめつけ方で、判りやすくというか、読者に反撥をもたせないように媚びてしまって、ここを脚色し、「おのれ、光秀め、よくも大恩ある、この信長に対して」と、はったと戸外を睨みつけ「おのれ、無念残念、口惜しや‥‥」と作っている。だが現実は、そうはゆかない。
 いくら二十年考えたって、そんな事には、なりはしない。いくら首をひねっても、とても変なのである。
---引用ここまで---
歴史の評価はその時代の雰囲気で変わることもあるみたいです。

桶狭間の戦いが大きく取り上げられるようになったのは、日本陸軍において、寡兵で勝利を得る手がかりとして、過去の戦を研究する仮定において重要視されるようになったようです。それまでは、大きく取り上げることはなかったみたいです。
ちなみに、八切氏は、最初今川に降伏していたのに、悪天候で鉄砲が使えなくなったので後から奇襲をかけた、と見ているようです。その後も美濃平定に時間がかかってますから、たしかにこの時代の信長軍は弱かったということは確かだったのではないかとも感じます。

---引用ここから---
 つまり、寛永期という17世紀は、
「光秀は信長殺しではなく、故人の供養料として、遺族には慰藉料として、莫大な恩賞か、位階の褒美が頂ける‥‥」
と言ったような風評のあった時代だったらしい。
 だから、<信長公記>を、売本にするため、せっせと筆写する人間も迷ってしまって、是とも非とも書けぬままに、ここは徹底的にボカしてしまって逃げをうったのらしい。
 でなければ、
「明智が(手の)者と見受けられ候」に対し、「是非に及ばず。と信長が上意そうろう」というのでは、ぜんぜん文章が繋らないのである。
 なぜ、(是非に及ばず)なのかも判らない。ふつう私共が、この文句を使うのは、いよいよ万策つきはて、なんともならない最後のときのこれは終局語である。
 それなのに、この場合は、あべこべに冒頭に用いられている。
 だから、後年になると「明智と名をきいた途端に、是非に及ばずと、すぐ観念してしまうからには、信長には思いあたるものが有ったのだろう」と、揣摩(しま)臆測されて、後述するように、光秀遺恨説が四十近くも作られてしまう。
 しかし、本当のところは、「是非に及ばず」と信長が言ったことにしてあるのは、筆写者自身が、原作と世評の板挟みになってしまい、途方にくれて、自分自身が(ぜひに及ばず)と、こう書いたものと、私は考えている。また。それしか想いようもない。
---引用ここまで---

『信長殺し、光秀ではない』 13



前回の続きです。



光秀にはアリバイがある・彦左(89~94ページ)の後半

信長の最後は、信長公記の記述が他の資料(例えば<当代記>)に引用されてしまったため、ほぼすべておなじになってしまっている。
また、源内という贋作者のいた時代に書かれたため、信頼性もどうなのかわからない。だが信長の最後に関してはこれしか資料がないので、<信長公記>の問題の部分を引用した、というところまで載せました。

---引用ここから---
 それと、もう一つ。源内の贋造本として、江戸中期に、すでに書名を並べられてあるものと、この<信長公記>の文章や、用字法が相似している疑問である。「時代時代でそういうものは同一であっても不思議ではない」と説く人もあるが、そんな事を言ったら昭和期の文学などは、みな同一文体でなくてはならない。だが、それでは「文学全集」など出しようもない。「文体は、その人間そのものだ」と考えている私などには承服できない。
---引用ここまで---
ここを読んだとき、なぜか東日流外三郡誌が偽書であることを追求した本を思い出しました。とある古民家の天井裏から見つかったとされる古文書軍です。青森県を含む東北地方は古代においても中央に侵略された地域です。それが、古代において、輝かしい文明を持っていた証拠が出たということで、地元はおおいに沸き立ちました。でも、その古文書は、けっこう長い年代にわたる大量の古文書であったのに、同じ文字、同じ誤字が散見されるということで一部の学者からは偽書ではないかと疑念が持たれていたそうです。流石にこんなにわかりやすいことではなかったと思いますが、文体というのももしかすると追求手段になるのかもしれません。

---引用ここから---
 さて、である。この<信長公記>の引用した一章。
 まず最初に、第一行から七行目までを、
※書物とブログでは1行の長さが違うので、ここに再引用することにする。

 六月朔日、夜にいり、老の山(大江山)へ登り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国への道なり。左へ下れば京へ出ずる道なり。…(A)
 ここを左へ下り、桂川をうちこえ、ようやく夜も明け方に、まかりなり候。…(B)
 すでに信長公御座所の本能寺を取り巻きの勢衆、五方より乱れ入るなり。…(C)

くり返して読んでみると、ここに何んとも判読しにくいところがある。この為に原文は改行していないのを、わざと三つにわけたのであるが、これを順を追うてA、B、Cにしてみると、こういう内容らしい。
(Aの行)は、六月一日の夜という時日の設定と、大江山の老の坂からのコースの説明である。今日のガイド・ブックと同じらしい。
(Bの行)は、原文をパターンすると、
「ここを左へ下り、桂川をうちこえ、ようやく夜も明け方に、まかりなり候」とあって、この桂川をわたるコースはわかるが、夜も明け方という午前四時に<夜>自体が、まかりなったのか、誰かが、歩いてきて、まかりなったのか、ここのところが判らない。主格が欠けているためである。といって、夜明けがまかりなって、朝に近づいたというきりでは判らないから、それを誰か判らないが、まずXと擬人化して仮定すれば、(A+B)は、
「X氏らは六月一日の夜になってから、老いの山へ登って、摂津へのコースをとらず、左へおりる京都コースをとった。桂川を渡ったら、夜も明け方近くなってきた」というのだ。
 ところが、
(Cの行)になると、AやBの平板な記述とは、全く相違して、俄然、
「すでに」という過去形を頭にのせて、
「信長公御座所の本能寺を取り巻きの衆」が、
その本能寺へ五ヶ所から「乱れ入るなり」という行動の描写に、支配されているのである。
 しかも、
「乱れ入ったり」なら主観であるが、
「乱れ入るなり」では客観である。
 こうなると(A+B)までにおいては、主格であったX氏らは(C)の行に入ると、単なる傍観者でしか、ならなくなる。
「‥‥桂川を越えて京へ入ったら(そこには兵が充満していて)既に(もはや)本能寺は包囲されていた」
 ということになり、そして、その後が、「その本能寺を取り巻いていた衆が、X氏らが到着した時には、すでに五方より『ワアッとばかり』乱入していたあとだった」
 これがCである。つまり(AとB)には、X氏らが主格であったものが、(C)になると、(既に取巻いていて本能寺へ乱入した衆)とよぶY集団が主格として、ここに登場してくる。つまり両者は全く別個のようである。
---引用ここまで---
前のところで、光秀は9時ころになってから本能寺にたどり着いたということが説明されていましたから、別個の集団Yが早いうちから取り囲んでいたと考えるとこの文章が理解しやすいのかなと思います。

---引用ここから---
 それなのに、この肝心な事を<信長公記>では、信長をして「Who are it」
(誰なのか)と言わせて居るだけなのだ。
 彼自身の口からは、何も背定も確認もさせていない。それに対して、また森乱丸も、これも漠然と、<原本信長記>の方では「(明智が手の者)と見受けられる」
 としか記述されていないのである。
 この「--の手の者」というのは、後年の江戸期になっても「何々御差配の手の者」と言えば、その指揮下にあるという意味だけであって、直属ではないことになっている。だから、奉行役所人でない民間の岡っ引きなどは、正式の給与形態をもって奉公している訳ではないから、これを「お手先き」といったものである。つまり、その同心の下僕や小者とは違って、家事の手伝いや庭掃除などはしない。ただ役目の上での繋りだけだ、と断っているのである。
 だから、
(明智が者)(※<信長公記>の表現)といえば、これは明智日向守光秀を寄騎親として、その指揮下に入っていた寄騎衆のことであって、これは、その直属をさすとは限らないようである。
 つまり、信長の軍団編成制にあっては、これは安土城の最高統帥部から「明智が手につけ」と命ぜられていた。丹後宮津の細川藤孝や大和郡山の筒井順慶、摂津の高山重友、中川瀬兵衛らである。
 地域ブロックの単位編成だった信長の兵制は、その天正九年二月二十八日や翌十年の京都での馬揃えの観兵式でもわかるように、これは判然としていたものである。
 いわば、これは近世の「方面指令軍」の制度である。だから、乱丸が、
「明智が‥‥」と個人名を言わずに、現今のように、
「あッ、関東軍」とか「近畿管区司令軍」と報告していたら、すっかり感じは変ってくる。
 しかし、そうなれば、<信長公記>の後に続く、
(「‥‥是非に及ばず」との上意に候)という、まことに簡単な場景描写では納まらなくなる。
 なにしろ、ふつうの場合でも、
「何々と見え申します」といえば、
「そうか、間違いないか」ぐらいなことは言うものである。まして乱丸の報告では、
「明智が者」(※<信長公記>)または「明智が手の者」(※<原本信長記>)といって居るだけである。けっして<信長公記>でも、
「‥‥明智光秀の謀叛」などと、そのものずばりなことは言っていないのである。
 また信長自身も、聞き返してもいない。
 明智の家来にしろ、その寄騎の者にしろ、そこに指揮系統を明白にするための光秀自身の出馬か、代理を現わす馬印が出ないことには、これは明智光秀の行為とは認められないからである。
---引用ここまで---
そして、家来や寄騎が企てた事に対し、その主人や寄親は、都合が良い時には自分の手柄にし、都合が悪い時には家来や寄騎のせいにしたことが、秀吉の例を出して説明している。でも、このブログではその例は略。

次は、夜明けに光秀軍と判断できたかです。

『信長殺し、光秀ではない』 12

kenbe氏のブログから、勝手に図面化のネタを貰っている(と言うか黙認されている)のですが、まだちょっと時間がかかります。
ところで、塩ビ管にはVP(壁が厚い)とVU(壁が薄い)があり、同じなのは実は外径です。VP125は内径がほぼφ125ですが、VU125は内径がφ125よりは少し大きくなります。どちらを使うつもりなんだろう?





光秀にはアリバイがある・彦左(83~94ページ)
---引用ここから---
 大田牛一の<信長公記>を「あれは訝(おか)しい」と筆誅を加えた者も、それは居ないではない。
 信長の死後四十年たった元和八年四月十一日に、原文のままで紹介すれば、
「さてまた<信長記>を見るに、偽り多し、三つに一つは事実だが、あとの二つは、似たような事はあったが、まあ出鱈目か。そうでなければ、根も葉もない嘘っぱちばかりなり」と、その著の<三河物語>で論破しているのは、大久保彦左衛門忠教(ただたか)で、ほぼ信長とは同時代人の彼は、「誤りだらけだ」とその具体例まであげているが、さて「信長殺しは、誰だった」とまでは書いていない。だから、この点においても彦左衛門の主人の徳川家康が、疑惑に包まれてもくる事になる。
 しかしである。<信長記>という本は、織田信長の晴れ舞台である「桶狭間合戦」の記事さえ、あろう事か、永禄三年なのに、天文二十一年と七年も遡って間違える程度であるし、この信長の対今川義元合戦の有様も、現在では調べもせず、鵜呑みで、その儘に踏襲され信じられているが、当時の彦左にすれば、まこと噴飯ものの「桶狭間合戦」であったろう。
---引用ここまで---
ここでの信長記とは、信長公記のことです。信長公記は権威づけされすぎていると、前の章で八切止夫氏が書いていましたが、その理由が出始めてきたという感じですね。また、徳川家康も信長殺しの黒幕として語られることがあります。優秀な息子を信長の命で切腹させざるを得なかったことの恨みと言われています。徳川政権の黒衣の宰相、天海の正体はじつは生き残った光秀で、光秀の家臣の娘であるお福が光秀の乳母となったのも、光秀が信長を殺してくれたからその礼もあり取り立てたという説です。戦国時代には謎が多すぎる。

---引用ここから---
 それに変な話だが、「天下の御意見番、大久保彦左衛門」という講談は、徳川家の御政道讃美のPRとして、江戸期から辻講釈に出ていたのに、肝心な<信長記>の方は、ずっと年代が遅れて、明治十四年になって初めて<史籍集覧>の第十九集に収録されて、一般には公開されたのである。つまり江戸期においては発禁扱いの<お止め本>の流通禁止のものだったから、その<史籍集覧>の解説にも、
「これ町田久成氏の秘蔵に係る寛永期の珍写本にして、世にも稀らし」と書かれている。
<信長記>は、この町田氏が秘かに隠匿していた一揃の他には、内閣文庫本の寛延三年に筆写されたという<原本信長記>と、やはり旧前田侯爵家で秘密に蔵われていた一部きりの古写本の三点しか、現在には伝わっていない。
---引用ここまで---
ヤフー知恵袋に書店で手に入れることができる信長公記は、町田本であると書かれていました。<原本信長記>の説明がようやくここに出てきました。一般にはこれら3つは信長公記の別バージョンと考えているみたいです。

---引用ここから---
 しかし、明治四十四年刊の、
<史籍雑纂>第三巻に納められている亨保年間に発表された建部賢明の、
<大系図評判遮中抄>によると、
「寛文より元禄にかけて、近江の百姓の倅にて源内なる者あり、偽って『近江右衛門義綱』と詐称し、米塩の資を得るため系図偽作を業となす。また、この者は戦国期に材をとりて、古書にみせての贋造書も多くかき、いま世人これを知らずに真実として扱いているもの、<中古国家治乱記><異本難波戦記><浅井三代記><武家盛衰記><三河後風土記>曰く<××軍記>など、その数、枚挙にいとまなし。<北越軍談>のごときも、源内の偽書を引用し、それを論証とするは、これ愚なり。そもそも、この源内というは、青蓮院の尊純親王に稚児奉公中、銀製仏具を窃取し放逐されし後も、その盗癖生涯やまずして云々」とある。
(一部略)
 さて、この「贋本つくり」の天才ともいうべき源内は、元禄戌辰、つまり1688年まで生きていて、書きまくったと伝わる。すると<町田本信長記>として伝わる一部が、寛永期といえば、それは彼が贋作生活を始めた二十六歳頃までの年号に当たるし、前田侯爵家の写本も元禄期のものである。
<原本信長記>のごときも、それより後期の写本である。これぞ、まさしく源内の偽書の筆写でないとは、誰が言いきれるだろう。(なにしろ、こうした本は印刷されたのではなく、一冊ずつ手書きされて造本されたものである)
 もしも大田牛一自身のものならば、なんぼなんでも、大久保彦左に指摘されるように、三つに一つしか事実に符合せず、誤りだらけというのは、ひどすぎるから、彦左が晩年に入手して読んだものは、事によったら源内がリライトした海賊版でなかったか。という疑念さえも生じてくる。もちろん源内も商売として盛大にやっていたからには、源内グループというライターを多く抱えていて、彼等に書き写しを次々とやらせていたのであろう。
 そうなると、今日伝わっている<信長記>は、どれも三種とも、これは贋造物という事になってきて、真実性はもてなくなってくる。
---引用ここまで---
歴史の事実を追求する難しさの一因が説明されています。コピー機なんて当時はあるわけもなく、筆写では、偽造のつもりがなくても写し間違いということもあるだろうし、伝言ゲームをやっているうちに最初とは変化してしまうこともよくあることです。さらに偽造して儲けようという人物まで現れたのでは、混乱が深まってしまいます。

でも、資料はこれくらいしかないからということで、信長公記の肝心な部分の原点を引用し解説することにすると八切止夫氏は書いています。

---引用ここから---
「信長公、本能寺にて御腹を召され候こと」

 六月朔日、夜にいり、老の山(大江山)へ登り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国への道なり。左へ下れば京へ出ずる道なり。
 ここを左へ下り、桂川をうちこえ、ようやく夜も明け方に、まかりなり候。
 すでに信長公御座所の本能寺を取り巻きの勢衆、五方より乱れ入るなり。
 信長も、御小姓衆も、
「当座の喧嘩を、下々の者共が、しでかし候や」と、思召され候のところ、一向に、そうではなく、彼らは、ときの声をはりあげ、御殿へ鉄砲を打ち入れ候。
「これは謀反か。如何なる者の企てか」
 と御諚があったところ、森乱丸が申すようには、
「『明智が者』と見え申し候」
 と言上したところ、
「‥‥是非に及ばず」との上意に候。
 隙もなく直ちに御殿へ乗り入れ、面御堂(めんごどう)の御番衆も御殿へ一手になられ候て、御馬屋より、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五が切って出て、討死。
 この外、厩仲間衆の藤九郎、藤八、岩新六、彦一、弥六、熊、小駒若、虎若、その倅の小虎若を初めとし二十四人が、そろって御馬屋にて討死、
 御殿の内にて討死をされた衆。
 森乱丸、森力丸、森坊丸、の三兄弟。
 小河愛平、高橋虎松、金森義入。
 魚住藤七、武田喜太郎、大塚又一郎
 菅屋角蔵、狩野又九郎、蒲田余五郎
 今川孫二郎、落合小八郎、伊藤彦作
 久々利亀、種田亀、針阿弥、飯河宮松
 山口弥太郎、祖父江孫、柏原鍋兄弟
 平尾久助、大塚孫三、湯浅甚介、小倉松寿
 らの御小姓掛り合い、懸り合い討死候なり。
 この内、湯浅、小倉の両人は、町の宿にてこの由を承りて、敵の中に交じり入り、本能寺へ駈け込みて討死のもの。
 お台所口にては、
 高橋虎松が暫らく支え合せ、比類なき働きなり。
 信長、初めには、御弓をとりあい、二、三つ遊ばし候えば、いずれも時刻到来候て、御弓の絃が切れ、その後、御槍にてお戦いなされ、御肘に槍疵をこうむられて引き退がられると、
「女は苦しからず、急ぎ、まかり出よ」
 と、これまで御傍にいた女共の附き添っていた者共に仰せられ、追い出さられ、
「御姿を、敵にお見せあるまじき」
 と、思召され候てか。もはや、すでに火をかけて、次第に焼けて来たり候ゆえ、
 信長はそのまま殿中の奥深くへ入らせたまい、内側より、御納戸口をたてて閉め、
 それにて無情にも、御腹を召され。

 これだけが問題になる原文の全貌である。最後の「御腹を召され‥‥」などという結び方など迫真の表現で、疑う余地もないような如実的描写で締めくくられている。
 だから、これが織田信長の最後を伝えるところの、唯一無二の史料として扱われ、徳川方の史料であるところの<当代記>六月二日の条も、殆ど、これと同一内容のものが納めて入っている。ただ<原本信長記>の方だけは、
「明智が者と、見受けられ」が「明智が手の者」となっている。これも同一視されやすいが、いざ解明にあたると、これはこれで相当な差異が、当時の用兵上にはある。勿論これは対比してあとで解明する。
---引用ここまで---

この部分の八切止夫氏の解釈は結構長くなるので次回に回しましょう。

こういうものを紹介されました

こんなコイルがほしいな。という記事を書いた所、非公開コメントでこんなものが有るよと紹介されました。

NFJ 22Hz-240Hz 可変ローパスフィルター完成基板 [ウーファーコントロールプリ]

値段もそれほど高価でないので、ポチってしまいました。ATさん、ありがとうございます。

ということで、いつになるかわからないけど、いずれサブウーファーを作らないと。

・・・・・・

それにしても、想像していたものと結構違うものですね。

コンデンサでは、バリアブルコンデンサという部品があります。コイルと組み合わせて、ラジオのチューニング回路に使用する部品です。ダイヤルを回すことにより、コンデンサの中の面積を変えることが出来、その結果コンデンサのキャパシティを変えることが出来る部品です。

オーディオ用で使われないのは、トゥイーターを飛ばす可能性が高いからでしょう。

コイルの方は、コイルの巻数を変えることで、インダクタンスを変えることが出来ます。ですから、スライダックを小型化したような部品があるかと思ったんですが、接触部分が弱点になりそうですから、おそらく作られてないんでしょうね。

さて、どんどん妄想スピーカーのネタだけが溜まっていく・・・・・・。

『信長殺し、光秀ではない』 11



まだ序盤なので、謎をいろいろ指摘していますが、八切止夫氏なりのそれに対する考えは後回しです。
次は責められた信長方に対する謎です。



光秀にはアリバイがある・奇怪(77~83ページ)
---引用ここから---
 これまでの小説、映画、テレビのどれをみても、白りんずか白絹の寝間着をきたままで、かなわぬ迄も必死に敢闘精神を発揮し、やがて、傷つき、力つき、
「さらば、これ迄である」と、信長は一室に入って、心静かに切腹するような具合になっている。
 また、読む側も、見る側も、これに対して何等の疑点を抱くこともなく、いと素直に、そのままで受取ってしまい、「信長というのは強い男だった。だから、おめ、おめ座して敵の手に殺されるようなことはあるまい。かなわぬまでも弓をひき、槍をとって戦い、そして潔よい最後をとげたであろう」としか想わないようである。後で原文は引用するが、これは<信長公記>の巻末の(その十五)に、「信長公、本能寺にて御腹召され候のこと」というタイトルで、のっているものの、これみな焼き直しである。
---引用ここまで---
<信長公記>の作者、大田牛一についての説明が、次に一部書かれているが、そこはちょっと後で引用することにして、現在の作家の立場からの考察を先に引用します。

---引用ここから---
 そして、受取る側も、信長というイメージから、アッという間に吹っ飛んでしまったのでは面白くもない。また猛火に呑みこまれ、腹を切る暇もなく、あっけない最期をとげても、これまた、ものたらない。それではとても承知できなかったであろう。
 だから、いわゆる死花を咲かせて、
「白綸子の寝間着の儘でも、ヒュウ、ヒュウと弓をひかせて、矢つぎ早やに何人かの敵を仕止めさせ」そして、おまけとして「槍までふるって次々と敵を突きまくらせ」それから肘を負傷してしまったから「止むなく切腹」というように、納得しやすいように順々と話を追っていって、
「人事を尽く天命をまつ」といった段取りにしたのではないだろうか。
 もちろん、それが事実であっても、なくても、‥‥その方が真実らしく、受入れやすいから、迎合するために、そう書かれたものであろうし、また今日まで、如何にも、そうらしいと思われるから、誰も疑義を挟まず、その儘、<真実>に化転(けてん)して伝わってきたような気がする。なにしろ「そうである」ことより、「そうだったらしい」ほうが、どうも<真実>というものに、されてしまう可能性が、現実的には、極めて多いようである。
---引用ここまで---
何かの番組で信長の常識を疑うクイズ番組があり、本能寺の変で信長は槍を振り回したりしていないととある歴史学者が述べた所、ゲストの高橋英樹が、自分の出世作である信長はああいう最後であってほしいというようなことを述べていたような気がする。確かに寝ていたまま、焼き殺されたとなると、時代劇には合わないな。

中には、薙刀を振るう濃姫と一緒に槍を振るう信長が出ている小説もあるが、本能寺当時一番うたがれていたのは、後で詳しく書くが美濃御前こと綺蝶であるとも書かれています。これはこの本の最後の方に解説されていますので今はスルー。

---引用ここから---
 さて、これも後で詳しく説明するが、当時本能寺で包囲されていた信長の一行で、生きて脱出した者は一人もいない。なにしろ、まる三日間にわたって百にも及ばぬ黒焦げ焼死体を、血眼になって検屍しても、信長の遺体が判らず、大騒動したと<言経卿記>や<兼見卿記>にもあるくらいだから、瞬間的に全部がふっ飛ぶか、すごい高熱で白骨化されているのである。
 黒焦げや生焼け程度なら、仔細に検分すれば、鑑別もまだつく。腹を切ったり、小姓が介錯をしているのなら、どの遺体が信長かは、誰が見ても、これなら直ぐにも判った筈である。
 それに、もし、それが、ふつうの出火なら、周囲をかこんでいた一万三千が、すぐ消火に築土をかけのぼって入りこんでいたであろう。なにしろ全部焼けてしまっては、まるっきり元も子もないからである。それに、当時のことだから、消防自動車や消火栓はなかったろうが、一町四方の本能寺の周囲は、2米(メートル)幅の濠があって連日の降雨で溢れていて、防火用水には、こと欠かなかった筈である。
 それなのに火力が強く濠をこして四方の民家に類焼させている。と言って、この場合どう考えてみたところで、一万三千の寄手が、砦や城攻めではあるまいし、お寺にすぎない本能寺を持て余して、包囲後三時間半もたってから火攻めにして片付ける筈もない。今でいう「不審火」。どうしたって、これは寄手からすれば意外な火の筈である。だったら寄手は驚いて飛び込んで、水をかけたり、筵で叩き消しにかかっているとみるのが、それこそ常識というものであろう。
---引用ここから---
高橋英樹が出た例のクイズ番組では、本能寺に堀があったことから本能寺はたんなる寺ではなく砦だと言ってましたが、それはいいすぎだと感じる。堀は防御の役割もありますが、けっこう川ともつながっていて、物資運搬の役目もあったらしいです。本能寺の堀が川とつながっていたかはわかりませんが。また、当時は、宗教勢力も兵力を持っていますから、寺が堀をもっていても何も不思議はないと個人的には思います。

---引用ここから---
 筆者の大田牛一というのは、尾張の人間で、信長の祐筆で、今でいえば、秘書課勤務のような人間だった。そして、まさか彼が臆面もなく、厚かましく書いたものとも想えないが、その第十三の巻頭に、
「本記事に、一点の虚飾なきを誓い、除く箇所もなく、また書き添える部分もない」と、はっきり「不除有」「不添無」といった、ことわり書きさえつけられている。と、大正十一年刊の<尾張の勤王>には明示されている。
(人間の社会では、尤もらしい事をいう奴は、あらかた嘘つきで腹黒い人間だし、尤もらしい話こそ、それは、みな、デフォルメされた眉唾ものでしかない)
と、私なんかは、これまでの人間関係で蒙った被害体験からして、「巧言令色それ仁すくなきかな」とは想う。だが、ふつうの人は、疑うよりは信じる方が、きわめて楽だし、それに手軽だから、ついこれを、さも信頼できるもののような受取り方をしている。ひどい人になると「大田牛一も信長の家臣の端くれだから、本能寺へ伴して行っていて、その最期まで身辺近くにあって、立ちあって書いた、これは記録ルポである」と、その著書に説明しているのもある。びっくりさせられてしまう。
---引用ここまで---
( )内に書かれている、人間の社会では云々のところは、おそらく、儲かると聞いて始めた消火器販売で失敗したことなんかが関係していそうな記述だと感じる。

それから、本能寺から生きて脱出した人はいないから、太田牛一がルポすることも出来るはずはない。

---引用ここから---
 もともと大田牛一は織田の臣である。
だから、信長に伴していた小姓たちや、その馬の口取りの仲間の名ぐらいは知っていたであろう。そこで、その連中の名を組み合わせて、(かくもあろう、こうもあろう)とイマジネーションで書いたものが、「本能寺の情景画」であろう。後年、「講釈師、見てきたような嘘をつき」という川柳が江戸中期に現れるが、大田牛一は、つまり、その元祖のようなものだったらしい。
---引用ここまで---
---引用ここから---
 ついでに、大田牛一の素性も解明すると、これなども現在の<富山房の国史辞典>などでは、はっきりと、
「尾張春日井郡安食村に生まれ、通称又助。近江の代官を勤め、のち秀吉に仕え、天正十七年伏見の検地奉行。その功により、和泉守に任官。のち秀吉の側室松丸殿つきとなり、慶長十五年八月、八十四歳まで生存と<猪熊物語>の奥書にあり。<信長記>の他、著書多し」ということになっている。
 ところが、木曽川をこえた岐阜には「印食上人」でも知られている「印食」というのはあるが国史辞典に明記されている「安食」などという地名は、愛知県春日井郡はもとより、当時の尾張美濃の古書をみても有りはしない。つまり、これは「尾張万歳」の発祥地とされているところの、「尾張春日井郡味鋺(あじま)村」の間違いである。
 これは<山崎美成筆・民間時令>に、
「<無住道跡考>に曰く。正応五年(1292)頃より、万歳楽と号し、正月の初めに、寿(ことほ)ぎの謡をうなり、家々にて唱わしむ」
 と出ているような、関西の唱門師(しょうもじ)と同じような集団結成である。1738年の元文三年に、尾張藩の郡代役所へ提出されている、<尾張万歳由緒書上げ書>にも、
「あじま村のものは、往古より陰陽師を代々相いつとめ、村内に頭分となる家名十六人も、今もこれあり」とある村なのである。
 つまり大田牛一というのは、尾張万歳を神前に供える陰陽師の出身者である。ということは、信長の時代は、仏を信じる者と神信心の者が、かっきり二つに分かれていて、両者の間は、全く仇敵同志だったから、牛一のように神徒に属する者は、主取りをするのでも限定されていたという事である。
 そして、こうした地域は、別所とか、東海では院内(いんだい)といった名で呼ばれていた。
---引用ここまで---
八切止夫氏を批判する人は、ほとんど名の知られていない資料から導いているというところを批判するみたいです。
私にはここで出されている資料の優劣はわかりませんからなんとも言えないことを書いておきます。それにしても、大田牛一が尾張万歳を唱える陰陽師出身! にわかには信じられないな。

ただ、戦国時代は仏徒と神徒が別れていてお互いに争っていたという視点は、八切止夫氏の著作には結構よく出てきます。

信長は戦勝祈願で熱田神宮に参拝していますから、神徒です。信長の父は港を押さえていたのである程度財産はありますが、戦のときの兵力が少ない。そのために、妾を作り子を産ませ、その血縁で兵力を増やしていった人らしいです。そのため、信秀の家臣には仏徒も結構いて、信行付きの家臣は仏徒だったため、信行は仏式で葬儀をした。信長はそれに我慢がならず、抹香をぶちまけたのだ、というようなことを、『徳川家康は二人だった』という作品の中に書いています。宗教に絡んだ権力闘争を全面に押し出しているところも矢切氏の特徴だと思います。

別所とは、差別された人が集まった場所と説明されることがありますが、矢切氏はそれは神徒で、八のつく部族だと言っています。仏徒から見ると神徒のいる場所は汚れた場所になり、村八分の名称のもとになっているというのが八切説のようです。そう言えば、八切氏にも、八が含まれているな。自殺未遂者ですから、社会からいわれなき被害を受けたと本人は感じていたんでしょうか?

『信長殺し、光秀ではない』 10


大館アメッコ市の日は、荒れることが多いんだけど、今日は1日中降雪のようです。おとなしく家の中にいることにしよう。雪かきも必要だけど。



光秀にはアリバイがある・巨艦(71~77ページ)

最初にキリスト教徒の信長評が書かれています。
---引用ここから---
 さかのぼって1571年の9月30日。
 日本暦の九月十二日に信長が延暦寺の焼討ちをした時には、<フロイス書簡>は、
「このような余分なものを一切滅却したもうたデウスは、賛美されるべきかな」
と、天主教布教の障害であった仏教の弾圧にのりだした信長を、神の名によって、マ
カオからきた宣教師は褒めた。
---引用ここまで---
初期には、敵(仏徒)の敵(信長)は味方という面がありそうです。同年12月にフロイスを引き連れたカブラル布教長は、商人に案内されて岐阜城を訪れている。
---引用ここから---
 火薬がほしい信長は、彼らの機嫌とりに、庭で放ち飼いにしておいた珍しい丹頂鶴でコンソメスープをつくらせ、当時は貴重品だった美濃紙八十連をプレゼントに贈っている。
---引用ここまで---
まだ茶道に目をつける前のためか、信長はキリシタンをとても大事にしているようです。

---引用ここから---
 1573年4月30日。
 日本暦の天正元年三月二十九日に僅か十二騎の小姓だけを引き連れた信長は、突如として岐阜から上京し、洛北知恩院へ入った。
 やがて軍令を四方に出してから、白河、祇園、六波羅、鳥羽へ翌日には一万余の兵が終結した。
<フロイス書簡>によると、彼は信者の一人であるリュウサ(小西行長の父)を使者にたて、その陣中へ、黄金の南蛮楯と、数日後には瓶詰のキャンデー(金米糖)を贈り、
「仏教徒を庇う足利義昭に勝つよう」にと、それに神の祝福を授けた旨が記録されている。

 さて、本能寺へ、信長が小姓三十騎連れてきたのが疑問視されているが、当時マカオから来ているポルトガル人は、
「信長は、いつも小人数で出動し、そこから、すぐ兵を集めて編成し、自分から引率して行動を開始する習慣がある」のを知悉していた。つまり、
 日本側の史料では「信長は本能寺にあって、光秀らに中国攻めを命じた。だから備中へ向かって進撃すべきなのに、大江山の老の坂から、途中で変心して、『敵は本能寺にあり』と、右折禁止を無視して出洛した」のが、明智光秀の謀叛をした確定的な証拠であるとして主張するが、向こうの資料とはこういう点がはっきり喰い違う。
 つまり京都管区長のオルガチーノにしろ、フロイスにしろ、彼等は「五月二十九日に、安土城から三十騎を伴ってきた信長は、翌六月一日は雨降りだったが、二日には、また黒山のような軍勢を、ここに終結し、自分から引率してゆくもの」と従来の慣習通りにみていたようである。
 ----ということは、日本側の史料では、
「六月二日の早暁に、丹波の軍勢一万三千が入洛、本能寺に近よったことは、これは予想外の出来事、異変」と解釈しているのに、
「本能寺の門前に早朝から集ってきたのは、従来通りの軍団の命令受領」と、彼らは、そういう取り方をしているようである。
---引用ここまで---
キリシタン側の資料からは、本能寺に近習のみで宿泊していたことが、普通のこととして捉えられています。

---引用ここから---
そして、従来の日本歴史では、(一部略)、英雄主義を謳歌するあまり、天文十二年の鉄砲伝来は認めているが、その弾丸
をとばせる火薬を無視しきって、「銃器弾薬」と併称されるものなのに、片一方をなおざりにしているのは前述したが、持ってくる方の、ポルトガル人の目からすれば、
「自分らがマカオから輸出している硝石によって、この日本列島の戦国時代は烈しくなり、供給している火薬の良不良で勝敗が決まっている」と、明瞭だったことだろう。
 なにしろ足利十五代将軍義昭にしろ、「仏教側だから火薬を売るな」とフロイスたち宣教師に指図されると、堺のエージェントは販売を禁止。鉄砲があっても火薬がなくては戦えないから、さすが強気な義昭将軍も、
<和簡礼経>によると、四月二十七日付で、信長の申し出の通りに泪をのんで無条件降伏をしてしまう。
 こういう具合であるから、天主教では、「信長をして、今日あらしめたものは、我らの火薬供給である」という信念を抱いていたことは疑いない。
 また、信長も、事実その通りだから、天主教を守護し、安土に神学校まで建てさせている。
 のち秀吉や家康が切支丹を弾圧したり鎖国をするのも、彼らが仏教徒だったから、嫌ったということより、本質的な問題は、やはり、この輸入硝石である。他の大名の手へ宣教師を通じて入っては困るからと、治安上とった自衛手段である。秀吉は備前備中から、徳川家は長崎から、自分らだけが独占的に硝石を輸入することによって、その平和を守ったのである。
---引用ここまで---
信長とキリシタンの蜜月時代ですね。でも、いずれ、信長はキリシタンからではなく、堺の商人から硝石を手に入れるようになります。そうするとキリスト教徒から見ると信長は同じ評価となるはずがない。

---引用ここから---
 信長がマカオを狙って、輸入に頼らず硝石を押さえたがっているのは、その部下の信者の大名たちの密告で、すでに宣教師は知っていた。
<オルガチーノ書簡1578年。月不明>に、
「昨日、日本の重要な祭日の日に、信長の艦隊七隻が堺へついた。私は急いで、その巨艦の群れと大なる備砲を調べに行った」
 と出ているくらい神経質になって、彼らは用心していたのに、本能寺の変の1ヶ月前に、従来の友好的な態度を、信長は自分から破棄しだした。これは後で詳しく書くが、「マカオ神学校」から赴任してくる宣教師たちが、「天にまします吾らの神」と教えをひろめているのに、信長は従来は安土城の五層で祀らせていた白目(しらめ)石の自分だという神像を、五月一日総見寺(当時は寺とはいってない、社であろうか)をたて、ここで一般公開し、
「われこそ、まことの神なり」と宣言した。
 参拝人が黒山のごとく集まり、何列もの長蛇の列をなしたと伝わっている。
「天に、二つの神なく、地に、二つの神なし」という教義に対し、これは挑戦以外の何物でもない。
 マカオからきている宣教師にしてみれば、こうした信長の行為は、神を冒涜するものであると同時に、これは背信行為として、その目にうつったであろう。
 そして、「吾々に楯をついて、火薬をどうして入手するつもりなのか」
 畏れ疑っていた矢先、五月二十九日。信長は三十騎の小姓をひきいて本能寺へ現れた、
 そしてその日の午後、
 大坂の住吉の浦の沖合いに、オルガチーノがかねて警戒していた七隻の巨艦と、夥しい軍用船が集結された。
 司令官として、敏腕家にして勇猛とよばれている信長の三男織田三七信孝。副司令官は丹羽長秀で、司令部は大坂城に設けられ、本能寺の信長と絶えず伝令がゆききしている。非常事態である。
「出帆は六月二日」
 と明白になってきた。日本側史料では「四国征伐のため」となっている。だが、彼らは、「マカオへ出帆?」と勘ぐったのではあるまいか。
---引用ここまで---
前に出した副島氏の本では、白目石の神像とは、大理石の、キリスト教以前のローマの神だと書いています。ただ、日本側の小説なんかでは、そうではなく、普通の石を自分だと拝めと言ったと書かれているものが多い感じがします。総見寺のwikiをみても現代に白目石は残っていないようですね。文化財の中にありません。単なる石だったのか像だったのか気になりますね。

ルイス・フロイスの日本史(矢切氏は日本歴史と表記しているがおそらく日本史でいいと思います。)に、
---引用ここから---
 だが、原本がマカオにあったから十八世紀まで所在不明で、その後モンタニヤ、アルバルズの両修道士によって、イエズス派マカオ日本管区文庫で発見されて、ポルトガル本国へ写本として送られた。これがアジュダ図書館に保管され伝えらたが、なぜか、
織田東洋艦隊が建造された天正七年から、本能寺の変、および、その後の天正十六年までの間の分は、どうしたことか、欠本にされていた。おそらくなにかと都合が悪いからであろう。
 フランシスコ派の宣教師シリングが1931年3月に、その前半をトウルーズで、翌年リスボアにて、後半を見つけ、ここに、昭和の満州事変の頃になって、
<フロイス日本史>は神の恩寵により定本になったというが、肝心な原本は、マカオで焼かれてしまっている。
 二百年もたって同一人のシリングが相ついで欠本を見つけられるなんて信じ難い話だから、その間のものは何処までが真実か判らない。それが何より証拠には、織田艦隊のことは少し出ているが、肝心な「信長殺し」は完全に抜けてとばされている。そんな「日本史」なんてあるものではない、と私には思える。
---引用ここまで---
本能寺の変がフロイス日本史で欠本だったことは、キリスト教関係者が変に何らかの関与をしていることを疑わせます。
そして、
---引用ここから---
 さて「何か知って居られては都合の悪いことを、知って居る者」は、民主主義の本場でも、次々と死んでしまうものだと、テキサス州のダラス市民について(ケネディ暗殺のことですね。)、アメリカのニューヨーク・ポスト紙は書いているけれど、天正年間の日本に於ても、やはり同じ事であった。
 ジュスト高山右近は、二度と戻ってこないように、フィリッピンへ追放されている。また、シメアン・池田父子は、本能寺の変から一年十ヶ月目に、何の御手柄か、一躍、岐阜城主、大垣城主と栄転させて貰えたのに、長久手合戦で「討死」という形式で共に抹消。
 ジュニアン・中川は、もっと早く、本能寺の変後、十ヶ月で大岩山で消されている。残った者は誰もいない。
---引用ここまで---
このところも、何かキリスト教関係者が怪しいと感じさせてしまいます。
しかし、本能寺の変のことを解説している本の殆どが、本能寺の変の前に、キリスト教関係者だけでなく、天皇家や公家や、義昭や、焼き討ちされた仏教徒など、ほぼ周りが敵だらけだったことが書かれているような気がします。容疑者は結構多いのです。

---引用ここから---
 だが、俗説では、
「六月二日に上洛したのは、丹波亀山衆一万三千」と、どの本にも出ている。これが第二の答えで、定説である。もちろん光秀も、丹波亀山から彼等を率いてきたと、(途中で六時間ぐらい光秀がいなくなってしまって、辻褄が合わないが)そういうことになっている。
 しかし、もし亀山から丹波衆を率いて、光秀が上洛したものなら、そちらへ戻るべきなのに、同日午後四時、瀬田から右折せずに光秀は坂本へ左折している点は、先に指摘した。だが、こんな明白な事実さえも、誰からも今日まで問題にもされていない。
 そして、もっと奇怪なことは、その次の日も、次の日も、光秀は死ぬまで一度も、丹波亀山へ戻っていない。
(もし一万三千の亀山衆というものが、光秀の命令で動いたものなら、亀山は光秀の本城でもあるし、何故それを掌握せずに放りっぱなしにして、三千の兵力しかない坂本城を、その後の根拠地にしたのか、さっぱり判らない)だが、何人も疑いを抱かない。変に想わない。
 もちろん直属であるべき丹波亀山のこの兵力が、信長殺しのあと光秀から離れてしまったために、六月十二日、十三日の山崎円明寺川の決戦において、光秀軍は旧室町幕府の奉公衆まで加えても一万に満たぬ寡兵となってしまい、三万に近い秀吉軍に対し
て破れ去ってしまうのである。
 そうでなくて、もし、この六月二日の上洛軍の一万三千を光秀が掌握していたら、安土城守備にまわしていた秀満らの、坂本衆三千は別計算にしても、天王山の険を押さえる事も出来たし、これに前述した旧室町奉公衆の伊勢与三郎、諏訪飛騨守、御牧三左衛門ら約四千と、新たに味方に加わった近江衆三千をみれば、山崎合戦での光秀は、旧部下師団の中川、高山、池田、筒井、細川の全部に離反され孤立したにしても、なおかつ二万の直属部隊をもって、この決戦に臨めたわけである。
 なにしろ奇怪なのが、この丹波亀山の一万三千の正体である。これを誰が指揮し、誰が尻押ししたのかということも、やはり、
「信長殺しの謎をとく」大きな鍵なのではあるまいか。
---引用ここまで---

・・・・・・

結局雪よせもしないと後々大変。晴れ間を見て雪寄せしてから、この作業を行ったら、6時間以上この記事をアップするまでに描けていました。北国は雪寄せという大きなハンデを感じるな。
プロフィール

kaneya

Author:kaneya
もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。
真似してもいいけど、その場合は自己責任でお願いします。

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