もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

バスレフの欠点って?

バスレフの欠点として、ベースの音階がわからないとか、質の悪い低音と書かれている人が多い気がします。

わたしは、どちらかと言うと小口径フルレンジが工作のメインだったためか、それほどバスレフの低音が質が悪いと感じたことは殆どない。いや、1回だけある。

こんなコイルがほしいな。
1個500円くらいで、安売りしていた10cmウーファーを使用した両面バスレフ。いやー、これがボーボーした感じの音で、ある程度長く聞いていると気持ち悪くなって聞けなかったという経験があります。そのときに、この両面バスレフの箱だけなら低音がある程度フラットになるように作ったはずなのに、別のスピーカーと併せたら、片方の逆相の音がやっぱり打ち消し合いを起こして、両面バスレフの箱は、2つのダクトを同じ面にセッテングしてはいけないんだなということも感じましたが、・・・・・・。

ただ、わたしの中では、これはバスレフの欠点というよりは、ユニットの欠点ではないかと考えています。フルレンジではあまり気にならなかったのですから。

ボーボーした音になるのは、ユニットの制動がきかないからでしょう。重い振動板を動かすウーファーは、どうしても慣性のために制動がきかせづらくなります。そして安売りするような小口径ウーファー、F0もそれほど低くないユニットで、無理やり低い帯域まで出そうとしたもんだから、もう気持ち悪い音になっちゃんたんでしょう。何事もほどほどにということなんでしょうか。

以前妄想スピーカーに書きましたが、バックロードバスレフのユニット前面を覆ったら、ある程度質のいい低音が出せるウーファーにならないかなーと考えてます。バックロードバスレフはダクトの調整である程度低音の質を向上させることができますから。

でも、シングルバスレフは、ユニットの裸の周波数特性図を見て、ほんの少しだけ低域を足すという方式だと思うので、程々の低音で設計するのが良さそうな気がしています。
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FF105WKの標準バスレフ箱

参考までに、FF105WKの標準箱も検討させてもらいましょう。
FF105WKの標準バスレフ箱

内容積は、12.8cm×19.2cm×26.4cm ≒ 6.4リットル。

ダクト開口面積は、2cm×2cm×3.14 ≒ 12.6cm2。

ダクト長は、8.5cm。

Fdは、長岡鉄男氏の公式に入れると、約77Hzとなります。

ユニットのF0は、75Hzですから、今回はFdはF0よりも高い周波数となっています。

FF105WKの標準バスレフ箱

でも、周波数特性を見ると、F0よりもダクトの強調周波数を低めに設定すると、くぼみが出来てしまいそうです。

・・・・・

もっとも500Hz以上にけっこうギャップがありますから、ちょっとくらいのくぼみは許容範囲かもしれないとも思われるんですが、一応70Hzの強調で、200Hz~70Hzくらいまで、フラットにすることはできそうな気がします。ということは、エレキベースとかのわかりやすい低域100Hz周辺は200Hzと同じくらいの出力が期待できそうです。

・・・・・・

もしかして、Iさんが、口径を増やしたのに思ったより低音が出なかったと感じたのは、ここらへんが関係しているのかなと感じます。

繰り返しますけど、Iさんは主に(デキシーランド)ジャズを聞いている人。オーケストラとか、キーボード主体の音楽とか、50Hz(場合によってはそれ以下)まででたほうが具合のいい音楽とは違い、そこまでの低域は必要なさそうな気もします。ですから、200Hzと同等の音圧で100Hzが出てくれるこちらの箱のほうが低音が出ているように感じたのかなあ。

あ、念のために書いておきますが、FF105WKというユニット、一応は持ってますがまだ箱は作ったことがありません。ですから、話半分で、各自判断してください。

FF225WKの標準バスレフ箱

本当は、シングルバスレフと設計法の欠点にトラックバックするべきかなと思うが、まだトラックバックの方法がわからない。ということでトラックバックしないで書かせてもらいます。

FF225WKは私は所有していません。ですから、その標準バスレフ箱も作ってはいません。が、大館市に住んでいるスピーカー仲間のIさんから聞いたことがあるので、話題にしてみます。

Iさんは、FF105WKを購入し、その標準バスレフ箱を作ったところ、そこそこ低音も出て、金属ドームのおかげか、シンバルがリアルに響いて気にいったとのこと。それで、より低音が狙えるだろうと一番口径の大きいFF225WKを購入し、標準バスレフ箱を作ってみたところ、思ったより低音が出ないだけでなく、シンバルが響かなくなったとのこと。口径が大きくなると高域は出にくくなるのかなと思いますが、低域がでないというのはどういうことだろうと思ったりします。

FF225WKの標準バスレフ箱
FOSTEXのホームページから標準箱図面を無断で拝借させてもらいました。

容積は、23cm×28cm×43.5cm÷1000≒28リットル。
ダクト面積は、3.25cm×3.25cm×3.14≒33.2cm2。
ダクト長は、19cm。

通常のバスレフ箱のように箱の内部にダクトを入れたときと、チムニーダクトにしたときでは、実はそれほどダクト強調周波数は変わらないと何処かで書かれていたので、素直にそれを信じることにして、
長岡鉄男氏の解説本にある公式で容積29リットルで(つまりチムニーダクトとして)強調周波数(Fd)を出してみると、

Fd ≒ 40Hz。

ユニットのF0 は44Hzですから、F0よりも少し低い周波数がダクトで強調されているということになります。
まあけっこう低い周波数をバスレフダクトが出していると思います。でも、Iさんは口径をこんなに大きくしたのに、思ったより低音が出ないと言っていました。

FF225WKの標準バスレフ箱
ついでに、ユニットの周波数特性図も載せておきましょう。

200Hzあたりから、じわじわと低域は減少していっています。

ですから、想像ですが、40Hzの出力は100Hzあたりの量感くらいまでしか出していないのかなと思ったりします。

なにせ、100Hz当たりは、とってもわかりやすい低域で、エレキベースあたりの低音ならここいら辺の帯域が重要らしいです。で、残念ながら200Hzの量感よりも100Hzはちょっと下がった形になってしまっている。40Hz部分が強調されても100Hzはそれほど量感が増えないでしょう。ですから、おそらくこの箱で、ジャズなんか聴くとエレキベースはちょっと弱くなる感じがする。

40Hzより低い周波数は、シングルバスレフの特性としてバッサリ切り取られてしまいます。トーンコントロールイコライザを使っても出せなくなります。でも幸いに100Hzあたりはトーンコントロールイコライザで強調できるはずですから、電気的に持ち上げてあげる必要があるかもしれませんね。この箱は。

あ、まったくの想像で書いてますから、まるっきり違っている可能性が高いので、信用しすぎないでください。

塩ビ管スピーカーオフ会&kenbe邸再訪問に出かける予定

今日、夜行高速路線バスの切符を手配してきました。いとくショッピングセンター近くのバス乗り場で購入しました。ちょうど1ヶ月前から購入できるのですが、往復で購入すると少し安くなるので、帰りの日時4月30日のちょうど1ヶ月前の今日、購入したのですが、
・・・・・・
いやー、危なかった。出発日4月28日は、最後の2枚のうちの1枚を何とか購入できました。コンビニで、機械を操作して購入することも出来るんですが、その場合は、座席は機械的に割り振られてしまいます。バス乗り場のほうでは、開いている席を確認してくれて、ある程度希望に近い席を選んでくれます。やっぱり28日にも足を運んで、28日分を仮予約してもらうべきだったか。でも何とか確保できたので、良かった良かった。特に今回は誘っている人がいるので、切符が取れなかったらシャレにならない事態になっていた。そんなことも含めてよかった良かった。

普段は、春の連休時期は、山菜採りとぶつかってくるので、塩ビ管オフ会には行かなかったのですが、今回は見学させてもらいます。たてちゅうさん、(kenbeさんの)発表順で気をもませてしまったようで、ご迷惑おかけしたかもしれません。来年度からは又見学に行けないかもしれないので、今回塩ビ管スピーカーオフ会も楽しませてもらいます。

唐突にkenbeさんの名前を出してしまいましたが、実は、今回の計画のスタートは、もう一回kenbe邸に行きたいなという、どちらかと言うと私のわがままな思いから。

・・・・

そう言えば、前回お邪魔したときに、秋田のスピーカー仲間はどうしてます? と振られたことを思い出し、秋田市のAさんを誘ってもう1回行きたいんですが、と伺いを立てたところ、4月の後半ならという返事が。それで、この機会を逃しちゃいけないと思い、4月29日か30日にということで訪問することにさせてもらいました。kenbeさんありがとうございます。

Aさん、はっきりいってAさんをkenbe邸に行くダシに使っている感じになっていますが、私は鶏ガラでも豚骨でも干し椎茸でもないぞと怒っても不思議ではないんですが、かえって宿泊場所を準備してくださり、ありがとうございます。

・・・・・・

と、ここで心配事がひとつ。
実は、スピーカー仲間、大館市にも一人いるんですが、その人がへそを曲げてしまわないかな。でも現状、いろいろな事を考えると(今からだと夜行高速路線バスの切符が取れない可能性とか、)誘うのが困難な感じになっているので、こちらの方は今後何らかの形で考えることにしよう。



Aさんへの事務連絡。
新宿駅から塩ビ管スピーカーオフ会(10:00開始)に向かうには、多分これだと思います。
08:53 JR新宿駅 1番線発
(30分) JR湘南新宿ライン特別快速(小田原行)
09:23 JR横浜駅 9番線着
(13分) 乗り場移動
09:36 JR横浜駅 4番線発
(12分) JR横浜線(八王子行)
09:48 JR新横浜駅 6番線着

その列車に間に合うように私が新宿に行けるおそらくギリギリの列車はこれだと思います。
08:20 JR池袋駅 6番線発
(9分) JR山手線新宿方面
08:29 JR新宿駅 14番線着

山手線は何本も列車がありますからそれよりも前の列車で新宿に行きます。多分新宿駅の近くにはドトールコーヒーのようなところがあるんじゃないかなと思うので、(これから待ち合わせ場所は考えることにして)とりあえず新宿駅近くでコーヒー飲みながらちょっと過ごしたいと思います。塩ビ管スピーカーオフ会には一緒に行きましょう。



おまけの動画。

なんかインタビュー受けている時間がけっこうあってそのところが、日本語しかわからない私には退屈なところですけど、個人的に気になって仕方がないのがウクレレベース。おそらくテナーウクレレくらいの大きさなのにしっかりベース感がある。

こんなウクレレ奏者がいたんだ。

ネットサーフィンしてたら、見つけてしまいました。とはいっても、この人のデビューは日本デビューが2005年のようですから、知っている人は何を今更という感じなんでしょうけど。

タイマネ・ガードナーというウクレレ奏者です。


演奏を診てもらうとわかると思いますが、使用しているウクレレがちょっと変わっている。8弦ウクレレから3本弦を外して、ローGの弦のみ2本使っています。

インタビュー記事はこちら

ウクレレは低音が出ない楽器だけど、やっぱり低音を求めてしまうんだな。

おまけの動画。

石田氏の小型新作BHBSの音道が気になる

石田式小型BHBS・・・いつの間にかMOOK風に・・・・で、魅力的な小型の大きさのバックロードバスレフに石田氏は取り組んでいるようです。サイズは、
>サイズH300mm×W153mm×D250
とのことなので、とりあえず、外枠だけCADで作図してみました。
石田氏の小型新作BHBSの音道が気になる
内部構造を自分なりに考えようとしてたところ、おそらく追加情報なんでしょう。このような記事が出ました。

実験中の石田式BHBS

・・・・

なんというか、こちらの想像を超えてました。これがうまく行ったら、ダブルバスレフではなく、フォースバスレフ? の要素が加わるんでしょうか?

バックロードの最後の方だけではなく途中も絞ろうだなんて、無茶にも程がある!←褒め言葉のつもりです。念のため。

今回、内部を妄想してネタにしようと思ってましたが、これは、・・・・・。私の頭では難しすぎる。

登山にインターハイが有ったんだ。初めて知った。

栃木県那須町湯本の「那須温泉ファミリースキー場」で27日午前に発生した雪崩による登山部の事故で、参加した登山部は、高体連主催の行事に参加して事故になったという報道がありました。

・・・・・

え、高体連! それにニュースを良くみたら登山部!

・・・・・・・

私は登山部体験はありませんから、ネットで検索してみたら、登山部にもインターハイがあるんですね。びっくりしました。だから高体連主催の行事が計画されるんだ。

インターハイの種目に「登山」があったと思うのですが、主に何を競うんですか? (ヤフー知恵袋)

・・・・・

ところで、このような場合は補償は何処が行うんでしょうか? 高校の登山部顧問ではないような気がします。企画は高体連ですから。でも、高体連はおそらく県から補助金を貰って運営している組織で、その会員は登山部担当教師と登山部経験者有志会員のみで、県からの補助金は紐付きですから今回のような行事でほぼ無くなるはずで、事故の補償金まではないはずです。ということは、高体連に補助金を出していると思われる教育委員会?

まあ、何処が補償してもいいんですが、お金では解消できない思いが残ることも理解してますが、被害者の気持ちが少しでも早く収まるように補償すべきところは速やかに進めてもらいたいなと、まったくの部外者ですが、個人的に思います。

稀勢の里優勝のニュースに思ったこと

久しぶりに誕生した日本人横綱の優勝に昨日はNHKのニュースはそれ1色になった感じでした。

ただ、なんというか、日本の相撲のいびつさが、日本人横綱優勝にチラホラと見え隠れするように感じるのは、私がちょっとひねくれものだからでしょうか?

ネット上には解説があるようですが、実は日本では法令で国技と言うものは決められていません。ですから、大相撲が日本の国技であると一般には思われていますが、根拠はないんです。ちなみに噂では、国技館を作ったから相撲が国技と呼ばれるようになったという話もあり、個人的には事実なのかなと感じます。

法令で決定していないけど、日本人の常識として、伝統的なスポーツだから国技なのだという考えもあるようです。同様な立場で、柔道・剣道なども国技だという人もいます。中には空手も国技という人もいますが、これは名称からして国技に入れるのはどうなんでしょう。元々は唐手と書いていたのですから、外来武術だと思います。東京オリンピック種目にしたのは個人的にはどうなんだろうと感じています。

日本では、伝統的と考えられる条件として、江戸時代中頃までには完成し、現在に伝わっているものが伝統文化と考えられているフシがあります。文化財保護法で保護される文化財はだいたいそういう感じのものが多いような気がします。(ちょっと関係ないけど、宗教でも幕末頃以降に発生した宗教は新興宗教に分類されます。)ですから、いつ完成したが定かでなくくらいの狂言とか、室町時代に完成した能とか、江戸時代中期頃には完成した歌舞伎は伝統芸能と行っても何も問題ないと感じます。竹刀で練習する剣術は柳生流が最初のようなので、剣道も伝統的と行っていいと思います。

では、柔道はどうなのか? 柔道の開祖は嘉納治五郎であることは有名です。そして、彼は幕末・明治時代の人間です。ですから、個人的には柔道は伝統的武術に入れたくない感じがします。

では相撲はどうなのか? 文献に現れる最初の相撲は、人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いだそうです。由来は十分古いんですけど、勝負内容は蹴りも使われており、現代人から見るとこれを相撲と読んでいいものか?

・・・・・

もう一つ感じることは、外国人横綱のほうが増えてしまった今の状態での、外国人横綱に対する扱いと日本人横綱に対する違いです。今回は稀勢の里が勝利しました。怪我を押しての優勝ですから、ちょっと過熱気味になるのも分からないではない。でもスポーツとか武道とかには、公平性が欲しい。何をいいたいのかは伏せますがなんとなく想像はつくかな。

・・・・・・・

こんなことを書くと、国技なのだから、日本人横綱を待望して何が悪いという反論が来そうです。気持ちはわかります。私だって、国技なのに横綱が3人もモンゴル人である相撲、どこが国技だと思いましたから。日本の国技なのだから横綱は日本人になってほしい。でも、外国人力士を入れた段階で、日本人も外国人力士も平等に扱ってほしいものだと考えているだけです。

やっぱりそれはおかしいというのなら、今からでも外国人力士の受け入れを辞め、外国人力士に引退してもらうしかないと思います。国技という日本独自の伝統芸能という1面を強調すれば、不可能な話ではないと思います。



おまけの動画。

『信長殺し、光秀ではない』 25


八切止夫氏は川角太閤記において、登場人物について追求しています。



真実は雲なのか・講談(164~172ページ)

<細川家記>では、信長に仕える前に信長に仕える前に溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら五百あまりの家臣を持つ身分で、江戸期なら浅野内匠頭より上の十万石くらいの身分だそうです。
---引用ここから---
 と思うと、また忙しく<川角太閤記>では、「三千石から一躍俄かに二十五万石拝領仕り候とき、人手がないから他からスカウトしたところ、信長に叱られ続けた。よって、我慢ならぬから謀叛をするのだ」と光秀自身の口から宣言をさせている。
---引用ここまで---
とのことだが、光秀は元々家来を五百余りもいたのだから、ここはおそらく川角太閤記の創作なんでしょう。怨恨説の一角はこれで崩れていると感じます。

---引用ここから---
<浅野旧侯爵家史料>によると、天正十一年に、「江州坂本二十一万石のところ、城代として二万石を拝す」という浅野長吉時代のものがあり<亀田高綱記>では二万二千石とある。つまり旧坂本領は二十万石位らしい。
 そして丹波亀山城主羽柴秀勝(信長の子)天正十二年突然変死したあと、前田法印が伜の前田利勝に先だち五万石にて亀山城主になっているから、その合計で二十五万石割り出したものと想像するが、それは後年の話である。
 江州坂本の支城でさえ二十万石の余を拝領している明智光秀に、「本城として丹波亀山旭城」をもたせる時に、支城の四分の一以下ということはない。丹波丹後に跨って、その頃やはり三十万石以上はあった筈である。
 つまり天正十年当時の明智光秀は五十万石以上と思えるのに<川角太閤記>は、後年の、
<慶長分限料>や<伏見城作事割当表>の石高から割り出して、すっかり間違えている。
---引用ここまで---
なんというか、怨恨説のために、光秀の身分を操作したのかなと感じさせますね。

---引用ここから---
 さて<川角太閤記>では、光秀が「人一円も持ち合わせず」つまり、目星(めぼ)しい家来が一人もいないのでと言わせているが、光秀と最期まで生死を共にしている三宅藤兵衛や溝尾庄兵衛にしろ、昔からの家臣である。
 ところが<川角太閤記>には変な家来が現われてくる。まず最初はその溝尾と、斎藤内蔵助を二つ合わせて、二で割ったような、「溝尾内蔵助」という人物である。初めの内は別々に書いてあるから、二人のことかとも思うが、それなら、溝尾や斎藤とか、庄兵衛内蔵助と併記するべきなのに合体させているのは何故だろうか。なにしろ筆頭の名前からして、江戸後期に流行した講釈の「湖水渡りの明智左馬助」である。実存は「明智秀満」で、これは荒木村重の嫡男新五郎の許へ嫁にいって戻ってきた光秀の長女の婿である。
 さて怪人物の溝尾内蔵助が言うのには、「目出たき御事を思召されました。では明日からは上様と仰せ奉れるでしょう。さて今日は、夜が短かいから急いで本能寺を五つ前に片づけ、それより、二条の御所をお討ちはたしなさったら、ごもっともと思います」
 と賛成している記述が出てくる。だが二条御所へ、信忠が妙覚寺から移ったのは、実にこの六時間あとの午前八時である。当時は、まだ行ってはいない。
 千里眼でない限り、予測ができる筈はない。だから怪人物であるとしか言いようもない。なにしろ御所に当時いられたのは誠仁親王なのだから、信長を倒したついでに、二条御所に居られる皇太子も亡きものにし、光秀を明智帝にしようという魂胆なのであろうか。どっちみち、出鱈目もよいとこである。
---引用ここまで---
(結果)を先に出して、それに話を結びつけて行った結果、わけがわからなくなるのだろうと八切氏は推測しているみたいです。なにせ江戸期の制作物ですから。

---引用ここから---
そのくせ、一方ではリアリズムぶって、
「沓掛の在所にて兵粮(ひょうろう)をつかい、馬を休ませてから『味方の者で本能寺へ注進する心いやしい奴が居るかも知れんから、見つけ次第に斬りすてえ』と天野源右衛門を尖兵(せんぺい)隊長にして先行させた。天野は東寺辺の瓜畑の百姓を、もし本能寺へ知らせに行かれては、まずいと追いかけまわして、二三十人も切りすてた。別に罪や科(とが)はないのだが、天野は(武者の心得)として念(ねん)のために処分したのだと、筆者はうけ給って(感心した)」と結んでいる。
 いかにも本当らしい。だが尖兵として早駆けを言いつけられた者が、徒歩で、てくてく行くとは考えられない。乗馬だろう。すると、(うり畑の百姓が、彼らより早く本能寺へ注進するのを気遣った)というからには、きっと百姓も馬にのって畑仕事をしていたのらしい。しかし、そんなばかげたことはなかろう。
 だが、そんな百姓よりも、続いて並んでいた細川番所の方は、どうしたのであろうか。
 江戸期に入って細川は九州へ転封され、豊前小倉から寛永九年十月には、肥後十二郡、豊後三郡に加増移封され、肥後熊本五十四万石になっていたから、この本の筆者は、天正十年六月二日には、(この一帯が、洛中警護のために当時丹後宮津城主だった細川の飛び地支配になっていて)細川番所というのが並んでいたのを、まるっきり知らなかったのでは、あるまいか。罪もない百姓を殺すより、番所の者を始末しなければ、大変な事になる筈である。
 ところが、そんなことは一行も出ていない。
---引用ここまで---
切羽詰ったときの判断はおかしな判断になることもありますが、もしそうだったのなら、番所からの通報で、本能寺の変が失敗したと思います。でもそのような事実(番所からの通報)はまったくありません。

---引用ここから---
 だが、出ていないには出ていない訳がある。この天野源右衛門というのが、これまた明智左馬助同様に、江戸後期の張り扇から叩き出されてきた人物である。後述もするが、「あいや暫らく、お待ちあれ、右府さまとお見上げ申して、御首級(みしるし)頂戴」と大身の槍をつきだし、信長の肘に傷をつけたところを、「あいや推参なり」と前髪だちの花も恥らう美少年の森蘭丸に邪魔をされて、怪我をして階段から、ころげ落ちる安田作兵衛という髭もじゃの五十男が、この男だそうである。
 講談では、安田作兵衛が九州の立花家へ奉公したときに、世をはばかって、天野源右衛門と名を変えたことになっているが、<川角太閤記>では、早手廻しに、まだ本能寺へ赴かぬ先から名を改めている。講談を利用しても、結果をさきに出している一例である。
 さて昔の江戸時代の辻講釈というのは、連日、読み続けて「さあ、あとは明晩のお楽しみ」と客を引っ張って行かなくてはならなかったから、信長も死に蘭丸も死んでしまう<本能寺>の続編に、仕組んだのが、傷はさせたが、命は助けておいた安田作兵衛である。
 これを天野とかえ、立花宗茂の家来にして、次の読物にしてしまった。おかげで現在なら、まだ高校一年か二年の宗茂が、張り扇のおかげで豪傑になり、やがて朝鮮の役になると、
「朝鮮碧蹄館、天野源右衛門と十時(じっとき)伝右衛門との一番槍の争い」という講釈になる。
 正確にいうと、本能寺の変後十七年たっているから、五十歳の彼だって六十七歳のわけだが、そこは講談だからアンチ・リアリズムで勇ましい。
 だから講釈で相当にあたったらしく、「天野源右衛門覚書」という当時の赤本も幕末に出たくらいである。
 その<覚書?>なるものによると、源右衛門を主にする立花宗茂の二千か三千の兵が、「明軍三十万を斬り殺した」と面白可笑しくかいてある。一人が平均百人を斬ったことになるが、テレビや映画のジュラルミンの刀ではあるまいし、そんなバッタバッタとやれたものであろうか。
---引用ここまで---
織田信長の桶狭間は、最初降伏したのに、雨で火縄銃が使えなくなったところで、反撃に転じたというのが八切説です。約束を守らず裏切って勝利です。でもドラマではそんな信長はみたくない。当時の講談もそんなところがあるんでしょうね。

けっこうこの後もいろいろ興味深いことが書かれていますが、偽書と考えるしかない<川角太閤記>、本ブログではこのくらいにしておきます。

次は、<川角太閤記>の本能寺関連部分の原文(172~176ページ)が引用されていますが、省略します。

ふう、ようやく半分まで読んだぞ。

『信長殺し、光秀ではない』 24


<川角太閤記>には、<明智日向守、謀叛を企てること>というのがあるそうで、それが、信長殺しが光秀である理由の補強になっていると八切氏は指摘しています。



真実は雲なのか・分析(159~164ページ)
<川角太閤記>では、六月一日に重臣たちと本能寺へ出発し、亀山の東柴野へ打って出、そのまま東へ進み、斎藤利三らを召し寄せ、決意を告げたとなっている。
小瀬甫庵作<信長記>では、亀山出発前に五人に心中を打ち明け、五人から起請文を取り人質を取ったと書かれている。ただし、八切氏は本能寺の変後、本拠地の亀山に戻っていないことから、内容に疑いを持っているようである。

---引用ここから---
 さて、川角太閤記は、その次の条に、
「日向守殿は腰掛から敷皮の上に居直って、存ずる旨を申し出すなり」と、まるで浄瑠璃のような語り口で始まって、
「さて、わが身三千石のとき、俄かに二十五万石を貰ったから、家来をあまり持ち合せず、他から止むなく引き抜きをしたところ岐阜で三月三日に叱られ、其後は、信濃の国の上諏訪では、暴力をうけて殴られた。そして今度の家康卿ご上洛のとき、安土に御宿をいいつかって泊めたところ、ご馳走の次第が、どうも手を抜いて油断しているように叱られ、俄かに西国出陣を仰せつけられた。こう再三にわたって苛められていては、終には(所領没収又は切腹追放)という我が身の大事に及ぶべしとも想う。だが、よく熟考してみると、以上あげた三つの怨みは、或いは目出たいことかも知れん。なにしろ有為転変は世の慣(なら)い。老後の思い出に、たとえ一夜たりとも天下をとった上で、その痛快さを味わってみたいものであると、この程、この光秀は思い切ってついに謀叛の覚悟をつけた。だから、家来の其方らは気が進まなくば同意しなくともよい。そのかわり、それならそれで、今から、この光秀一人で、本能寺へ乱入し、そこで暴れ廻ってやってから腹を切って、‥‥思い出をつくる決心なのである」と、まず一息に光秀がいう。
 これが川角太閤記における、犯行自白の録取書なのである。つまり光秀自身の口から、犯行の動機と、これが怨恨を目的とする犯罪で、決して突発した精神錯乱ではなく、謀殺であって、この殺人予備罪にも該当する相談は、光秀自身の発案で、言い渡されたのであるとされている。
---引用ここまで---
ここの部分の分析が、ここでの眼目なんだろうと感じる。

---引用ここから---
 もちろん光秀の遺恨説というのは、この他にも数限りないくらいあるから、それはそれで一括して解明するにしても、さっぱり理解に苦しむのがここへ出てくる「我が身三千石のときに、頼みもしないのに一躍、二十五万石にされた」という段階である。この時点を、「岐阜城で、三月三日の節句、大名高家の前にて、面目を失いし次第」と原文にはあるが、
「高家(こうけ)」というのは、慶長十三年十二月に徳川家康が関白二条康道と相談して、持明院の末孫の大沢基輔と、足利氏の裔の吉良義弥をもって、それにあてたのが嚆矢とされ、のち江戸幕府の職名になったものである。ところが信長が美濃井の口城を奪って、岐阜城と改め、そこにいたのは永禄七年から天正四年二月までである。すると、ここ江戸期までに三十五年間という最低のギャップが生じる。
 つまり高家などと呼ばれる者が、岐阜城にいた筈はない。まだ、そう呼ばれる者は作られていなかったからだ。
 次に三月三日の節句というのもおかしい。
 これは桜井秀の<雛祭考>に<時慶卿記>を引用して説明されているように、
「上巳の節句は寛永六年三月三日より始る」か。
 又は「お湯殿日記」を史料にする有坂与太郎の<雛祭新考>に、「上巳の節句の始りは、寛永二年三月三日」の、どちらかが正しく、いずれにしろ信長時代にはない節句で、これは江戸期からの年中行事である。
 それまでは宮中に於て(周や魏の風俗で三月三日に汚れを川へ流す風習をうけつぎ)この日を「曲水宴」といって酒宴にしたり、漢詩はつくっていたが、大陸の行事なので、節句とは決して呼んでいない。また武家は絶対に、この遊びはしていない。つまり、三月三日を節句にしたのは徳川秀忠の五女の東福門院が、後水尾帝の中宮になられてから、関東の「おしら神」を祝って白酒をあげ(白木のままで彩色したのが子消し神)そして白桃を供えだしたのは、信長の死後四十余年経過したあとの事である。
 それでも江戸初期は、まだ「三季」とよばれ、「節句」ときめられていたのは、「五月五日の端午(たんご)」「九月九日の重陽」「十二月二十一日の歳暮」の三日である。
 つまり「三月三日の」が節句になったのは、ずっと後年の江戸中期以降のことであるから、この<川角太閤記>が、「元和七年から九年までの著作」とする校注者の説は可笑しい。三月三日の節句だとか、高家といったような書き方からみれば、これも、天和、貞享、元禄の頃に一大流行をした古書贋作ブームによるもの。やはり源内たちのような偽作者達が、せっせと書いて、それを故買(けいず)業者が、わざと灰汁につけて古色蒼然とした用紙に、筆耕させて仕上げたものだろう。なにしろ天下に浪人が溢れていて、コピーライターに不自由しなかった時代である。
 だが、右から左へ、その通りに筆写するのは、つい億劫でリライトした結果が、
<桂川を渡る場景>みたいに馬の藁沓の紐を切ったり、雪沓を夏にはかせたり、当時は桂川に渡橋があったから、光秀の頃に間違えてしまったようである。
 なにしろ、この<川角太閤記>が偽書であると、明確に指摘できるのは、その書かれたと称せられる元和七年から寛永二十年までの時代は、明智光秀の家老斎藤内蔵助の娘阿福が「春日局」として天下の権勢を振っていたからである。その彼女の父のことを書いた物が、写本とはいえ流布できる訳はあるまいと考えられる。
---引用ここまで---
このようなことから、この<川角太閤記>は、春日局の死後(元禄から天保時代)に成立した偽書であると、八切止夫氏は結論づけているようです。

『信長殺し、光秀ではない』 23


前回は、秀吉伝記の中の織田信長の最後の場面で、信長が夜に女性を寵愛したと書かれていることを紹介しましたが、信長自身はホモであったことを八切止夫氏は述べています。勘違いされないように補足しておきます。



真実は雲なのか・デフォルメ(155~159)
小瀬甫庵(おぜほあん)の<太閤記>の本能寺について、まるっきり講談で引用できないと切って捨てた後、田中吉政の臣の川角三郎右衛門が元和三年に纏めたといわれる<川角太閤記>について、追求をしている。

---引用ここから---
<巻一の明智勢、本能寺に乱入のこと>
 は、四章で構成されている。
 一は、光秀が桂川へつくと、軍勢の者共に火縄を切り点火し、草鞋をはきかえ、戦闘準備をせよと命令を下したということ。
 二は、(まだ本能寺へも向かっていないのに)光秀が本日から上様になられると、家来どもが喜び勇んだということ。
 三は、主格が、いつの間にか、光秀から斎藤内蔵助に転換されてしまい、彼が下知するには「町へ入ったら、いつもの如く、町木戸の潜り戸はあいて居るだろうから、その戸を押して開けて中へ入れ。入ったら後からの者のことを考えて、閉めずに戸は開けておいてやれ。次に目標は本能寺の森のさいかちの樹か竹薮と決めておけば、まあ暗くても、月明かりでも道を踏み違えることもなかろう」と声高にいうのが聴えた。
 四は、この後は<信長公記>に詳しく出ているから、向こうをよめ。ただ違っているのは、二の家来が喜んだ話と、三の斎藤内蔵助の命令であるが、これには二人も証人があって、直接にきいた。だから正しい。と書いてある。
---引用ここまで---
もっともらしいけれど、そこは八切止夫ですから、ここはおかしい、という点が追求されていきます。

---引用ここから---
 これは元和元年に、大坂夏の陣が終り、どうも泰平ムードの時代のものかと思ったが、とんでもない。もっと後年の贋作らしい。
 一の章に原文では(馬のくつ切り捨て、かち立ちの者共、新しき草鞋足半(あしなか)をはくべきなり、火縄一尺五寸にきり、その口々に火を渡し、五つずつ火先を逆に堤げよ、との触なり。さて桂川をのりこし候こと)とある。だが、<相州兵乱記>に「急坂を駆け降りなむと、馬の藁沓の結びを縮め」とある。つまり結んだ端がピンと立っていては、馬が勾配(こうばい)に掛ったとき、前脚の切れ端が後脚を刺してはいけないからと言うのである。だが、これから桂川へ入るのである。たいていの藁は水に浸かると柔らかくなる。ピンと刺さる筈はない。あべこべに、水にふやけるから後で締め直さなければならない。そのとき、前もって端を切っていたら、どうして締め直しをするのだろう。
 おそらく、これは<摂戦実録>にもある「大坂夏の陣で、木村長門守が、決戦の心構えで、二度と兜をはずすまいと、その結び目を短かく切って出陣した」という高名な話からヒントを得て、兜の緒と馬沓の紐をうっかり書き間違えたのであろう。
 次に、川を渡ってから新しい草鞋に履きかえろと言うのなら判るが、今から水に浸るのに、はきかえろではこれは二重手間ではないか。(足半(あしなか))というのは、半分の草鞋という誤説もあるが、雪沓(ゆきぐつ)みたいに藁で編んだ半長靴である。川を渡るのだから、これをはけというのだろうが、六月一日は雨である。桂川の水かさは増している。まさか、そんなものを穿(は)いたところで、浅瀬にしたって、膝まであったろう。だったら、わざわざ六月に雪沓をはくことはない。それに第一、そんなものを持ってきている筈もない。
 次に、火縄を点火して逆にしろというのは、携行ランプの代用のことらしいが、普通は、川を渡るときは、濡らさぬように桐油紙で包むか「雨火縄」とよぶ革袋に入れ、頭のてっぺんへ結いつけて渡河したものである。この<川角太閤記>みたいに、当時所定の五本全部に火をつけ、しかも、ぶら提げて川を徒歩で渡ったら、びしょ濡れで廃品になってしまう。
 これは、どうも、桂川に橋があったと間違えているらしいが、ここへ架設されたのは、ずっと後年のことである。当時ここは細川藤孝領で、細川番所の渡船があったきりである。だから、細川家で手伝ってくれても、せいぜい二三艘の小舟で、一万三千が渡っていては夜があけてしまう。やはり徒歩で水中を渉って渡河したのだろう。
 それから、<兵器物具考>によると、
「火縄一尺五寸は、風なく一刻なり」とある。
 つまり一尺五寸という寸法は、点火させてから風の吹かないときでも二時間しか保たないと決まっていたのだ。
 桂川を渡る前に火を、五本ともつけてしまうというのは、徒歩では三時間半かかる本能寺へ急行できるように、川向こうにジープやトラックでも待たせてあったのだろうか。そうでなければ、余りにも変である。なお、当時の軍用草鞋は、水中へ入っても切れぬように、木綿の芯が入っていて、これを武者草鞋と言い、高級品は皮編みになっていた。だから、江戸期の博徒の出入りみたいに、それっと言って、新しいのにはきかえるような事はなかったものだ。
---引用ここまで---
書かれている内容はよく検討してみるとおかしな事だらけ。なんというか、日本の歴史は講談とか小説が現実と思われているのでしょう。

・・・・

話は変わりますが、ちょっと前の教育課程編成で、聖徳太子の名を厩戸皇子に変えると計画されていたようですが、日本人の常識として聖徳太子の名は残さななければならないという議論が出たらしく、又、聖徳太子という名称を復活させようという動きになったそうです。
個人的には、聖徳太子というのは死後に付けられた諡(おくりな)だそうで、生前に呼ばれていた厩戸皇子でも何も問題はないと感じます。天皇になれた人は区別するために諡で呼ぶのは仕方ないんですが(言霊信仰のある日本では、本名を知られることは支配されることという信仰があったようで、天皇現職中は名前が無くなります。天皇名はすべて死後の諡。戦後の天皇は除きます。)、聖徳太子は天皇になれなかった人です。それに聖徳太子という名で呼ばれる時は、一度に10人の言うことを聞き分けたとか、常人よりもすごいという伝説のときが多い気がします。歴史の学習からは、伝説のようなことは除いたほうが、歴史学のためにもいいのじゃないかなと個人的には感じます。

・・・・

<川角太閤記>の分析は、まだ続いていますが、今日はここまで。

『信長殺し、光秀ではない』 22


八切止夫氏は、サンカ研究などでも知られている人です。差別された人間の恨みにも似た思いが、真実追求の原動力であると思わされるような表現がよく出てきます。少なくとも、この著作では、真実というものは、国家が決めたり、多数の人間がそうだと言うからそうなんだというものではないと八切氏は述べています。



真実は雲なのか・贋作(149~159ページ)
<信長公記>の作者太田牛一が書いたとされる、<太閤さま軍記のうち>(もはや現存していない太閤軍記2巻から抜粋したものらしい。1冊に綴じられた本らしい。)に、<織田信長の最後>という短い1章について、解説がある。

---引用ここから---
これには、もはや、
「明智が(手の)者と見受けられ」などという表現は使わず、その者ずばりに、頭初から名を使っている。原文は、
「一、明智日向守光秀、小身たるを、信長公一万の人持ちにさせられ候ところ、いくばくもなくして御高恩を忘れ、欲にふけり、天下に望みをなし、信長御父子御一族のお歴々がいらか(瓦のごとく肩を)並べて居られた京本能寺において、六月二日に、情けなく討ち奉りをはむぬ(原文どおり)」
 これが全文である。伝わっているものは、用紙が、当時では高価だった鳥の子半紙を用い、でっちょ綴りに仕上げてあるといわれる。そうなれば、これは草稿や原稿ではない。「売り本」の体裁である。現行のように印刷して何万と刷って広告して、不特定多数の読者に売り捌(さば)くのとは訳が違う。一冊きりだから、もし相手に気に入らない個所があったら、せっかく書上げても、銭にならんのである。
 だから相手次第で内容も、違ってくるのは止むを得ない。とはいうものの、これがはたして大田牛一の物かどうかは、その奥書に、
「この一巻、大田和泉守、愚案(ぐあん)をかえりみず、これを綴る。頽齢すでにしずまって、渋眼をのごい、禿筆をそむるものなり」
 と、あまりにも尤もらしい事が書いてあるだけに、眉唾ものと考えさせられる。そんなに無理して書いたものなら、
「□□年□月」とか「大田牛一□十□歳」とでも入れるべきである。
 それに「大田和泉守」と堂々と入っているが、これまた変である。安土桃山期では、何々守とよぶのは、敬称つまり、他人が呼ぶ「他称」である。山科言継のことを「言継卿」とよぶようなもので、本人は日記に、そんな「自称」はしていない。もし、公文書上の署名ならば、「大田和泉守牛一」が正しい。でなければ、本名の「資房」か「又助」である。(宮本武蔵の「「五輪の書」の奥付に「武蔵守」と入っているから怪しまれて贋物と思われているのと同じである)
---引用ここまで---
<太閤さま軍記のうち>は、最古の秀吉の伝記として、文化財指定を受けているそうですが、さすが八切止夫、容赦のない追求です。
---引用ここから---
 道理で信長に仕える前から「溝尾庄兵衛以下何百という家士をもち、京の二条には、信長一行を何日も泊められる大邸宅のあった光秀」を、講談本なみに小身と書いている。
 そして、<信長公記>の本能寺では「素肌に湯かたびらの小姓達」と書いたのを失念してしまい、まるで「鎧武者でも並んでいたように、角ばった屋根瓦」で表現をしている。もしそうでなくて、お歴々と言いたいのなら、二条御所の方と書き違えている。
---引用ここまで---
このようなことから、八切氏は源内グループの贋作と睨んでいるようです。

次いで、秀吉の右筆であった大村由己の書いた「惟任退治記」について考察をしている。
八切氏は、文献名が< >で囲ったものは、資料扱いで、「 」で囲ったものは、資料っぽいが非なるものと分類しているので、
---引用ここから---
 なにしろ奥書に、その著作年月日が、
 水戸弘道館本は、天正十年十月十五日。
 続・群書類従本は、天正十年十月 日
 と出ているが、その十月十五日というのは、<言経卿記>や<兼見卿記>によれば、
「京の大徳寺にて、故信長公の葬儀。位牌は故信長公八男の長丸君、秀吉、次に太刀をもって従い、葬列美麗をつくす」とある当日である。
 まさか秀吉主宰の葬式に、家来であるところの、この作家は欠席をするわけにもいかず、原稿用紙と筆をもって、大徳寺で、きっと走り書きをしたのであろう。だから故人信長の葬式というのに、ずいぶんと可笑しな所が多い。
---引用ここまで---
と、まったく容赦がありません。
信長は夕方には女性を寵愛していたと大村由己は書いているそうですが、八切氏は、おそらく秀吉がそう書かなければ納得しなかったのだろうと考えています。

中国では、権力を握った人間は前任者の墓を暴いたり、前任者の悪事を暴いたりしていますが、秀吉にもそんなところがあったんでしょうか?

『信長殺し、光秀ではない』 21



最近、金正男暗殺という事件が起こりました。ただ、それによって利益を得る団体や個人がまったく浮かびません。もし本当にマスコミで報道されているように、北朝鮮の起こした事件なら、中国からは石炭を買ってもらえなくなり、また数少ない友好国をひとつ失い、北朝鮮にとって良いことはひとつも思い浮かばない。中国が暗殺を理由に北朝鮮に攻め込んだりしたら、中国黒幕説が成り立つんだけど。



真実は雲なのか・暗殺(142~149ページ)
また、マカオでの真実追求の日々の思い出のようなものが書かれています。

マカオの図書館で、ケネディ暗殺を調べている女性教師と出会ったことが書かれています。

この作品が発表されたのは(後書きによると)昭和42年です。1967年のようです。ケネディ暗殺は、1963年ですから、4年ほどしか経っていません。当時は現在よりも関心を持たれていたことでしょう。

---引用ここから---
「判りましたか(ヴォセ・コニエーヤ)」ときいてみると、
「奇怪至極です(ミステーリオ)」と彼女は首をふった。そして抱えてきた大判のノートをひろげた。色々な名前が書いてあった。そして又、次々と、それらは抹消されていた。
 まずオズワルドの名があった。逮捕後二日目に、ダラス警察で射殺。死亡した場所は、大統領が絶命したバークランド病院。そして、その病院では、狙撃したジャック・ルビーも死亡している。そしてルビーのナイトクラブに関係のあったヘンリー・キラムがフロリダのペンサコラで何者かに殺害。
 そして「オズワルドが犯人でない」と証言した運転手のウィリアム・ホエイターは奇怪な交通事故死をとげ、目撃者のウォーレン・レイノルズは重傷をうけて瀕死の容態。同じくドミンゴ・ペナピデスは、その瓜二つの弟のエディを、ダラスの酒場で射殺されている。そして、同じく「オズワルドはケネデー殺しではない」と言ったばかりに、別件逮捕でダラス警察に追われたジェームズは(逃げようと誤って落ちたことになって)、コンクリートの車道で重傷。警察といえば、リングビーチ署で、事件直後に取材にあたったプレス・テレグラム紙の事件記者ビル・ハンターが、堂々と一警官の「誤射」によって即死。一緒に取材に当たっていたダラス・タイムスのジム・ケースも、その五ヶ月後、自宅で虐殺。犯人は不明。
 殺された二人の事件記者と行動を共にしていた弁護士のトム・ハワードも1965年5月にダラスで謎の頓死。その六ヶ月後には、
「ルビーとウォーレン最高判事のやりとり」をスクープした女流記者ドロシーが、自宅で急死。
「睡眠薬の誤用」と発表されたが、解剖の結果では、その痕跡もなかったという。
「ケネデーを狙撃したのは、オズワルドのいた教科書倉庫より、反対の陸橋側だった」と証言したパワーズ鉄道員は、レールの上で首と手足をバラバラにされて発見。ダラス警察は「事故死」と、その死因発表。
 次々と算えると、十八人の生き証人が、殺されたり、死にかけで口がきけなくなっている勘定である。
「‥‥疑惑(ドウヴイダール)」と、彼女は口をはさむが、私の方は、この消されたリストの書き写しを見せられては、それどころではなかった。「目撃者は殺せ」と証人が次々と殺害されているばかりでなく、「真実」を解明しようとした新聞記者や弁護士までが、次々と溝鼠みたいに叩き殺されている。
---引用ここまで---

これでは、現在までケネディ暗殺犯は誰だと問題にされるわけです。

金正男殺害犯の実行犯とされている女性二人は、そのまま死刑になるのかな? 関係者と思われる北朝鮮大使館員は国外退去になってしまっているし、実態は謎のままだろうな。
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Author:kaneya
もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。
真似してもいいけど、その場合は自己責任でお願いします。

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