もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 1

結構寒いので、妄想スピーカーでお茶を濁してますが、そのうち大きな広告が出そうなので、八切止夫の読書の覚書を描くことにしました。



八切止夫の一番の代表作はこれになると思います。

元々は講談社から販売(1967年)された後に、八切止夫自身が日本シェル出版と言う会社を作り、そこから販売(1974年)されています。その後に作品社という出版社から出版された(1971年に出版された番長書房刊のものが底本で2002年に出版された)古本になります。現在手に入れることができる出版物はおそらくこれだけでないかと思います。

ネット上には八切止夫作品集というところもあり、そこでも読むことは可能です。でも、ネット上のデータは、落丁のある本からデータを起こしたのではないかと考えられるフシがあります。一部の章が抜け落ちているようです。

また、この本は八切止夫自身の信長殺人犯追求の過程を記した私小説の体裁となっています。そのためか、なかなか読み通すことが難しい本でもあります。ですから、覚書として、記録を残しながら読んでいこうということです。

まあ、著作権はもう放棄されている作品のようですから、まとめをネット上に載せていくことには多分問題はないでしょう。

光秀関係では、光秀の子孫が書いた『431年目の真実』という著書もあります。



一部では結構話題になりましたが、光秀は濡れ衣を着せられたという説は検討する価値はあるのではないかと感じます。

もっとも、八切止夫という人は小説家で歴史家ではありません。まだまだ歴史的事実とされていないようなことを事実ではないかと描くことが出来る人です。ですから、私個人は光秀は濡衣を被せられたという説を支持しますが、それが事実であるとゴリ押しするつもりはありません。


副島隆彦氏はこの著書で八切止夫の説をおおいに取り上げ、八切止夫の復権をと書いていましたが、八切止夫自身は、最終的には信長殺しの犯人については、可能性を匂わせて終わっている感じがしています。

ということで、この後は個人的な覚書です。



てきは、本能寺・誤解
(1ページ~13ページ)
最初に、八切止夫自身の著作『乱暴武者』(作品社の八切止夫シリーズでは、『寸法武者』の中に収録されています。)を単行本化するときに削除した、信長の最後の場面を載せています。
---引用ここから---
「織田信長という人の最期は、かくもあったであろう」
「こんな風に壮烈きわまりない敢闘をしてから、潔く、人事をつくしてのち、従容として死についたろう」
 と、読む方も、そういう期待をもっているから、書く方も、抵抗をさけるように、それにおもねって、かいてきたものである。
---引用ここまで---

そして、殆どの信長の最後が同じ理由をこう述べている。
---引用ここから---
 さて江戸時代に「番町で目あき、盲にみちをきき」で知られた塙保己一(はなわほきいち)という先生がいて、正続の「群書類従」という、それまで散逸していた写本、版本の類をあつめて編纂したとき、「類従制」とよばれる方式をとった。
 今日で云えば「多数制採用」というのか。同じ時代、同じ具象を扱ったもので、同じような事が書いてあるものは、比べてみて、それが同一か相似していたときは、双方が例証となって、これは良質とされ、他と内容が相違しているものは、これは「信用すべき対照物がないから」と悪書にされた。
 仏教の「十目のみるところ、十指のさすところ、それ正しきかな」という、昔の民主主義採決法である。一つの方法には違いないが、それが今日まで、古文献、古史料の鑑別法には、この類に従う方式が、今も生きて使われている。従って、
「六月二日、明智光秀に包囲され、弓をひき槍で闘って、のち火をつけて死ぬ信長像」がみな、類は類をよんで内容が同一なところから、先にあげた古書は、「第一級の史料」と目されている。そして、それと相違するような物は、古来、一冊たりといえど陽の目はみていない。
---引用ここまで---
なんというか、日本の歴史学の弱点をズバリとついています。何処かでこういう話読んだ気がするなと記憶を辿った所、逆説の日本史に書かれていたような気がしてきた。ということは、八切止夫は逆説の日本史の魁なのかもしれない。

---引用ここから---
 まず初めに「信長公記や、その他の各書の内容が、こと信長殺しに関しては、同一であるから、本当らしい」という誤解について、いいたいのは、「なにも学校の試験のように、同一の時刻に一緒に書かれたものではない」
 つまり、「あの中の一冊が種本で、あとは、みな、それを下敷にして作成されたもの」
 これが試験の答案なら、「みなカンニングして写しとったものにすぎない」ということである。
(一部省略)
<天正記>というのは、信長の次の国家主権者の秀吉政権の御用作家が書いたもの。
<当代記>は、筆者が、松平忠明などとも言われているが、次の徳川政権の資料。
<信長公記>と<太閤記>はリライトされ焼き直しをされ、なんともいいようもないものだが、今日では誤解され過大評価をされている。
---引用ここまで---
資料名を出してさらにダメ押ししてます。

---引用ここから---
「誤解」というものは、良きにつけ悪しきにつけ、それは生きている人間のものであって、死んだ人間には、それこそよけいだろうと私は想う。
そこで‥‥
「1582年6月2日の午前四時から八時までの間に、織田信長という男は死んだ。しかし、あんな死に方はしていない。これは荒唐無稽なデフォルメにすぎぬ」ということ。
 そして‥‥
「明智光秀を信長殺しに仕立て上げているが、彼は信長が<死>という状態に追い込まれた同日の午前七時半までは本能寺へ近よってもいない。初めて光秀が京都へ姿を見せたのは、二条城の信忠も焼死した九時すぎである。つまり現代の言葉でいうなら
ば、明智光秀にはアリバイが成立している」という事実。
 それなのに‥‥
「誰も彼もが光秀を、信長殺し、ときめこんでしまって、一人として怪しむものがないのは、何故だろうか。もちろん、385年前は『信長殺しは光秀』としておいた方が、当時の国家権力者には都合は良かったろうが、なんぼなんでも、もう本当の事が判って、彼の誤解は、そろそろ、とけても良いのではなかろうか」と考える。
---引用ここまで---
この作品が追求していくテーマはここなんだろうと感じます。

---引用ここから---
 それと、もう一つ。これは世界史から孤立していた日本史の断層にも起因している。
「戦国期」というものを、英雄とか豪傑といった人間関係においてのみ把握する従来の帰納法は、あれは「三国志」の模倣でしかない。もちろん今日の吾々の常識では‥‥
(一部省略)
それと同様に、戦国時代を回顧すると、天文12年に日本へ伝来した鉄砲が、まず念頭に浮かぶ。だが、日本国内では、その弾薬の煙硝は生産されない。当時の「死の商人」は、マカオから季節風にのって、夥しい硝石を売り込み、彼等の手によって、日本の戦国時代は演出されていたといっても、それは過言ではあるまい。
---引用ここまで---
『三国志』はあまり研究していないけど、『~志』と書かれているものは歴史書ではなく、三国志演義のことでしょう。つまり文学です。でも個人的には堅苦しい歴史よりもドラマチックな文学のほうが読んでいて楽しい。だからどうしてもそちらの方に引きづられてしまう面が自分にもある。
また、硝石に注目している点もなかなかだと感じる。中学校の戦国時代の勉強でも硝石が舶来物だということは学習した記憶がない。(現在の中学校の歴史ではわからないが。)読み通すのがけっこう大変ですが、なるほどと感じさせてくれる本であることは確かな感じがします。
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
【Font & Icon】
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

kaneya

Author:kaneya
もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。
真似してもいいけど、その場合は自己責任でお願いします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
趣味・実用
3776位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
827位
アクセスランキングを見る>>
カウンター
2014年5月19日カウント開始