もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 3

後回しにしていた続きは、結構知られていないことが書かれているような気がします。ほとんど省略することを行いにくい感じです。




てきは、本能寺・虚実(32~39ページ)

最初は、女房が髪を切り売ってくれたので、同輩のもてなしができ面目を施すことができたという講談を紹介し、こんなことはありえないと述べている。
---引用ここから---
 --この講談が、今日の光秀に対する常識になっている。もちろん、虚像である。実際には、信長と光秀が初めに正式に逢っているのは永禄十一年七月二十七日であるが、<細川家記>によって、すこし詳しく引用すれば、
「明智光秀は、その重臣の溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余騎をもって七月十六日に、朝倉の一乗谷から出てきた足利義昭に供奉させ、穴間の谷から若子橋をこえ仏ヶ原のところでは、明智光秀は自分から五百余の私兵を率いて待ち、ここから美濃の立政寺へ二十五日に赴き、二十七日に信長と対面」とある。
 いくら妻女がロングロング・ヘヤアであったとしても又、女の髪の毛は象をも繋ぐといったところでアラジンの魔法のランプであるまいし、六百名に近い家来が、毛髪の切り売りぐらいで、賄えるものではないと想う。
 一人平均五万円給与とみても、六百名では現在なら、人件費として三千万円の計上である。年間三億六千万の棒給を出すためには、企業収益は年間三十億は必要である。そうなると、当今なら五百億ぐらいの売上げのある会社でないと、このバランス・シートは保てない。まぁ話半分とみて、光秀の率いている私兵の半分が、よせ集めの臨時雇か、野次馬的な者とみて、これを除外したとしても、江戸期においては十万石。(一万石で百人出兵の定法だった豊臣時代でも、これは五万石以上の実力であり、格式である)しかも当時、牢人の光秀には所領というべきものはない。
 つまり土地からの「作毛」である収穫物の米麦で、これは賄っていたのではない。
 そこで、この記述によると、光秀は貨幣で給与を払っていた事になる。だから牢人とはいえ、えらい金満家だったということになる。しかしである。<細川家記>では、なお、この時代たるや、「明智光秀は大砲の妙術を心得え、朝倉家にて、五百貫の禄をえていたが、細川藤孝が越前に滞在していたとき、足利将軍家の衰徴をなげき、深く交り互いに談合した。その後、義昭から直接に、光秀に対して、織田へ頼れるようにと依頼した。ところが、鞍谷某に密告されて、光秀は牢人させられた」
 という時点が、これに当たる。つまり、「一貫一石」という換算でゆけば、五百石どりから、光秀は扶持離れした状態である。それでは全然計算が合わない。まったく矛盾しきっている。それに当時の五百貫取りというのは、鎧冑をつけ馬にのり、左右に護衛の為の脇武者をはべらせて出撃する一人前の将校の最下位のことである。家来が二人と六百人とでは違いが甚しいと想う。
 それに(山内一豊の講談)で、間違って伝えられているが、この時代は、女房が臍くりで金を払ったからといって、馬にのれたり、勝手に旗指物などつけられるものではない。身分によって、初めて馬のりになれたり、許可があって旗指物は背に立てられるのである。これは戦前、九段の軍装店へ行けば、銭さえ出せば将校の肩章でも軍帽でも売っていたが、それを買ってつけたからといって、自分勝手に兵士が将校に昇進できなかったのと全く同じ事で、これでは光秀の話も辻つまが合わない。
---引用ここまで---
光秀は、実は金持ちだったし、武将の格も高かったということが説明されています。

---引用ここから---
 さらに<細川家記>では、あく迄も、
「永禄十一年十月九日。光秀は岐阜城へ赴き信長に逢う。信長喜んで、これに朝倉家同様に、五百貫の扶持を与えて召抱う」とある。しかし、これに対して、(それでは光秀の当時の勢力からみて、なんぼなんでも、五百貫では安かろう)というのでもあろうか。悪書とよばれている、<明智軍記>というのは、禄高を修正して、約十倍にして、
「猪子兵助の推挙により、美濃安八郡で、四千二百貫の闕所(けっしょ)の地を与えられた」とする。
 だが、この本は、当時の講談本以外の何物でもないから、あまり信用できない。
 もっと、ひどいのに、この他、古書では、<校合(こうごう)雑記>というのがある。これでは、「光秀は、もと細川藤孝の徒歩(かち)武者で、のち細川家より出て信長公に仕え、その当座も徒歩武者の身分であったが、やがて信長の気に入られ、知行を増やされ、疲れ馬一疋にものれる身分と出世し、信長が近江を手に入れると、坂本城を築いて、これを光秀に預けた」
 となっている。ところが坂本城というのは信長が築いたものではない。
 これは森蘭丸の父の三左が篭城して討死した近江宇佐山の志賀城の北東四キロの戸津ヶ浜に、光秀が自力で建築したものである。
 志賀城を信長から貰って一時居住した事は、
<元亀二年記>という史料に出ているそうだが、その翌年の正月には、つまり、
<兼見卿記>の元亀三年正月六日の条に、
「明十於坂本、而普請也」と出ている。
<年代記抄節>によると、「前年十二月より起工」とも出ている。そして、
<兼見卿記>の元亀三年十二月二十四日に、「坂本城の天主作事工事以外は、あらかた落成し、その結構壮美なるには眼を愕かす」
と出ている。もし信長が建ててやるのなら、戦時目的であるから、きっと実用一点ばりの筈である。しかも悠長に一年余もかける訳はない。これは志賀城の古い石畳を利用しただろうが、明智光秀が自腹をきって身銭で建てたものである。こんな判りきった事でさえ、三百八十五年後になると、すっかり間違えられてしまい、
「信長から坂本城を貰った」と言われている。
---引用ここまで---
八切止夫氏は校合雑記は当時の、今言うところの「怪文書」と述べている。

---引用ここから---
 さて、このすでに二年前の時点において、
<言継卿記>によると、
 元亀元年二月三十日(太陰暦)の条に、
「信長、岐阜城より上洛し、明智光秀邸を宿所となして泊り、三月一日に禁裏へ伺候」とある。
 姉川合戦の後でも、七月四日に上洛し、七日まで、信長は近臣数百名と共に、当時はホテルはなかったから、ゆっくりと明智邸に滞在している。
 五百貫どりや四千九百貫どりの身分で、まさか、何百人も収容できる大邸宅を、いくら当時はギルト制で大工の手間代が安かったにしろ建てられるものではない。それに、泊めるのに、貸し布団屋は当時なかったろうと想像される。つまり光秀は豪勢だったのである。(一部略)
 光秀が初めから金持ちで、京では大邸宅を構え、私兵も相当に抱えていて、信用ができたからこそ、信長は彼と交際し、やがて自分の幕下へ引き込んだのではあるまいか。
 それが立証できるのは、<原本信長記>によれば、秀吉が、五万貫の江州長浜城主に登用されるより、既に一年有半前に、
 別説である<吉田文書>によれば、もう明白に二年前に、「(滋賀郡の内にて扶持を与う地侍の進藤らは、光秀の寄騎たるべきこと)と、佐久間信盛への信長さまの朱印状の中に記載これあり」と、それらの資料にはある。
 つまり滋賀郡一帯は既に光秀領となっている。明智光秀は、秀吉よりも先に、もう一国一城の主だったのである。
---引用ここまで---
そして光秀は信長と合う以前に城持ち大名であったことが説明されています。

---引用ここから---
 彼は信長に逢う前から、極めて裕福だったからこそ、永禄十三年つまり元亀元年正月二十三日に、織田信長と十五代将軍の足利義昭の間に取換された文書、この内容は、きわめて重要なもので、
「一、諸国へ将軍家として内書を出す時は、信長に仰せ聞かされ相談してくれたら、信長も、それに添状をつけて出すから、むやみに勝手に内書の乱発はしないでほしい。
一、これまでの将軍家の御下知として、勝手に出されたものは一応破棄して白紙に戻し、これは考え直してくれること。
一、公儀である足利義昭に対し忠義を尽した輩に、褒美や恩賞を与えるのに、しかるべき土地がなければ、言ってさえ下さったら信長の領分から、差上げも致しまする。
一、天下の政治を信長に一任されたからには、誰彼の区別はせず、また一々将軍家の意向を聞かなくとも、信長が、これを成敗する。つまり思い通りにやらせて頂きたいものである。
一、天下を安穏にするためには、禁中の諸公卿の動きに対して油断をされ、これに乗じられたり煽動される、ような事があってはならないと、ご留意下されたい」というものであるが、その書面に光秀の地位は明白にされている。
 この五ヶ条の通達に当たって、足利義昭の墨印が頭書にあって、末文に「天下布武」の信長の朱印があるが、双方の代理人として、
 織田信長方は、日乗となっていて、足利義昭側代理人は光秀。しかも実物は、
<成簣堂文庫>にあるが、信長の朱印の上部において、「明智十兵衛光秀尉、殿」と、敬語がついている。
 つまり形式的であったとしても、この時点に於ては、光秀は信長から公文書に於ては、敬称をつけて扱われる上位、または対等の地位にあったことの例証である。
 なにしろ(地位)とは、力であり、そして金である。
---引用ここまで---
五箇条の御誓文で、光秀は公文書上で信長と同等以上の武将であったことが説明されています。

どうやら、光秀は信長と出会う頃には、もう武将として立派な地位を築いていたと考えるべきなのかもしれません。
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