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『信長殺し、光秀ではない』 4



前回は、一つの章ほぼフル引用でしたので、最後の方はあえてバッサリ削りました。削った内容は、

光秀が朝倉に仕えたという良質の資料は、五十嵐氏所蔵の『古案』のみ(<高柳光寿氏著・明智光秀>の14ページ)というところです。



てきは本能寺・二君(39~44ページ)
ここでは、室町御所内での光秀の地位について説明している章のようです。

---引用ここから---
 永禄十一年十月十八日、織田信長に擁せられて上洛した足利義昭は、十五代足利将軍の宣下を受けた。だが室町御所以来の奉公衆の細川藤賢、上野信恵、一色藤長、細川藤孝、三淵藤英、上野秀政、和田惟政といった連中が頑張っていたから、
<公卿補任記>などをみると、信長を斯波管領家の跡目に推す内書には、
「なほ藤孝、惟政に申す可きなり」と(申次(もうしつぎ))と当時よばれた最高位の、官房長官名には、光秀などは、まだ入ってない。
 骨折って織田家に橋渡しをしたとはいえ、金の力でのし上がってきた光秀は、歴々の譜代の奉公衆に比べれば、まだ、まったくの新参なのである。
 翌年正月五日に、三好三人衆や美濃の残党に、義昭が本圀寺で囲まれた時、光秀も防戦したことが、
<御湯殿上日記>に出てくるくらいの身分なのである。
---引用ここまで---
信長と出会った頃はまだ室町御所内での地位は、低かったことが説明されています。

---引用ここから---
 ところが三年後の元亀二年七月五日になると、
<曇華院文書(どげいんもんじょ)>に、はっきりと、
「同院の領地である山城国の大住の荘に関する信長よりの、室町御所への抗議書の名
宛人は、上野秀政、明智光秀」となって現れてくる。
 つまり、この頃になって光秀は、その財力にものを言わせて、足利義昭の申次衆として、上野と同格にまで昇進しているのである。
 翌年九月二十四日には、足利幕府奉行衆の一員として、明智光秀は兵千を率いて、今の大坂の高槻城へ入ったと、その出陣ぶりが<言継卿記>には出ている。なお、<年代記抄節>の同年四月の条には、これもはっきりと、「河内出兵の織田方へ加勢のために出陣した公方(くぼう)衆の一人」として、光秀の名前が見えている。
---引用ここまで---
元亀二年の段階で、室町御所内での地位が確立したことが説明されています。

---引用ここから---
 ところがである。
<毛利家文書>に入っている元亀元年五月四日付の一色藤長から波多野秀治宛書状には、
「朝倉征伐に出陣した信長は、秀吉、光秀を金ヶ崎に残して引揚げてきた」と出ている。
 そして、同年九月の志賀山の宇佐城が落ちたとき、光秀は、柴田勝家と共に、京の二条城防衛に二十一日夜、摂津から帰洛している。もちろん、この時は、十五代将軍家の足利義昭も信長に合力して出陣している。
 高柳光寿氏の<明智光秀>では、この時点では「光秀は義昭と信長の双方から扶持を貰って、二君に仕えていたもの」と推定されている。江戸中期以降、「貞婦は二夫にまみえず、忠臣は二君に仕えず」という言葉が大陸から持ち込まれ、そういう観念からゆくと判らないが、私はこれを問屋の店員が百貨店の売り場に勤務しているような出向社員と考えたい。なにしろ足利将軍家に仕えていれば直臣(じき)であって、信長とも同輩の立場でいられる。それが信長の臣となってしまっては陪臣(また)に落ちてしまう。この差異は、江戸期に入っても、河内山宗俊のせりふではないが、
「こうみえたって、お直参(じき)だぜ」といって雲州松江侯の家老を堂々と、玄関先で脅かせるぐらいの箔があったのである。
---引用ここまで---
同時期に信長の家臣でもあったことと、そのことに対する矢切氏の見解が書かれています。
この後、信長が近畿地方を手なずけるため、摂津中島領主に於市御前の妹を嫁がせたがうまくいかなかったため、代わりに光秀をスカウトしようとし、手心を加えたのではないかとも考えたいと書かれています。

後に、陰謀好きの義昭に嫌気が差したのか、いずれ光秀も室町御所から離れるのですが、その時期は、石山本願寺攻めの頃だそうです。

光秀の人間性に関する記述として、こんな記述を入れている。
---引用ここから---
これは後の話だが、いったい光秀という男はどんな人間だったのだろうか。現代でも、頭が良いということと、賢いというのは違うが、どうも彼も、頭脳の回転は早かったが世俗的には、あまり利口だったとは考えられない。<多聞院日記>の天正二年の記載に、
「大和多聞城へ入った光秀が、同じ奈良の大乗院尋憲に命じて、寺宝になっていた法性五郎の長太刀の差出しを命じた。見せてほしいという指図だが、取り上げられるものと覚悟して出したところ、後になって礼をいって返してよこした。意外さに戻された側はびっくり仰天した」とある。
---引用ここまで---
「正直者は馬鹿を見る」という江戸期の言葉は光秀から起きたような気がすると書いている。

日本の資料では、信長殺しが光秀ではないに役立つものが見つからないので英文の資料も調べ、本能寺近くの南蛮寺のことも書かれている。でも、なんというか、二君というタイトルの章に似合わないので、この部分は、次の章に付け加える形にして、今回は割愛させてもらう。
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