もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 6


次の章は、戦国時代の海外のキリスト教事情が書かれています。



てきは、本能寺・プロ(44~50ページ)
---引用ここから---
 日本語の資料によると、この当時は、白人は、みな南蛮人、彼らの持ってきた神の教えは、当今の字なら「吉利支丹」その頃の当て字ならば「貴理師端」と概念的に一括されている。
 だが、どうもそんな単純なものではなかったらしい。
 というのも鉄砲伝来の二十三年前の1517年、ローマ法皇レオ十世が、サン・ピエトロ寺院の建築費用捻出のため、免罪符を売り出した。
(中略)
 もともと Indulgentia 免罪という思想は原始キリスト教会にもあった。善行さえつめば贖罪されて、天国へゆけるという保証だった。だからレオ十世猊下においては、命から二番目とも言われる金を出して、教会の建築基金に出すような善行を施す者は、もうそれだけの功徳で天国に入れるものとみな認められたのである。
---引用ここまで---
この後、ルターの宗教改革の説明が来るのですが、自殺未遂者であり、戦争経験者でもあるためか、どこか皮肉交じりに説明されているように感じるのは私だけだろうか?
※山田風太郎の忍法帖も私はファンなのであるが、忍法帖シリーズは血や汗を流しながら忍法修行してきた忍者が忍術比べをして結局は勝者にも無情の風が・・・・、という話が意外とある。おそらく戦争を体験したからこそ、そのような雰囲気になってしまうのだろうか。

---引用ここから---
 ところが、いつの時代にも、いやあな奴はいるものである。私も大学講師を何年もやってきたから言うのだが、頭の悪いくせに自己優位を誇示したがって、愚にもつかぬ事を、さも尤もらしく、いったりかいたりして、それで銭儲けをしたり人気とりをしようとする Professor という種族がいる。レオ十世の時代にもいた。Wittenberg大学にいたMartin Lutherという男だ。なにも命は一つしかないのだから、それに合わせての切符なんだから免罪符だって一枚でいい。だから、欲しければ一枚買えばよし。いやなら買わなければいい。ただそれだけの事なのに、その男たるやヴィッテンベルグ大僧院の門扉に95項目からなる抗議ポスターをはりつけた。まあケチ精神の現れであり、彼の売名行為であろう。
 おかげでゲルマニヤ地区の免罪符大売捌元のテッツェルは、その営業を妨害された。
 世に、これを「ルーテルの宗教改革」という。なぜかというと評論家の彼をサクソニアのフリードリッヒ公が早速、御用作家として匿い、時の国家主権者のカール五世が、トルコ戦争後、また国内の新教徒を弾圧しだしたのに、対抗馬として利用したからである。つまり、織田信長が生まれる五年前の享禄二年のシュバイエル国会において、フリードリッヒ公をはじめ、打倒カール五世の陰謀派は、ここに抗議書(Protestatio)を提出した。今で云えば「国王不信任案」の上程で、その退位要求である。
---引用ここまで---
この時点から、新教徒はプロテスタントと呼ばれるようになったことが説明されている。

あわせてプロのつくたくさんの言葉がこの時悪意を込めて生まれたと説明されている。
引用文の中にも出てきているプロフェッサーの他に、
プロフェッショナル → 商売人
プロスティスト → 体で商売をする女
プロパガンダ → ポスターなんかを貼って宣伝すること
プロレタリアート → プロパガンダにのせられ騒ぐ大衆
プロポーズ → ルーテルのように申し込みをすることから
プロデューサー → ルーテルのように文句をつけてダメ出しをする人間
プロパンガス → ルーテルのように爆発したら被害を受けるガス
プロモーター → ルーテルのようにイチかバチかの商売をするもの

・・・・

本当か?

なんというか、ここいら辺は、八切止夫の気質から来る皮肉が出ているだけかもしれないと思ったりする。

とにかくプロテスタントの勢いが強くなったので、カトリック勢力は、南米、南阿、東洋へと出ていったことが説明されている。

---引用ここから---
 さて、私は村上直次郎氏の多年の労作に文句をいうわけではないが、彼が<長崎叢書・日本耶蘇会年報>とか、<異国叢書・耶蘇会日本通信史料>といったタイトルで、南蛮史料を刊行するものだから(耶蘇教=切支丹=キリスト教)といった誤謬を与え、そのため日本に於ける中学校高校に教科書に採用される<世界史>が一冊残らず、皆同じように間違いをしてしまっているが、が海外布教のために1534年に創立したは、これを「耶蘇会」と訳すのは誤りらしい。「耶蘇会」という日本語をあててよいものは、1530年のルーテル派のヒランヒトンの書いた<アウグスブルグの信仰告白による懺悔録>を参照すれば、よく判る事だが、これはプロテスタントの新教の方である。明らかにこれは困った誤訳である。
 つまりフランシスコ・ザビエルによって、日本列島へもたらされ、マカオをば宗教基地として、
<天正十一年(本能寺の変の翌年)アレッサンドロ・ヴァリニヤーノよりの、ポルトガル本国のエボラ大司教報告書>にも記載されているところの、「この日本列島において、神の御名は讃うべきかな。わが聖堂は既に二百近く、祈祷所程度のカザやコレジョは、その数に加えず、されど、これとて二十余ヶ所に、その建物あり」
という宗教分野は、これは「耶蘇教」ではなく「天主教」のカトリックの方である。
 つまり、「日本耶蘇教会」というのは、根本的な間違いで「日本天主教会」でなくては、すべてが混乱してしまうのである。即ち「耶蘇教」と区別されて呼ばれるべきプロテスタントの新教が東洋へ入ってきて、その布教活動をしだしたのは、これは三百年あとの十九世紀の清朝末期で、日本へ伝わったのは明治からである。
 そこで村上直次郎博士および、その門下生の記したものを引用するに当たっては、私は、この根本的な誤訳を避けるために<天主教>という文字に改めて用いる。
---引用ここまで---
日本に戦国時代来ていたイエスズ会はカトリック勢であることが説明されています。

---引用ここから---
 さて、本能寺の変の起きる四年前。
 マカオにとって、それは重大な事が起きた。
 領主にして君主であるポルトガル国王のセバスチャン一世が、事もあろうに南アフリカへ攻め込んで、モロッコ人の騎馬隊に殺され、ついに敗戦してしまったのである。
(中略)
 そもそも初代フィリッピン総督のミゲル・ローベス・デ・レガスビというのは、本能寺の変の勃発した天正十年から、遡って十五年前に、アグスチン派の修道者を伴って来た。そして天正五年になると、フランシスコ派の修道者が、スペインから大西洋を渡ってメキシコへゆき、そこから貿易風を利用。フィリッピンのマニラへ集まってきた。
 そして本能寺の変の一年前の1581年には、初代ドミニコ会のドミンゴ・デ・サラサールが、
「ポルトガル人の天主教派を一掃しての日本占領のため」強力な修道士をあまた率いて、本国からやってきていたのだ。これは、その、
<1581年・ガスパールコエリ年譜>にもあるように、
「日本列島は東洋一の有望地で、すでに信徒は十五万をこえ、天主堂が二百もあるのに、ポルトガル人がマカオから来ているのは僅かで、日本人の助司祭のパードレ・イルマンを加えても八十余人で、とても手がまわりかねている」という実状に目をつけて、手薄を狙ってのっとりにきた、ものらしいと想像される。
---引用ここまで---

今回の章は、海外のキリスト教事情です。
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