もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 7



てきは、本能寺の大章の最後の章になります。


副島氏のこの本に引用されている部分がようやく出てきます。



てきは、本能寺・疑惑(51~58ページ)

最初、前章のキリスト教事情から、新興勢力のドミニコ派が日本を狙って起こした事件か、それとも日本を奪われまいとしたポルトガルの司祭の起こした事件ではと考えたと書かれています。いずれにしても神の教えを伝える宣教師や司祭の起こした事件です。八切止夫氏は、当時(昭和30年代)におきた、スチュワーデス殺人事件から発想したと書いています。

---引用ここから---
 というのは、<ヴァリニヤーノ書簡>にも、
「マカオの司祭は三千エスクードに価する一修道院の許可を、渡来したカスチリヤ人のフランシスコ修道士たちに与えました。しかし彼らは、マカオより中国本土の方を、メキシコやフィリッピンのように、自分たちの手で征服したがっています」
というのが明白に書かれてあるからである。
 いくら神の光栄が偉大であっても、その国自体を占領するとしないとでは、布教活動がまるで違う筈である。それに当時、ポルトガルのセバスチャン一世が死ねば、まるまると、その国土が統治できたスペインである。その三年後に、また野心を起し、当時の日本の主権者の信長を倒せば、否応なく日本列島に君臨できると考えたとしても、これは少しも訝(おか)しくない。
 なおヴァリニヤーノは、スペインのカスチリヤ人の中国本土征服の野心しか、書き残していないが、あの広大な中国より、どう考えたって、こぢんまりとした日本列島の方が、占領する足場としては手頃ではあるまいか。
 そして「安土か京にいる織田信長一人さえ亡きものにすれば、この国は手軽く奪えるもの」
 とでも考えたのではなかろうか、と想える。
 また、このヴァリニヤーノ書簡を裏返しに判読すれば、「先んずれば人を制す」のたとえで、
「スペインに奪取されるくらいなら、まずポルトガル人がやろう」とも受けとれるし、当時、印度を東西に分けて、その勢力を二分していたポルトガルとしては、ローマ法皇に対し、
「スペインが中国本土を狙うのなら、我々は、対抗上、まず日本列島を頂かねばなりません」と献言していたのかもしれない。
 と、疑惑が持てるのは、印度派密使(ウイジ・タードル)の資格をもって、天正七年七月にマカオから日本へ来朝したアレッサンドロ・ヴァリニヤーノは、翌天正八年十月に、豊後府内の教会堂に於て、天主教の神父たちをあつめ、九州協議会(スド・コンスルタ)を開き、続いて安土の天主堂で中央協議会(スエ・コンスルタ)。そして天正九年十二月には、長崎のトドス・サントス会堂で密議がもたれた。そして、これを最後にして正式の会合は姿を消し、翌天正十年の六月二日に、京都四条の三階建の天主堂から一町もない至近距離の本能寺で、いきなり突如として信長殺しは起きたのである。
---引用ここまで---
副島氏は、矢切氏の引用を使い、さらに信長を殺した実行犯は黒坊主の弥助と書いています。どうやらこの人は、アマゾンの評価コメントを見るとイスラエルの陰謀論なんかが大好きな人のようですからキリシタン関係者を犯人にしたいのでしょう。八切止夫氏は犯人として考えられるのはこの人もいるのではないかといろいろな説を、文献の引用と一緒に書いているだけのように私には思えました。矢切氏の考える犯人は、まだまだ出てきません。

信長の死因につながることがこの次にサラリと出ています。
---引用ここから---
 もし、当時の十字軍遠征用に考案されていた折畳み分解式のイサベラ砲を、この天主堂の三階へ運び上げていて、一階建の眼下の本能寺の客殿へ撃ち込むか、もし、それでは人目をひくものならば、その火薬を本能寺の境内へもちこんで導火させてしまえば、ドカンと一発、それで、これは容易にかたのつくことである。
 詳しい状況は後述するが、本能寺は午前4時に包囲されたのに、突然、火を発したのが午前7時過ぎという、時間的のギャップと、前日までの大雨で湿度が上昇していたのに、火勢が強くて、まだびしょ濡れの筈の本能寺の森の生木まで燃えつくし、民家にまで類焼した。
 そして、信長の焼死体が行方不明になってしまった位の強度の高熱状況からみても、木材や建具の燃焼温度では、火力の熱度が不審である。つまり、今日の消防法規でいうA火災ではなく、これは化学出火のB火災の疑いがある。
 当時の化学発火物といえば、文字どおり「火薬」であるが、小銃などによって発射された程度のものでは、これは炸薬だから、たいした事はない。性能の強い火薬による本能寺焼討ちとなれば、火裂弾(コムンバンド)しかない。
 もちろん、これは皆目、日本側の史料にはない。だが考えられることである。
---引用ここまで---

山田風太郎の妖説太閤記(だったかな?)でも、光秀が信長の死体を見つけられずに本能寺の焼け跡を調べていたために、秀吉への対応が遅れたことが書かれていたような気がする。今その本がないからあやふやなんですが。

私の母は制癌剤の影響か、火葬のあと骨が細かい破片でしたが、大往生した農家のお爺さんの火葬に参加したときは、太い骨が残っていました。信長のように戦場を駆け回った武将は多分骨は丈夫だったはず。通常の火災だったら骨くらいは残っているはずですが、信長の遺体はまったく残っていないようです。
高層の死角などを書いた森村誠一の何かの本で読んだんですが、登山で亡くなった人を山で火葬にするときは、頭蓋骨の中の脳が燃え残ったりするので、マサカリで骨を砕きながら火葬するとか書かれていたような気がする。もう何の本に書かれていたかもわからない状態なんですが、木での火力では何かが残るはずと私も思ったりします。

追記
そう言えば、八切止夫氏は小説家をやめていた時期に消火器販売をしていたようです。日本シェルター何とかという会社で。ただ、暮しの手帖の製品テストでこき下ろされ、あまり消火器が売れなかったとか。後に自分の出版社を持ったときに日本シェル出版としたのは、その会社名を引き継いだかららしいです。ともあれ、A火災だとかB火災だとかの知識があるのは、消火器を売っていたからでしょうね。

---引用ここから---
 さて、ここに、もう一つ訝しな事実がある。
 ヴァリニヤーノは天正九年十二月の長崎会議の後、翌年二月二十日。つまり本能寺事件の起きる百日前に、九州の大友、大村、有馬の三候の子息を伴って、秘かに日本脱出をしている。
 これは、信長を倒したあとの、日本列島のロボット君主に、この中の一人を、ローマ法皇グレゴリオ十三世に選ばせるためではなかろうか。昔から「三つに一つ」とか、「三位一体」というように、カトリックでは、ものを選ぶときに同じようなものを三個ならべてその一つを神の啓示にもとづいて採決する古教義が伝わっているからである。
 ところがである。マカオへ彼がわたったとき、
「ポルトガル王統断絶によって、従来は委任統治形式であったスペイン国王フィリッペ二世が、新たにポルトガル国王フィリッペ一世を名のって、ここに改めて、二つの王を正式に継承した」
 つまり二国が完全に合併した、という知らせが届いたのである。
 だから、ポルトガルの勢力を一挙にもり返そうとしたヴァリニヤーノの計画は挫折した。しかし、当時は無線も航空便もない。そして、季節風をつかまえないと船も進めないから、日本列島へ指令を出して計画変更を訓令する暇がなかったのではあるまいか。
 かくて同年六月二日。本能寺の変。
 そして、ヴァリニヤーノは、ローマへゆく筈だったのに、急に、日本の異変によって禁足され、印度管区長に任命され、途中で雄図空しく足止めされてしまった。だから九州三候の子息達は、日本語の通じる彼と別れて、バードレのロドリーゲスに伴われてヨーロッパへゆき、手土産の屏風などをプレゼントして歩いた。何をしに出かけたのか、未だに訪欧の目的は判らない。疑問とされている。
---引用ここまで---
ヴァリニヤーノははたして黒幕なのか、それともただ単に逃げただけなのか?

もう1点キリシタンが関与したかと思われる疑念が書かれていますが、長くなりすぎるので省略させてもらいますが、とりあえずここの章では犯人はヴァリニヤーノなのかという感じでこの章は終わっています。

次の大章は、光秀にはアリバイがある、です。
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