もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 8



今回から、光秀にはアリバイがあるという大章に入ります。



光秀にはアリバイがある・何処(59~67ページ)
---引用ここから---
 殺害された日時は、いまの暦なら七月一日だが、当時は太陰暦なので六月二日。
 時刻は、夜明け前というから、午前四時とみて、それから出火炎上する午前七時から七時半までの間。推定で計算すると、およそ三時間半の長時間であるが、この時間内において、明智光秀を本能寺附近で見かけた者は、誰もいない。これは動かしがたい事実である。
 つまり光秀は本能寺どころか、京都へはきていなかったのである。いやしくも謀叛を企てて信長を殺すならば、間違いのないように自分が出てきて監督指揮をとるのが当り前ではなかろうか。もし失敗したら、どんな結果になるか、なにしろこれは重大な事である。
(中略)
 もちろん、これに関しては、日本歴史学会の会長であり、戦国期の解明にあっては、最高権威である高柳光寿博士も春秋社刊行の<戦国戦記>の、
「本能寺の変・山崎の戦い」の54頁において、はっきりと、「六月二日、つまり信長弑逆の当日。午前九時から午後二時までしか、光秀は京都に現れていない」と、これは明記している点でもはっきりしている。
 念のために当時の山科言経の日記。つまり<大日本古文書><大日本古記録>の<言経卿記>の内から、事件当日の原文を引用する。
「その日、午前九時から午後二時までしか、京にいなかった光秀のために」それは必要だからである。
(天正十年)六月二日戌子。晴陰(曇) 一卯刻前(註、卯刻というのは午前六時。又は午前五時から午前七時をさす。だが、この場合、何刻から何刻というのでなく、ただ午前六時から前であったという、つまり時間的な例証になる。なにしろ午前九時すぎに上洛してきた光秀には、これでは関係がない)
 本能寺へ明智日向守謀叛ニヨリ押シ寄セラル(註、この言経記にも、一応は、こう書いてある。いないものが押寄せるわけはないが、みなこう書いてある。つまり、こう書くほうが、この十一日後に光秀は死んでいるから、死人に口なしで、何かと、みんなに都合が良かったかも知れない)
 前右府(信長)打死。同三位中将(岐阜城主にして跡目の織田信忠)ガ妙覚寺ヲ出テ、下御所(誠仁親王の二条城)ヘ取篭ノ処ニ、同押シ寄セ、後刻打死、村井春長軒(村井長門守貞勝)已下悉ク打死了、下御所(誠仁親王)ハ辰刻(午前七時から午前八時)ニ上御所(内裏)ヘ御渡御了、言語同断之為体也、京洛中騒動、不及是非了
 つまりこれは、四条通りの本能寺が炎上してから、織田信忠が妙覚寺から引きうつった二条にある下御所へ押しよせたから、誠仁親王が、まだ早朝なので、お乗物がなく、辛うじて里村紹巴(しょうは)という連歌師の見つけてきた町屋の荷輿にのられ、東口から避難されたという当時の状景を著わしたものである。
 ただし、この時代は陰暦なので、六月二日は初夏ではなく、もう盛夏である。そして当時は、今のように電気はなかったから、一般は灯火の油代を倹約して、早く寝て夜明けには起きて働いていた。だから、「早朝で輿がなかった」というからには、午前七時前が正しいかと思える。遅く見ても午前七時半迄であろう。農家は午前四時、町屋も六時から、当時は起きていたものである。
 という事は取りも直さず、まだ明智光秀が京へ入ってくる迄には、二時間以上のずれがあった。という事実がこれで生じてくる。
---引用ここまで---
ということは、光秀軍には包囲されたが、その大将の光秀はすべてが終わってから現れたことが説明されています。最も、八切止夫氏は二条城で信忠が討ち死にした時刻は記録がないので二条城での事件も九時には終わっていただろうという推測で話を進めています。

---引用ここから---
 そうなると、ここで疑問になるのは、「明智光秀は、それまで、何処に居たのか」ということになる。
 もちろんヘリコプターもなかった頃だし、午前九時には現場に到着していたというのだから、午前五時頃には、馬に跨って京に向かっていた事は事実であろう。そうなると、この問題は、
「何処からスタートしてきたのか」ということなる。
 これに関しては正確なものは、何も残っていない。ただ判っているのは三日前の五月二十八日に(この時の五月は二十九日までしかない)愛宕山へ登って、同日は一泊しているという証言が、里村紹巴らによって後日提出されている。
 さて、<言経卿記>によって天候をみると、
五月二十七日 雨。 二十八日 晴、 二十九日 下末。 六月一日 雨後晴である。
 二十八日は晴天だから、この日に登山したのは判るが、問題は二十九日である。これまでは、この日の下山となっているが、下末とは「どしゃ降り」の事である。
 だから、馬で愛宕の山頂までかけ登った光秀が、今と違って鉄製の馬蹄ではなく、藁で編んだ馬沓の駒の尻を叩いて、相当に険阻な山頂から血気にまかせて、滑り落ち転落する危険を冒してまで、降りてきたとは考えられはしない。もちろん今となっては正確には明智光秀の年齢は判らない。だが<明智軍記>という俗書に、
「五十五年の夢」という辞世の一句がある。
 その本では真偽の程は判らないが、時に信長が四十九歳なら、やはり、それ位かも知れぬ。そうなると、今でも昔でも人間は似たようなものである。どうして五十過ぎの男が血気にはやって、雨の中や、まだ地肌がぬるぬるすべる山道を、駈けおりてくるなどとは、常識では、とても考えられないことである。
 だから、通説では二十八日登山。一泊して二十九日下山となっているが、正確な当時の天候から推測して、下山は六月一日が正しかろう。
 しかも、この六月一日も夕方まで沛然たる雨で、小止みになってから妙覚寺滞在中の織田信忠が、夕刻から本能寺を訪問しているくらいだから、光秀が下山したのも、家来に足許を照させて山道を降りたのは、やはり雨が止んだのちと、考えるべきが至当であろう。だが、京と愛宕とは、後者が山だけに、なお降り方は悪かったとも想える。
 そうなると、光秀が、もし丹波亀山へついたとしても、一万三千は出陣した後ということになってしまう。だから光秀は後を追い、まさか一人ではなんともなるまいから、「支城の坂本へ引返し、そこで三千余の兵を率いて、至急、京へ駆けつけたという次第ではあるまいか」とも思われる。
 もう一回ここで、この日の順序を追ってみると、
六月二日(新暦7月1日)午前四時、本能寺包囲される。
      午前七時 炎上、信長行方不明。
             引き続き二条御所包囲。
             誠仁親王御所へ動座。
             信忠軍と包囲軍交戦。
      午前九時 明智光秀入洛。
      午後二時  〃   出洛。
      午後四時 瀬田大橋に現れる。
      午後五時 三千余の軍勢のみにて光秀は、坂本に帰城す。
 といったような経過を光秀は辿っている。
 そして、これは吉田神道の<兼見卿記>によるのだが、この二時以降の、光秀の行動は割りと詳しく判っている。(だが、この兼見という人は、この時点の日記を、後から別個に書き直している)つまり日記の二重帳簿である。そして、その表向きのしか、残念ながら今は伝わっていない。
---引用ここまで---
蹄鉄は明治になってから外国からはいってきたもののようです。蹄鉄のWikを見ると、江戸時代の浮世絵で、馬沓が示されています。確かに馬沓では濡れた山道は移動できそうにない。光秀の年齢は不明であるから、信長より若いと考えたとしても、あの馬用のわらじでは、濡れた山道は無理ですね。自殺行為です。ということは、八切止夫氏の考えた日程はあり得ることで、本能寺の決定的瞬間に光秀が居ないということはあり得ることですね。

瀬田大橋は、山岡景隆によって焼き落とされた橋で、そのために明智軍は安土城へ向かうことができなくなったので、自分の城に向かったわけです。八切止夫氏は、光秀が本能寺に駆けつけたときは一切事が終わった後であったため、善後策を相談するために安土に向かおうとしたと見るのは無理だろうかというような感じのことを書いている。では何故瀬田大橋が焼かれたか。

---引用ここから---
 だが実際は、(追記:橋が焼かれたのは)六月二日の(追記:本能寺の変)当日の事である。
 本来ならば山岡景隆は光秀を迎えにでて、「一体いかなる事が出来(しゅつたい)したるのか」と話をきき、共に善後策を講ずるのが、ごく普通の途ではなかったろうか。なにしろ、かつては十五代将軍足利義昭に共に仕えた仲であり、この十年前に、景隆は、その弟山岡景友と共に信長に叛き誅されるところを、光秀に助命され、つつがなく瀬田城主の位置を保てた男である。

 もしも山岡景隆が、当日の午前中に在京し、この異変が「明智の謀叛」と確認しているのならば、いわゆる正義感をもって、僅か三千の兵力では占領は考えられなくても、
「おのれ逆臣、光秀め。通しはせじ」と、橋をやいてしまったとも理解できる。
 ところが本能寺の異変は、午後三時頃になって、安土への急使か、又は通行人によって、この景隆は耳にしたにすぎない。何も詳細は知っていない。それなのに何故、一時間で断固として橋を焼き、自分の居城まで焼き落とすような、思いきった事を企てたのであろうか。
 まず、この引掛りから先に考えてみたい。
 もともと、明智勢をば対岸の山頂から湖水越しに望見していた山岡景隆というのは、さきに足利十代将軍の義稙(よしたね)が、近江半国の守護代六角高頼(たかより)をうつため、延徳三年八月に出陣した際の大本営の三井寺(みいでら)の光浄院の出で
ある。
 この時から室町幕府に奉公しだした光浄院は、その後、山城半国の守護に任ぜられいて、天正元年二月には、十五代足利義昭の命令によって、当主の暹慶(せんけい)が西近江で挙兵。
「打倒織田信長、仏敵退散」
の旗印のもとに一向宗の門徒を集め、石山の本願寺と連絡をとりながら、石山と今堅田に砦をきずいて抗戦。
 二月二十四日に、柴田勝家、蜂屋頼隆、丹羽長秀、明智光秀の連合軍に攻められ石山陥落。二十九日には今堅田の砦も力戦かいなく落されて、改めて信長に降人、その名を山岡景友と改名して助命され、勢田の城主の地位は遠慮して、その兄に譲った。この兄こそ、十年後、橋をやき城をすて、じっと山頂から、光秀の様子をしかと眺めていた山岡景隆になるのである。なお、彼の弟には近江膳所(ぜぜ)城主の同景佐(かげすけ)。次が玉林斎景猶(かげなお)、そして四男が山岡景友である。
<慶長見聞録案紙>によると、この男は二年後において伊勢峰城にあって秀吉方と激戦し、「徳川家康の黒幕」といわれた「山岡道阿弥」に名のりをかえ、秀吉の死後、伏見城に家康が入ると、その守護に、伏見城後詰に取出し屋敷を構えて、鉄砲隊で固めたり、関ヶ原戦に於ては、長束正家を破ったり、ついで尾張蟹江の城を攻略し、懸命に家康に奉公するのである。
 それは後年の事であるが、この山岡景隆・景友らの兄弟はなぜか、この時つまり本能寺の変の二年後には、事実不明の柴田方加担の罪のもとに秀吉の為に城地を追われてしまい、やむなく家康を頼って行ったと、<武家事記><寛政譜>には残っている。
 さて、こういう事は、とりもなおさず六月二日の午後三時から四時までの間に、急いで「安土への通行を止めるように」瀬田の大橋を焼き払ってしまったという事は、これは秀吉又は家康から前もって予告され、密令が下っていたのではあるまいか、と不審に想える。どう考えても、このやり口は山岡兄弟の肚ではない。
 もし光秀が当日安土へ入っていたら、信長の生死不明の儘にしろ、重臣の一人として、なんらかの善後策をとっていたであろう。そうなれば天下は動揺する事なく、当時、伊勢にいた織田信雄か、住吉の大物浦で出航するため大坂城にいた織田信孝かの、どちらかに跡目は落着くに決まっている。だからこそ、それでは困る人間が、安土へ光秀を入れないようにと、橋を落させてしまったのではあるまいか。勿論これは想像であるが、架橋するために砦まで構えたということは、琵琶湖の対岸から山岡勢に弓鉄砲を撃ちかけられ、修理を妨害されていた事になる。もし、それ程までに山岡一族が安土城に忠義ならば、光秀が引揚げた後、すぐにも彼らは安土城へ駆けつけるべきである。なのに、全然行ってはない。これでは信長のために、瀬田の大橋を焼いたことにはならない。自分らの私益の為である。
<兼見卿記>の記述と事実はここに於いて相違している。
 つまり何者かが、光秀を陥入れるためか、彼を安土へ行かせず孤立させる事によって、すべてを彼に転嫁させようとする謀みではなかろうかという疑惑が、色を濃くしてくる。
---引用ここまで---
山岡景隆は信長には恨みがあり、でも光秀には恩があるという関係のようですね。後年秀吉から疎まれたところから、秘密を知るものとして狙われたようにも思え、またその後家康を頼っているところから、家康の密命を受けて動いたようにも見え、なんとも怪しい人間です。
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
【Font & Icon】
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

kaneya

Author:kaneya
もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。
真似してもいいけど、その場合は自己責任でお願いします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
趣味・実用
3776位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
827位
アクセスランキングを見る>>
カウンター
2014年5月19日カウント開始