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『信長殺し、光秀ではない』 9


光秀のアリバイについては、前回触れることができました。なので、光秀にはアリバイがある、という大きな章は終了してもいいんですが、この章自体は始まったばかりです。



光秀にはアリバイがある・火薬(67~71ページ)

---引用ここから---
 光秀が、丹波亀山の本城から出てきたものなら、そちらへ戻るべきである。
 ところが、光秀は本城へは行かずに坂本へ向かっている。
 と言うことは、その伴ってきた武者共が、丹波亀山衆ではなく、別個の近江坂本衆であったということになる。いくら取り違えても、丹波から出てきた連中を、間違えて近江へ連れ戻るような気遣いはない。
 つまり光秀がこの六月二日に上洛してきたときに、同行してきた(推定三千)ぐらいの連中が坂本城の者となると、これは、取りも直さず光秀が、坂本から上洛した、という例証になるだろう。亀山ではないのである。
 すると、光秀が京へ姿を見せるより早く、夜明け前から丹波方面より上洛していた連中は、それでは、どこの部隊かということになる。幻の軍団である。
 まず二つに分けて想定できる、なんといっても、その第一は織田信長の軍団編成のもとに、近畿管区軍となっていた各師団である。これは、

寄親(よりおや)
明智光秀     1丹後衆  細川藤孝、伜 忠興
           2大和衆  筒井順慶
           3摂津衆  高山(高槻)重友 中山(茨木)秀清
           4兵庫衆  池田(伊丹)恒興 伜 元助

 ところが、この連中はその十日後の十三日の山崎合戦では、秀吉側となって戦っているか、さもなくば細川みたいに中立している。だから、これまでの歴史は、彼等は上洛しなかったことにしている。合計の兵力がちょうど一万二千から一万五千であって、謎の上洛軍と員数は合うのだが、どうであろうか。尚、有名な話だが、呂宋へ後に流される高山重友は「ジュスト右近」といわれて、こちこちの信者だし、他の者も、
<1507・9・19臼杵発ルイス・フロイス書簡>によれば、池田恒興も、入斎という名の他に「シメアン」の洗礼名をもち、その娘は、岡山城主ジョアン・結城に嫁し、みな神の御為には何事もいとわなかった信者だそうである。中川瀬兵衛清秀にも「ジュニアン」の洗礼名がある。
 だから、(一部略)
本能寺から一町もない四条坊門の三階建の教会堂へ登って、その上から、(一部略)
 ドカーンと爆発させてしまって、本能寺を葬り去ったのかもしれない。永遠の神の恩寵を得るためには、現世の信長を吹き飛ばしたところで、別に高山や池田、中川といった切支丹大名は、良心の呵責に苦しむような事はなかったであろう。もし、そうしたことを<罪>の意識で感ずるぐらいなら、その二年後、現実的に彼らは秀吉の部下となって故信長の伜と戦いなどできない筈である。
---引用ここまで---
ここでは、本能寺を包囲していた謎の軍隊について、信長に配属されたキリシタン大名たちであるという仮説が述べられている。
宣教師たちの日本侵略の可能性は以前紹介したところで八切止夫氏が書いていました。ですから、宣教師たちから密命が行き、事件を起こした可能性がありはしないかと妄想してしまう。

ついで、ポルトガル人はヨーロッパやインドの払下げの火薬をマカオで詰め替え、日本に売っていた形跡があると、矢切氏は述べている。
---引用ここから---
 これは、政庁図書館(ビブリオテーカ)所蔵の<日本史料(ジャバーウン)>の中に、木樽の発注書や受取りが混っているのでも判る。まさか日本へ樽の製作を注文する筈はないから、当地の中国人細工物師に、西洋風の樽を作らせたものだろうし、それが日本関係の古い書付束に入っているのは、日本向け容器として、新しく詰め替えされたものと想える。
 古文書の<岩淵文書>の火薬発注書にもあるように、当時の輸入火薬は、湿気をおびて発火しないような不良品も尠(すくな)くなく、一々、「よき品」と但し書きをつけなくては、注文できぬような状態だ、そこで良質の火薬ほしさに、切支丹に帰依した大名も多かったのである。
---引用ここまで---
戦国時代にキリシタン大名が増えた理由は火薬欲しさだったのかと妙に納得してしまいました。

---引用ここから---
 だから信長としては、鉄砲をいくら国内で増産しても、火薬がなくては始末につかないから、てっきりマカオが、硝石の原産地だとばかり、間違えて思いこんでいたと考えられる節もある。
<津田宗及文書>の天正二年五月の項に、当時岐阜城主であった信長に招かれて行ったところ、非常にもてなしを受け、宗及ら堺の商人が当時マカオからの火薬輸入を一手にしていたのに目をつけた信長は、彼らの始めだした「わびの茶」を自分もやっていると茶席をもうけてくれた。
 それまでの「ばさら茶」では唐金だった茶器を、宗及らの一派が「竹の茶筅」に変えたのに目をつけた信長は、この時初めて「茶筅まげ」とよぶ、もとどりを立てた髷に結って、その席に姿をみせ、おまけに給仕役に召した次男の信雄を、この時から「茶筅丸」とよばしたことは、私の<利休殺しの雨がふる>に詳しく書いてある。
---引用ここまで---
作品社のシリーズでは、<利休殺しの雨がふる>は、全12巻のうち8巻目です。
信長は南蛮寺を領内に認めたことは記録にあるようですが、自分自身はキリシタンにはなりませんでした。何が気に入らなかったのか私はわかりませんが、そのかわりに茶道を通して商人とつながり、火薬を手に入れたということなんでしょうね。

---引用ここから---
 そして、その硝石。当時の言葉で云えば「煙硝」の原産地を、仲継地とは知らず信長はマカオと思っていた。
 ふつうならば国内を平定してから、国外へ勢力を伸ばすのが普通であるが、天正十年の情勢では、九州へ輸入される硝石によって、西国の毛利や、豊前の大友、秋月、竜造寺、薩摩の島津が武装を固め、信長に敵対をしていた。こうなると抜本塞源の策は、硝石の原産地がマカオであるなら、そこを先に奪取して、西国、九州への火薬輸入を喰い止めるしか、この場合、完全なうつ手はない。

 信長が天正八年あたりから、ポルトガル風の長いマントを羽織ったり、ラシャの大きな南蛮帽をかぶりだしたのを、今日では、「珍しい物好き」とか「お洒落」といった観察で片づけているが、あれは外征用の準備ではなかろうか。十九世紀の明治初年でも、外国旅行をするとなると、横浜関内の唐物屋へ行って、洋服を注文して仕立てさせ、それをきこんで出かけたものだが、信長の場合にも、これは当てはめて考えるべきであろう。
---引用ここまで---
最後の部分は、次の予告的な文でしょうね。
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