もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 10


大館アメッコ市の日は、荒れることが多いんだけど、今日は1日中降雪のようです。おとなしく家の中にいることにしよう。雪かきも必要だけど。



光秀にはアリバイがある・巨艦(71~77ページ)

最初にキリスト教徒の信長評が書かれています。
---引用ここから---
 さかのぼって1571年の9月30日。
 日本暦の九月十二日に信長が延暦寺の焼討ちをした時には、<フロイス書簡>は、
「このような余分なものを一切滅却したもうたデウスは、賛美されるべきかな」
と、天主教布教の障害であった仏教の弾圧にのりだした信長を、神の名によって、マ
カオからきた宣教師は褒めた。
---引用ここまで---
初期には、敵(仏徒)の敵(信長)は味方という面がありそうです。同年12月にフロイスを引き連れたカブラル布教長は、商人に案内されて岐阜城を訪れている。
---引用ここから---
 火薬がほしい信長は、彼らの機嫌とりに、庭で放ち飼いにしておいた珍しい丹頂鶴でコンソメスープをつくらせ、当時は貴重品だった美濃紙八十連をプレゼントに贈っている。
---引用ここまで---
まだ茶道に目をつける前のためか、信長はキリシタンをとても大事にしているようです。

---引用ここから---
 1573年4月30日。
 日本暦の天正元年三月二十九日に僅か十二騎の小姓だけを引き連れた信長は、突如として岐阜から上京し、洛北知恩院へ入った。
 やがて軍令を四方に出してから、白河、祇園、六波羅、鳥羽へ翌日には一万余の兵が終結した。
<フロイス書簡>によると、彼は信者の一人であるリュウサ(小西行長の父)を使者にたて、その陣中へ、黄金の南蛮楯と、数日後には瓶詰のキャンデー(金米糖)を贈り、
「仏教徒を庇う足利義昭に勝つよう」にと、それに神の祝福を授けた旨が記録されている。

 さて、本能寺へ、信長が小姓三十騎連れてきたのが疑問視されているが、当時マカオから来ているポルトガル人は、
「信長は、いつも小人数で出動し、そこから、すぐ兵を集めて編成し、自分から引率して行動を開始する習慣がある」のを知悉していた。つまり、
 日本側の史料では「信長は本能寺にあって、光秀らに中国攻めを命じた。だから備中へ向かって進撃すべきなのに、大江山の老の坂から、途中で変心して、『敵は本能寺にあり』と、右折禁止を無視して出洛した」のが、明智光秀の謀叛をした確定的な証拠であるとして主張するが、向こうの資料とはこういう点がはっきり喰い違う。
 つまり京都管区長のオルガチーノにしろ、フロイスにしろ、彼等は「五月二十九日に、安土城から三十騎を伴ってきた信長は、翌六月一日は雨降りだったが、二日には、また黒山のような軍勢を、ここに終結し、自分から引率してゆくもの」と従来の慣習通りにみていたようである。
 ----ということは、日本側の史料では、
「六月二日の早暁に、丹波の軍勢一万三千が入洛、本能寺に近よったことは、これは予想外の出来事、異変」と解釈しているのに、
「本能寺の門前に早朝から集ってきたのは、従来通りの軍団の命令受領」と、彼らは、そういう取り方をしているようである。
---引用ここまで---
キリシタン側の資料からは、本能寺に近習のみで宿泊していたことが、普通のこととして捉えられています。

---引用ここから---
そして、従来の日本歴史では、(一部略)、英雄主義を謳歌するあまり、天文十二年の鉄砲伝来は認めているが、その弾丸
をとばせる火薬を無視しきって、「銃器弾薬」と併称されるものなのに、片一方をなおざりにしているのは前述したが、持ってくる方の、ポルトガル人の目からすれば、
「自分らがマカオから輸出している硝石によって、この日本列島の戦国時代は烈しくなり、供給している火薬の良不良で勝敗が決まっている」と、明瞭だったことだろう。
 なにしろ足利十五代将軍義昭にしろ、「仏教側だから火薬を売るな」とフロイスたち宣教師に指図されると、堺のエージェントは販売を禁止。鉄砲があっても火薬がなくては戦えないから、さすが強気な義昭将軍も、
<和簡礼経>によると、四月二十七日付で、信長の申し出の通りに泪をのんで無条件降伏をしてしまう。
 こういう具合であるから、天主教では、「信長をして、今日あらしめたものは、我らの火薬供給である」という信念を抱いていたことは疑いない。
 また、信長も、事実その通りだから、天主教を守護し、安土に神学校まで建てさせている。
 のち秀吉や家康が切支丹を弾圧したり鎖国をするのも、彼らが仏教徒だったから、嫌ったということより、本質的な問題は、やはり、この輸入硝石である。他の大名の手へ宣教師を通じて入っては困るからと、治安上とった自衛手段である。秀吉は備前備中から、徳川家は長崎から、自分らだけが独占的に硝石を輸入することによって、その平和を守ったのである。
---引用ここまで---
信長とキリシタンの蜜月時代ですね。でも、いずれ、信長はキリシタンからではなく、堺の商人から硝石を手に入れるようになります。そうするとキリスト教徒から見ると信長は同じ評価となるはずがない。

---引用ここから---
 信長がマカオを狙って、輸入に頼らず硝石を押さえたがっているのは、その部下の信者の大名たちの密告で、すでに宣教師は知っていた。
<オルガチーノ書簡1578年。月不明>に、
「昨日、日本の重要な祭日の日に、信長の艦隊七隻が堺へついた。私は急いで、その巨艦の群れと大なる備砲を調べに行った」
 と出ているくらい神経質になって、彼らは用心していたのに、本能寺の変の1ヶ月前に、従来の友好的な態度を、信長は自分から破棄しだした。これは後で詳しく書くが、「マカオ神学校」から赴任してくる宣教師たちが、「天にまします吾らの神」と教えをひろめているのに、信長は従来は安土城の五層で祀らせていた白目(しらめ)石の自分だという神像を、五月一日総見寺(当時は寺とはいってない、社であろうか)をたて、ここで一般公開し、
「われこそ、まことの神なり」と宣言した。
 参拝人が黒山のごとく集まり、何列もの長蛇の列をなしたと伝わっている。
「天に、二つの神なく、地に、二つの神なし」という教義に対し、これは挑戦以外の何物でもない。
 マカオからきている宣教師にしてみれば、こうした信長の行為は、神を冒涜するものであると同時に、これは背信行為として、その目にうつったであろう。
 そして、「吾々に楯をついて、火薬をどうして入手するつもりなのか」
 畏れ疑っていた矢先、五月二十九日。信長は三十騎の小姓をひきいて本能寺へ現れた、
 そしてその日の午後、
 大坂の住吉の浦の沖合いに、オルガチーノがかねて警戒していた七隻の巨艦と、夥しい軍用船が集結された。
 司令官として、敏腕家にして勇猛とよばれている信長の三男織田三七信孝。副司令官は丹羽長秀で、司令部は大坂城に設けられ、本能寺の信長と絶えず伝令がゆききしている。非常事態である。
「出帆は六月二日」
 と明白になってきた。日本側史料では「四国征伐のため」となっている。だが、彼らは、「マカオへ出帆?」と勘ぐったのではあるまいか。
---引用ここまで---
前に出した副島氏の本では、白目石の神像とは、大理石の、キリスト教以前のローマの神だと書いています。ただ、日本側の小説なんかでは、そうではなく、普通の石を自分だと拝めと言ったと書かれているものが多い感じがします。総見寺のwikiをみても現代に白目石は残っていないようですね。文化財の中にありません。単なる石だったのか像だったのか気になりますね。

ルイス・フロイスの日本史(矢切氏は日本歴史と表記しているがおそらく日本史でいいと思います。)に、
---引用ここから---
 だが、原本がマカオにあったから十八世紀まで所在不明で、その後モンタニヤ、アルバルズの両修道士によって、イエズス派マカオ日本管区文庫で発見されて、ポルトガル本国へ写本として送られた。これがアジュダ図書館に保管され伝えらたが、なぜか、
織田東洋艦隊が建造された天正七年から、本能寺の変、および、その後の天正十六年までの間の分は、どうしたことか、欠本にされていた。おそらくなにかと都合が悪いからであろう。
 フランシスコ派の宣教師シリングが1931年3月に、その前半をトウルーズで、翌年リスボアにて、後半を見つけ、ここに、昭和の満州事変の頃になって、
<フロイス日本史>は神の恩寵により定本になったというが、肝心な原本は、マカオで焼かれてしまっている。
 二百年もたって同一人のシリングが相ついで欠本を見つけられるなんて信じ難い話だから、その間のものは何処までが真実か判らない。それが何より証拠には、織田艦隊のことは少し出ているが、肝心な「信長殺し」は完全に抜けてとばされている。そんな「日本史」なんてあるものではない、と私には思える。
---引用ここまで---
本能寺の変がフロイス日本史で欠本だったことは、キリスト教関係者が変に何らかの関与をしていることを疑わせます。
そして、
---引用ここから---
 さて「何か知って居られては都合の悪いことを、知って居る者」は、民主主義の本場でも、次々と死んでしまうものだと、テキサス州のダラス市民について(ケネディ暗殺のことですね。)、アメリカのニューヨーク・ポスト紙は書いているけれど、天正年間の日本に於ても、やはり同じ事であった。
 ジュスト高山右近は、二度と戻ってこないように、フィリッピンへ追放されている。また、シメアン・池田父子は、本能寺の変から一年十ヶ月目に、何の御手柄か、一躍、岐阜城主、大垣城主と栄転させて貰えたのに、長久手合戦で「討死」という形式で共に抹消。
 ジュニアン・中川は、もっと早く、本能寺の変後、十ヶ月で大岩山で消されている。残った者は誰もいない。
---引用ここまで---
このところも、何かキリスト教関係者が怪しいと感じさせてしまいます。
しかし、本能寺の変のことを解説している本の殆どが、本能寺の変の前に、キリスト教関係者だけでなく、天皇家や公家や、義昭や、焼き討ちされた仏教徒など、ほぼ周りが敵だらけだったことが書かれているような気がします。容疑者は結構多いのです。

---引用ここから---
 だが、俗説では、
「六月二日に上洛したのは、丹波亀山衆一万三千」と、どの本にも出ている。これが第二の答えで、定説である。もちろん光秀も、丹波亀山から彼等を率いてきたと、(途中で六時間ぐらい光秀がいなくなってしまって、辻褄が合わないが)そういうことになっている。
 しかし、もし亀山から丹波衆を率いて、光秀が上洛したものなら、そちらへ戻るべきなのに、同日午後四時、瀬田から右折せずに光秀は坂本へ左折している点は、先に指摘した。だが、こんな明白な事実さえも、誰からも今日まで問題にもされていない。
 そして、もっと奇怪なことは、その次の日も、次の日も、光秀は死ぬまで一度も、丹波亀山へ戻っていない。
(もし一万三千の亀山衆というものが、光秀の命令で動いたものなら、亀山は光秀の本城でもあるし、何故それを掌握せずに放りっぱなしにして、三千の兵力しかない坂本城を、その後の根拠地にしたのか、さっぱり判らない)だが、何人も疑いを抱かない。変に想わない。
 もちろん直属であるべき丹波亀山のこの兵力が、信長殺しのあと光秀から離れてしまったために、六月十二日、十三日の山崎円明寺川の決戦において、光秀軍は旧室町幕府の奉公衆まで加えても一万に満たぬ寡兵となってしまい、三万に近い秀吉軍に対し
て破れ去ってしまうのである。
 そうでなくて、もし、この六月二日の上洛軍の一万三千を光秀が掌握していたら、安土城守備にまわしていた秀満らの、坂本衆三千は別計算にしても、天王山の険を押さえる事も出来たし、これに前述した旧室町奉公衆の伊勢与三郎、諏訪飛騨守、御牧三左衛門ら約四千と、新たに味方に加わった近江衆三千をみれば、山崎合戦での光秀は、旧部下師団の中川、高山、池田、筒井、細川の全部に離反され孤立したにしても、なおかつ二万の直属部隊をもって、この決戦に臨めたわけである。
 なにしろ奇怪なのが、この丹波亀山の一万三千の正体である。これを誰が指揮し、誰が尻押ししたのかということも、やはり、
「信長殺しの謎をとく」大きな鍵なのではあるまいか。
---引用ここまで---

・・・・・・

結局雪よせもしないと後々大変。晴れ間を見て雪寄せしてから、この作業を行ったら、6時間以上この記事をアップするまでに描けていました。北国は雪寄せという大きなハンデを感じるな。
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