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『信長殺し、光秀ではない』 11



まだ序盤なので、謎をいろいろ指摘していますが、八切止夫氏なりのそれに対する考えは後回しです。
次は責められた信長方に対する謎です。



光秀にはアリバイがある・奇怪(77~83ページ)
---引用ここから---
 これまでの小説、映画、テレビのどれをみても、白りんずか白絹の寝間着をきたままで、かなわぬ迄も必死に敢闘精神を発揮し、やがて、傷つき、力つき、
「さらば、これ迄である」と、信長は一室に入って、心静かに切腹するような具合になっている。
 また、読む側も、見る側も、これに対して何等の疑点を抱くこともなく、いと素直に、そのままで受取ってしまい、「信長というのは強い男だった。だから、おめ、おめ座して敵の手に殺されるようなことはあるまい。かなわぬまでも弓をひき、槍をとって戦い、そして潔よい最後をとげたであろう」としか想わないようである。後で原文は引用するが、これは<信長公記>の巻末の(その十五)に、「信長公、本能寺にて御腹召され候のこと」というタイトルで、のっているものの、これみな焼き直しである。
---引用ここまで---
<信長公記>の作者、大田牛一についての説明が、次に一部書かれているが、そこはちょっと後で引用することにして、現在の作家の立場からの考察を先に引用します。

---引用ここから---
 そして、受取る側も、信長というイメージから、アッという間に吹っ飛んでしまったのでは面白くもない。また猛火に呑みこまれ、腹を切る暇もなく、あっけない最期をとげても、これまた、ものたらない。それではとても承知できなかったであろう。
 だから、いわゆる死花を咲かせて、
「白綸子の寝間着の儘でも、ヒュウ、ヒュウと弓をひかせて、矢つぎ早やに何人かの敵を仕止めさせ」そして、おまけとして「槍までふるって次々と敵を突きまくらせ」それから肘を負傷してしまったから「止むなく切腹」というように、納得しやすいように順々と話を追っていって、
「人事を尽く天命をまつ」といった段取りにしたのではないだろうか。
 もちろん、それが事実であっても、なくても、‥‥その方が真実らしく、受入れやすいから、迎合するために、そう書かれたものであろうし、また今日まで、如何にも、そうらしいと思われるから、誰も疑義を挟まず、その儘、<真実>に化転(けてん)して伝わってきたような気がする。なにしろ「そうである」ことより、「そうだったらしい」ほうが、どうも<真実>というものに、されてしまう可能性が、現実的には、極めて多いようである。
---引用ここまで---
何かの番組で信長の常識を疑うクイズ番組があり、本能寺の変で信長は槍を振り回したりしていないととある歴史学者が述べた所、ゲストの高橋英樹が、自分の出世作である信長はああいう最後であってほしいというようなことを述べていたような気がする。確かに寝ていたまま、焼き殺されたとなると、時代劇には合わないな。

中には、薙刀を振るう濃姫と一緒に槍を振るう信長が出ている小説もあるが、本能寺当時一番うたがれていたのは、後で詳しく書くが美濃御前こと綺蝶であるとも書かれています。これはこの本の最後の方に解説されていますので今はスルー。

---引用ここから---
 さて、これも後で詳しく説明するが、当時本能寺で包囲されていた信長の一行で、生きて脱出した者は一人もいない。なにしろ、まる三日間にわたって百にも及ばぬ黒焦げ焼死体を、血眼になって検屍しても、信長の遺体が判らず、大騒動したと<言経卿記>や<兼見卿記>にもあるくらいだから、瞬間的に全部がふっ飛ぶか、すごい高熱で白骨化されているのである。
 黒焦げや生焼け程度なら、仔細に検分すれば、鑑別もまだつく。腹を切ったり、小姓が介錯をしているのなら、どの遺体が信長かは、誰が見ても、これなら直ぐにも判った筈である。
 それに、もし、それが、ふつうの出火なら、周囲をかこんでいた一万三千が、すぐ消火に築土をかけのぼって入りこんでいたであろう。なにしろ全部焼けてしまっては、まるっきり元も子もないからである。それに、当時のことだから、消防自動車や消火栓はなかったろうが、一町四方の本能寺の周囲は、2米(メートル)幅の濠があって連日の降雨で溢れていて、防火用水には、こと欠かなかった筈である。
 それなのに火力が強く濠をこして四方の民家に類焼させている。と言って、この場合どう考えてみたところで、一万三千の寄手が、砦や城攻めではあるまいし、お寺にすぎない本能寺を持て余して、包囲後三時間半もたってから火攻めにして片付ける筈もない。今でいう「不審火」。どうしたって、これは寄手からすれば意外な火の筈である。だったら寄手は驚いて飛び込んで、水をかけたり、筵で叩き消しにかかっているとみるのが、それこそ常識というものであろう。
---引用ここから---
高橋英樹が出た例のクイズ番組では、本能寺に堀があったことから本能寺はたんなる寺ではなく砦だと言ってましたが、それはいいすぎだと感じる。堀は防御の役割もありますが、けっこう川ともつながっていて、物資運搬の役目もあったらしいです。本能寺の堀が川とつながっていたかはわかりませんが。また、当時は、宗教勢力も兵力を持っていますから、寺が堀をもっていても何も不思議はないと個人的には思います。

---引用ここから---
 筆者の大田牛一というのは、尾張の人間で、信長の祐筆で、今でいえば、秘書課勤務のような人間だった。そして、まさか彼が臆面もなく、厚かましく書いたものとも想えないが、その第十三の巻頭に、
「本記事に、一点の虚飾なきを誓い、除く箇所もなく、また書き添える部分もない」と、はっきり「不除有」「不添無」といった、ことわり書きさえつけられている。と、大正十一年刊の<尾張の勤王>には明示されている。
(人間の社会では、尤もらしい事をいう奴は、あらかた嘘つきで腹黒い人間だし、尤もらしい話こそ、それは、みな、デフォルメされた眉唾ものでしかない)
と、私なんかは、これまでの人間関係で蒙った被害体験からして、「巧言令色それ仁すくなきかな」とは想う。だが、ふつうの人は、疑うよりは信じる方が、きわめて楽だし、それに手軽だから、ついこれを、さも信頼できるもののような受取り方をしている。ひどい人になると「大田牛一も信長の家臣の端くれだから、本能寺へ伴して行っていて、その最期まで身辺近くにあって、立ちあって書いた、これは記録ルポである」と、その著書に説明しているのもある。びっくりさせられてしまう。
---引用ここまで---
( )内に書かれている、人間の社会では云々のところは、おそらく、儲かると聞いて始めた消火器販売で失敗したことなんかが関係していそうな記述だと感じる。

それから、本能寺から生きて脱出した人はいないから、太田牛一がルポすることも出来るはずはない。

---引用ここから---
 もともと大田牛一は織田の臣である。
だから、信長に伴していた小姓たちや、その馬の口取りの仲間の名ぐらいは知っていたであろう。そこで、その連中の名を組み合わせて、(かくもあろう、こうもあろう)とイマジネーションで書いたものが、「本能寺の情景画」であろう。後年、「講釈師、見てきたような嘘をつき」という川柳が江戸中期に現れるが、大田牛一は、つまり、その元祖のようなものだったらしい。
---引用ここまで---
---引用ここから---
 ついでに、大田牛一の素性も解明すると、これなども現在の<富山房の国史辞典>などでは、はっきりと、
「尾張春日井郡安食村に生まれ、通称又助。近江の代官を勤め、のち秀吉に仕え、天正十七年伏見の検地奉行。その功により、和泉守に任官。のち秀吉の側室松丸殿つきとなり、慶長十五年八月、八十四歳まで生存と<猪熊物語>の奥書にあり。<信長記>の他、著書多し」ということになっている。
 ところが、木曽川をこえた岐阜には「印食上人」でも知られている「印食」というのはあるが国史辞典に明記されている「安食」などという地名は、愛知県春日井郡はもとより、当時の尾張美濃の古書をみても有りはしない。つまり、これは「尾張万歳」の発祥地とされているところの、「尾張春日井郡味鋺(あじま)村」の間違いである。
 これは<山崎美成筆・民間時令>に、
「<無住道跡考>に曰く。正応五年(1292)頃より、万歳楽と号し、正月の初めに、寿(ことほ)ぎの謡をうなり、家々にて唱わしむ」
 と出ているような、関西の唱門師(しょうもじ)と同じような集団結成である。1738年の元文三年に、尾張藩の郡代役所へ提出されている、<尾張万歳由緒書上げ書>にも、
「あじま村のものは、往古より陰陽師を代々相いつとめ、村内に頭分となる家名十六人も、今もこれあり」とある村なのである。
 つまり大田牛一というのは、尾張万歳を神前に供える陰陽師の出身者である。ということは、信長の時代は、仏を信じる者と神信心の者が、かっきり二つに分かれていて、両者の間は、全く仇敵同志だったから、牛一のように神徒に属する者は、主取りをするのでも限定されていたという事である。
 そして、こうした地域は、別所とか、東海では院内(いんだい)といった名で呼ばれていた。
---引用ここまで---
八切止夫氏を批判する人は、ほとんど名の知られていない資料から導いているというところを批判するみたいです。
私にはここで出されている資料の優劣はわかりませんからなんとも言えないことを書いておきます。それにしても、大田牛一が尾張万歳を唱える陰陽師出身! にわかには信じられないな。

ただ、戦国時代は仏徒と神徒が別れていてお互いに争っていたという視点は、八切止夫氏の著作には結構よく出てきます。

信長は戦勝祈願で熱田神宮に参拝していますから、神徒です。信長の父は港を押さえていたのである程度財産はありますが、戦のときの兵力が少ない。そのために、妾を作り子を産ませ、その血縁で兵力を増やしていった人らしいです。そのため、信秀の家臣には仏徒も結構いて、信行付きの家臣は仏徒だったため、信行は仏式で葬儀をした。信長はそれに我慢がならず、抹香をぶちまけたのだ、というようなことを、『徳川家康は二人だった』という作品の中に書いています。宗教に絡んだ権力闘争を全面に押し出しているところも矢切氏の特徴だと思います。

別所とは、差別された人が集まった場所と説明されることがありますが、矢切氏はそれは神徒で、八のつく部族だと言っています。仏徒から見ると神徒のいる場所は汚れた場所になり、村八分の名称のもとになっているというのが八切説のようです。そう言えば、八切氏にも、八が含まれているな。自殺未遂者ですから、社会からいわれなき被害を受けたと本人は感じていたんでしょうか?
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