もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 13



前回の続きです。



光秀にはアリバイがある・彦左(89~94ページ)の後半

信長の最後は、信長公記の記述が他の資料(例えば<当代記>)に引用されてしまったため、ほぼすべておなじになってしまっている。
また、源内という贋作者のいた時代に書かれたため、信頼性もどうなのかわからない。だが信長の最後に関してはこれしか資料がないので、<信長公記>の問題の部分を引用した、というところまで載せました。

---引用ここから---
 それと、もう一つ。源内の贋造本として、江戸中期に、すでに書名を並べられてあるものと、この<信長公記>の文章や、用字法が相似している疑問である。「時代時代でそういうものは同一であっても不思議ではない」と説く人もあるが、そんな事を言ったら昭和期の文学などは、みな同一文体でなくてはならない。だが、それでは「文学全集」など出しようもない。「文体は、その人間そのものだ」と考えている私などには承服できない。
---引用ここまで---
ここを読んだとき、なぜか東日流外三郡誌が偽書であることを追求した本を思い出しました。とある古民家の天井裏から見つかったとされる古文書軍です。青森県を含む東北地方は古代においても中央に侵略された地域です。それが、古代において、輝かしい文明を持っていた証拠が出たということで、地元はおおいに沸き立ちました。でも、その古文書は、けっこう長い年代にわたる大量の古文書であったのに、同じ文字、同じ誤字が散見されるということで一部の学者からは偽書ではないかと疑念が持たれていたそうです。流石にこんなにわかりやすいことではなかったと思いますが、文体というのももしかすると追求手段になるのかもしれません。

---引用ここから---
 さて、である。この<信長公記>の引用した一章。
 まず最初に、第一行から七行目までを、
※書物とブログでは1行の長さが違うので、ここに再引用することにする。

 六月朔日、夜にいり、老の山(大江山)へ登り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国への道なり。左へ下れば京へ出ずる道なり。…(A)
 ここを左へ下り、桂川をうちこえ、ようやく夜も明け方に、まかりなり候。…(B)
 すでに信長公御座所の本能寺を取り巻きの勢衆、五方より乱れ入るなり。…(C)

くり返して読んでみると、ここに何んとも判読しにくいところがある。この為に原文は改行していないのを、わざと三つにわけたのであるが、これを順を追うてA、B、Cにしてみると、こういう内容らしい。
(Aの行)は、六月一日の夜という時日の設定と、大江山の老の坂からのコースの説明である。今日のガイド・ブックと同じらしい。
(Bの行)は、原文をパターンすると、
「ここを左へ下り、桂川をうちこえ、ようやく夜も明け方に、まかりなり候」とあって、この桂川をわたるコースはわかるが、夜も明け方という午前四時に<夜>自体が、まかりなったのか、誰かが、歩いてきて、まかりなったのか、ここのところが判らない。主格が欠けているためである。といって、夜明けがまかりなって、朝に近づいたというきりでは判らないから、それを誰か判らないが、まずXと擬人化して仮定すれば、(A+B)は、
「X氏らは六月一日の夜になってから、老いの山へ登って、摂津へのコースをとらず、左へおりる京都コースをとった。桂川を渡ったら、夜も明け方近くなってきた」というのだ。
 ところが、
(Cの行)になると、AやBの平板な記述とは、全く相違して、俄然、
「すでに」という過去形を頭にのせて、
「信長公御座所の本能寺を取り巻きの衆」が、
その本能寺へ五ヶ所から「乱れ入るなり」という行動の描写に、支配されているのである。
 しかも、
「乱れ入ったり」なら主観であるが、
「乱れ入るなり」では客観である。
 こうなると(A+B)までにおいては、主格であったX氏らは(C)の行に入ると、単なる傍観者でしか、ならなくなる。
「‥‥桂川を越えて京へ入ったら(そこには兵が充満していて)既に(もはや)本能寺は包囲されていた」
 ということになり、そして、その後が、「その本能寺を取り巻いていた衆が、X氏らが到着した時には、すでに五方より『ワアッとばかり』乱入していたあとだった」
 これがCである。つまり(AとB)には、X氏らが主格であったものが、(C)になると、(既に取巻いていて本能寺へ乱入した衆)とよぶY集団が主格として、ここに登場してくる。つまり両者は全く別個のようである。
---引用ここまで---
前のところで、光秀は9時ころになってから本能寺にたどり着いたということが説明されていましたから、別個の集団Yが早いうちから取り囲んでいたと考えるとこの文章が理解しやすいのかなと思います。

---引用ここから---
 それなのに、この肝心な事を<信長公記>では、信長をして「Who are it」
(誰なのか)と言わせて居るだけなのだ。
 彼自身の口からは、何も背定も確認もさせていない。それに対して、また森乱丸も、これも漠然と、<原本信長記>の方では「(明智が手の者)と見受けられる」
 としか記述されていないのである。
 この「--の手の者」というのは、後年の江戸期になっても「何々御差配の手の者」と言えば、その指揮下にあるという意味だけであって、直属ではないことになっている。だから、奉行役所人でない民間の岡っ引きなどは、正式の給与形態をもって奉公している訳ではないから、これを「お手先き」といったものである。つまり、その同心の下僕や小者とは違って、家事の手伝いや庭掃除などはしない。ただ役目の上での繋りだけだ、と断っているのである。
 だから、
(明智が者)(※<信長公記>の表現)といえば、これは明智日向守光秀を寄騎親として、その指揮下に入っていた寄騎衆のことであって、これは、その直属をさすとは限らないようである。
 つまり、信長の軍団編成制にあっては、これは安土城の最高統帥部から「明智が手につけ」と命ぜられていた。丹後宮津の細川藤孝や大和郡山の筒井順慶、摂津の高山重友、中川瀬兵衛らである。
 地域ブロックの単位編成だった信長の兵制は、その天正九年二月二十八日や翌十年の京都での馬揃えの観兵式でもわかるように、これは判然としていたものである。
 いわば、これは近世の「方面指令軍」の制度である。だから、乱丸が、
「明智が‥‥」と個人名を言わずに、現今のように、
「あッ、関東軍」とか「近畿管区司令軍」と報告していたら、すっかり感じは変ってくる。
 しかし、そうなれば、<信長公記>の後に続く、
(「‥‥是非に及ばず」との上意に候)という、まことに簡単な場景描写では納まらなくなる。
 なにしろ、ふつうの場合でも、
「何々と見え申します」といえば、
「そうか、間違いないか」ぐらいなことは言うものである。まして乱丸の報告では、
「明智が者」(※<信長公記>)または「明智が手の者」(※<原本信長記>)といって居るだけである。けっして<信長公記>でも、
「‥‥明智光秀の謀叛」などと、そのものずばりなことは言っていないのである。
 また信長自身も、聞き返してもいない。
 明智の家来にしろ、その寄騎の者にしろ、そこに指揮系統を明白にするための光秀自身の出馬か、代理を現わす馬印が出ないことには、これは明智光秀の行為とは認められないからである。
---引用ここまで---
そして、家来や寄騎が企てた事に対し、その主人や寄親は、都合が良い時には自分の手柄にし、都合が悪い時には家来や寄騎のせいにしたことが、秀吉の例を出して説明している。でも、このブログではその例は略。

次は、夜明けに光秀軍と判断できたかです。
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