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『信長殺し、光秀ではない』 14





光秀にはアリバイがある・旗印(94~101ページ)

今日まで<真実>とされている「明智と見受けた」という仮定に立って考察しています。

---引用ここから---
 さて、当時の慣習では、主人が存在することを示すためには「馬印」を立てる、そして相手方に対してその責任の有無をはっきりさせる筈であり、これが定法である。そこで<明暦版の「御馬印武艦」>によると、
「あけち、ひうかのかみ」は「白紙たて一枚に切目を入れた旗もの」とある。
 これが<總見公武艦>にいうところの、
「白紙のしでしない」である。
 これは神棚にあげる神酒の壷にさす、鳥の羽の片側のような物、つまり白紙の左耳を袋状にして竿に通し、右側に切れ目をずうっと入れ、風にはためくようにしたもので、風圧をうけるから貼り合わせなしの一枚ものである。当時の寸法として計れるのは、
<美濃紙縁起・日本紙業史>によれば、
 手すきの枠が30センチから70センチ幅が最高だったというから、美濃全紙を用いたにせよ、およその形体は想像できる。もちろん、このサイズは、眼の前に拡げた大きさであるから、本能寺のように周囲が1.2キロ平方であれば、信長のいた客殿を中央とみても、これに築土外の堀割1メートル80を加え、やはり600メートルの距離ともなるから、これは、「遠見物体に対する被写距離計数の算出法」という旧日本陸軍の「砲術操典」の測定法に従って計算すると、縦1メートルの物でも600メートルの間隔で割り出すと3センチ弱にしか視えないとある。
 ところが、である。
 これは視界が良好な、晴天の太陽光線による肉眼識別のものであって、
(「ようやく夜も明け方にまかりなり」で、京都へ入ったところ、「すでに信長公御座所本能寺を囲み居る」)といったような、午前三時から四時と推定される刻限において、はたして肉眼で、その3センチ弱が、視えるだろうか。
---引用ここまで---
『白紙のしでしない』が紹介されているブログでは、高さが70cm以上ありそうに思えます。棒に袋の部分を貼り合わせてしまえば、何枚かの紙を使うことで作れそうな気もします。ただ、風がなければ棒の太さくらいにしか見えないでしょうから、やっぱり見づらいのかなとも思います。

ちなみに、『しで』と言うのは、しめ縄や横綱の化粧廻しにぶら下がっている紙のことです。

---引用ここから---
<高橋賢一の「旗指物」>によると、
「水色に桔梗の紋をつけたる九本旗。四手しなえの馬印。つまり旗の方は『水色桔梗』といって、紋自体が青い水色をもち、むろん旗の地色も水色だった。これは『明智系図』といって、光秀の子で仏門へ入った玄琳が、父の五十回忌に編したものに出ているので間違いない」とある。純白の馬印さえ見えない時刻に、水色の桔梗の旗が見える筈も、これまた考えられない。
---引用ここまで---
水色桔梗の旗は、戦国ファンのために製作・販売しているサイトがありますから、ネットで検索すれば見ることが出来ると思います。

ただ、再掲しますが、『白紙のしでしない』が紹介されているブログでは、桔梗紋に関する旗印を使用したことを示す証拠がないそうです。こちらは考えなくてもいいのではないかと思います。

玄琳は、光秀の実子(男子)は二名しかいないのに、実子だけでも男子が六人もいる「明智系図」を提出し、自分は光秀の伜だと述べた人です。ですから、八切氏は、「明智系図」や<明智軍記>は資料にならないと述べています。

ちなみに、光秀の家老斎藤内蔵助の娘お福が春日局となって権勢を振るっていた寛永期の約30年後の明暦二年、玄琳の俗世のときの伜が、やはり妙心寺で得度し、蜜宗和尚となる。そして、自分は光秀の孫として「明智風呂」(当時の風呂は蒸し風呂。だから風という字が使われている。)を妙心寺の本堂参拝道の脇に建てているそうです。
このことから、八切氏は、当時は、光秀は謀反人ではないと考えられていたのではないかとも述べている。

次に乱丸が「明智が手のもの」と注進した理由を考えています。
---引用ここから---
つまり、これは識別したというのではなく、当時の常識によって、もし答えたものなら勘だろう。
 なにしろ‥‥
 当時、関東派遣軍滝川方面軍は上州厩橋。
 北陸方面軍の柴田勝家は富山魚津で攻戦中。
 中国方面軍の羽柴隊は備中高松で功囲中。
 四国派遣軍の丹羽隊は住吉浦から出発。
 指を追って算えていけば、どうしたって、兵力を集結して、まだ進発していないのは、中国応援軍の明智隊しか残っていないことになる。
 だから引き算をして、そこで差引きして残ったのを、「明智が手の者と見受けられ候」と答えた。
 という<原本信長記>の一章ができ上るのである。
 そして、この言葉の用法は、今でも、
「--さんと見受けますが、違いますか」
 といった具合に、必ず後にダブドがつき、?の疑問符をつけてこれは使用される。
 だから、<信長公記>の方でも、
「明智が者を見受けられ候も、しかと分別仕つれず」というニュアンスを残している。
 つまり「如何でございましょう」という疑問なのだから、これに対して信長自身も、
「そうか。そうであったか」
 などと肯定もしていなければ、
「まさか」と否定も、していない。
 ここの一節が(信長殺しは光秀か)どうかという分岐点になる微妙なところである。
 しかし、講談や、それに類した娯楽読物では、「花は紅、柳は緑」といった発想で、(信長殺害犯人は光秀)という単純なきめつけ方で、判りやすくというか、読者に反撥をもたせないように媚びてしまって、ここを脚色し、「おのれ、光秀め、よくも大恩ある、この信長に対して」と、はったと戸外を睨みつけ「おのれ、無念残念、口惜しや‥‥」と作っている。だが現実は、そうはゆかない。
 いくら二十年考えたって、そんな事には、なりはしない。いくら首をひねっても、とても変なのである。
---引用ここまで---
歴史の評価はその時代の雰囲気で変わることもあるみたいです。

桶狭間の戦いが大きく取り上げられるようになったのは、日本陸軍において、寡兵で勝利を得る手がかりとして、過去の戦を研究する仮定において重要視されるようになったようです。それまでは、大きく取り上げることはなかったみたいです。
ちなみに、八切氏は、最初今川に降伏していたのに、悪天候で鉄砲が使えなくなったので後から奇襲をかけた、と見ているようです。その後も美濃平定に時間がかかってますから、たしかにこの時代の信長軍は弱かったということは確かだったのではないかとも感じます。

---引用ここから---
 つまり、寛永期という17世紀は、
「光秀は信長殺しではなく、故人の供養料として、遺族には慰藉料として、莫大な恩賞か、位階の褒美が頂ける‥‥」
と言ったような風評のあった時代だったらしい。
 だから、<信長公記>を、売本にするため、せっせと筆写する人間も迷ってしまって、是とも非とも書けぬままに、ここは徹底的にボカしてしまって逃げをうったのらしい。
 でなければ、
「明智が(手の)者と見受けられ候」に対し、「是非に及ばず。と信長が上意そうろう」というのでは、ぜんぜん文章が繋らないのである。
 なぜ、(是非に及ばず)なのかも判らない。ふつう私共が、この文句を使うのは、いよいよ万策つきはて、なんともならない最後のときのこれは終局語である。
 それなのに、この場合は、あべこべに冒頭に用いられている。
 だから、後年になると「明智と名をきいた途端に、是非に及ばずと、すぐ観念してしまうからには、信長には思いあたるものが有ったのだろう」と、揣摩(しま)臆測されて、後述するように、光秀遺恨説が四十近くも作られてしまう。
 しかし、本当のところは、「是非に及ばず」と信長が言ったことにしてあるのは、筆写者自身が、原作と世評の板挟みになってしまい、途方にくれて、自分自身が(ぜひに及ばず)と、こう書いたものと、私は考えている。また。それしか想いようもない。
---引用ここまで---
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