もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 16





森蘭丸は美少年か・利用(108~115ページ)後半

---引用ここから---
 なにしろ偶像化されてしまっている蘭丸を、まず裸に剥いてしまわないことには、本能寺の虚偽は破れもしない。というのは、絵巻の中では、信長よりも、なんと言っても彼の方が立て役者にされているからである。
 絵によっては、小姓組の敢闘だけが画面に横溢して、信長のごときは右隅の濛々たる白煙の中から顔だけをみせ、完全なバイ・プレイヤーになり下がっている。

 さて、この時点。森蘭丸の身分は、どの位かというと、これは<信長公記>によれば、「天正十年三月二十九日、御知行割りを、仰せ出され、次第」とあって、「甲斐国を河尻与兵衛へ下さる。駿河国を家康卿へ」といった箇条書きの末文に、
「岩村を団平八へ、今度粉骨につきて、下さる。金山、よなだ島を森乱へ下さる。是れは勝蔵も忝(かたじけな)き次第なり」とある。
 岩村とは、美濃国岩村城で、それまで河尻与兵衛の城で、これは八切武者シリーズの「ああ夫婦武者」の主人公の団平八が貰ったのである。
 さて森蘭丸という名は、美少年として扱われる時だけの専用の愛情ネームとしての創作の当て字らしく、史書では「森乱丸長貞(ながさだ)」である。
---引用ここまで---
乱丸と蘭丸の違いがようやく説明されました。ということは、森蘭丸と表記されている資料は価値が低そうといえるのかな?
「ああ夫婦武者」は、作品社の再刊行した中にはない気がします。
---引用ここから---
 天正十年の武田攻めの総司令官として、織田信長の嫡男の信忠が進発したとき、その先遣隊として団平八と共に戦陣をつとめた乱丸の兄の森勝蔵が、その手柄によって、武田勝頼の旧領の中から、信濃の高井、水内、更科、埴科の四郡を貰い、「森武蔵守長可(ながよし)」として、川中島の海津城主として赴任のあと、それまでの居城であった「美濃金山五万石」と、「琵琶湖弁天浦よなだ島の一島」を拝領し、少なくとも五万五千石から六万石ぐらいの殿様だったのが、乱丸のまことの実像である。兄は当時「鬼武蔵」と呼ばれ、容貌魁偉といわれている。彼は、その弟なのである。「何々丸」というと「牛若丸」の、やはり絵本的教養から、すぐ稚児や小姓を連想するが「大蛇丸(おろちまる)」といった四十男の泥棒だって存在していた。
さて、美濃の金山城というのは、故高柳光寿氏の<本能寺の変・山崎の戦>などでは「兼山城」の名称で現れてくるから、ちょっと気付かないが、ここは、
「刀工関の孫六」で名高い関から入って、源氏野、八幡に到るまでの地域で、鋳掛屋部落といったの地名も、今日現存しているように、ここは当時、東海地方唯一の金山で、鉄も産出していたのである。
 つまり、金山城というのは、これは普通の城ではなく、<毛利家記>にでてくるところの、
「石見銀山は、銀、金、鉄をも、あまた産し、本城常光が当家に帰参せしより、山吹城にて採掘一切を司り、その奉行職を励む」
 といった山吹城にも当る、鉱山監督所なのだ。
 だから単なる領地を貰っての城主ではない。
---引用ここまで---
森乱丸の兄が容貌魁偉なら、おそらく弟の乱丸も容貌魁偉だったのではないかと思えてきます。それに鉱山の監督者が優男のはずはなさそう。

---引用ここから---
 そして、もし伝承されるように森乱丸が、当時それ位(省略した前文より、十五・六歳)の年恰好のものであるなら、弟の力丸や坊丸は何歳だというのだろうか。上の乱丸が十五、六歳なら弟共は、それより年弱の筈である。後年赤穂浪士が本所松坂町の吉良邸へ討入りしたとき、十三歳の茶坊主が、手当たり次第に物を擲(な)げて抵抗し、もて余した浪士に斬殺されたという事件があったから、この本能寺においても、同じように考えられがちだが、吉良邸の茶坊主は、そこに住み込んでいたのだし、力丸や坊丸は安土から馬にのって、早駆けして来ているのだ、という違いが現実にある。
 と言って、まさか「はいしい、はいしい、歩めよ、子馬」と、力丸や坊丸は、小さいのに乗ってきたのではあるまい。といって十や十二、三の子供が、普通の馬にのったのでは下まで脚が届くまい。といって、竹馬とも考えられないから、では誰かに背負われ、おんぶでも、してきたのだろうか。
 しかし、<信長公記>や<森家実録>によれば「坊丸は長隆(ながたか)」「力丸は長氏(ながうじ)」と、すでに元服を済ませているらしく名のりを付けている。
 すると下の弟の力丸あたりでも十四、五歳という勘定になる。さて、この二年後の天正十二年の小牧長久手合戦で、どうも故意に、秀吉に棄て殺しにされたのではないかと思うが、森武蔵守長可が戦死し、末弟の生き残りの千丸が跡目を継ぐ。森忠政であ
る。
 これは六男に当たっていて、生れた時は西暦1571年と記録に残っている。長男の長可の方は、これは1558年生れである。だから次男の乱丸以下は、この間の出生ということになる。
 ところがである。彼ら兄弟の父の三左衛門が、近江宇佐山の志賀城で討死したのは<多聞院日記>では、元亀元年九月二十三日、つまり1570年の事となっている。
 すると、これは数学上の問題であるが、1570年から1558年を控除した12という数字を六人兄弟の6で割れば、2となる。
 これは最後が六男だから、十二年間における森三左の生産能力の平均値である。勿論オール男というわけもないから、この間に何人かの女の子も、やはり産れているだろう。すると年子も入っていることになる。そこで兄弟の間隔は1年又は2年となる。兄の勝蔵長可が、本能寺の変の当時二十八歳だから、
「森乱丸は二十七歳か二十六歳」となる。
 これなら五、六万石の鉱山奉行でも訝(おか)しくない。
---引用ここまで---
本能寺の変当時、森乱丸は青年というよりは、壮年、というか武将としての働き盛りといえそうです。
やっぱり信長の立場としても、いざという時の用心棒が出来るくらいの年齢の武将を身の回りに置きたいのではないかとも思える。
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
【Font & Icon】
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

kaneya

Author:kaneya
もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。
真似してもいいけど、その場合は自己責任でお願いします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
趣味・実用
3666位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
805位
アクセスランキングを見る>>
カウンター
2014年5月19日カウント開始