もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 17



もし、八切止夫氏が現在生きていたら、金正男暗殺事件について、どんなことを言っただろうと考えてしまうくらい、わけの分からない事件が起きています。
写真週刊誌を見ると、暗殺された人には入れ墨がないから影武者が殺されたのではないかと言う説が出ていましたが、たとえ影武者だとしても、あれだけ目撃者の多い中で暗殺したのだから、影武者が暗殺されたのなら、間髪入れずに本人から生きていることを、何処か安全な国でマスコミに流すはず。そうしないと社会的に抹殺されてしまいますから。
とりあえず、一番利益を得た国は何処だろうかと考えてしまう。金正恩もこの事件で数少ない友好国を失い、中国からも石炭を留められ、損ばかりです。案外、陰で糸を引いていたのは中国だったりして。不測の事態に答える用意はあると中国の要人が話したというニュースもあるみたいで、北朝鮮に攻め入るのではという観測もあるようです。



森蘭丸は美少年か・虚像(106~122ページ)
森乱丸が絵巻物などで、若い美少年に書かれてしまって、実際の年齢よりも若く書かれている理由について、こんなことを書いています。

明治から大正にかけての時代は、稚児ブームだったからと。つまりホモの時代だったと。

信長自身はホモであったという説があるようで、八切止夫氏も支持している感じがします。ただし、その原因は濃姫の嫉妬と書いていたような気がします。『徳川家康は二人だった』に、そんな感じのことが書かれています。

ということで、信長はホモだったから乱丸も稚児だったのではという考えも成り立ちそうですから、それに対する八切止夫氏の答えを引用しておきましょう。

---引用ここから---
 もちろん信長の側近の小姓でも、当時の言葉で「自愛のもの」とよばれる者も居るにはいた。<当代記>第二巻の谷河藤五郎のような者である。だが森兄弟は、森三左(容貌魁偉という記録があることを前回載せています。)の遺児である。なにも器量で召し抱えられゲイで身を助けていたのではない。
 そもそも小姓組、近習組というのは、信長が、諸国の軍団へ派遣する為に養成していた、織田幼年学校の生徒である。年長の者は、士官学校から陸軍大学までの個人教授を受けていたのである。
 というのも、電信電話のなかった時代だから、一々早馬をとばせて指揮を仰ぎに来ておられては、信長としては勝機を逸する恐れがある。そこで、(その場において、自分と同じような判断を下せるもの)をと、これを養成したのであって、つまりは幹部候補生である。
(中略)
 戦国時代の延長である天正十年頃は、美醜の観点が泰平期の徳川時代とは違う。なにしろ実用本意で通った頃である。
「猛々(たけだけ)しき好き顔にて」と、<武者物語>にもあるように、この時代の好男子とは、
「戦場へ出たら、敵がドキッと肝をつぶすような、威嚇的効果のある顔こそ」よしとされていたのである。だから堀久太郎のことも、「お化きゅう武者」として詳細に書いておいたが、当時は、「三つ目小僧」の異名があって、天正五年に大和信貴城に立て篭って、松永久秀、久通父子が、信長に叛いたとき、久太郎が先陣をつとめて、まっ先に城門に駆け向かったところ、松永勢の兵たちは、
「年こそ違え、今日と同じ日に吾らは奈良の大仏を焼き払った。だから降魔の利剣をふるって、こんな牛頭(ごず)天王のような化け物が、攻めよせたのであろう」
と、久太郎の異相に、びっくり仰天。
 みな城をすて退散してしまったから、やむなく松永久秀父子は割腹の余儀なきにいたったという話が伝わっている。
<多聞院日記>にも、こういう話がある。
「信長の小姓あがりの近習で矢部善七郎というのがきたから、おっかないから銭を出した。それで済んだものと思っていたら、また明智光秀が来るという。なにしろ八月二十二日に、矢部善七郎が奈良の法隆寺へきたというので奈良中は大騒ぎをしたものだが、自分は八月二十四日に銭百疋を贈って、よくしてくれるように頼んだばかりなのに、また違った者がくるとは、なんたる恐ろしいことであろうか。まるでエンマ大王がきたようなものだと、奈良の者は戦々兢々としている」
 と奈良興福寺内多聞院の住持の英俊が、その日記にかいて居るくらいだから、小姓出身の善七郎も、決して、見てくれのよい顔はしてなかったようだ。つまり森乱丸にしろ、当時の小姓は、決して美少年ではなく、それより豪傑型であったようだ。
 <当代記>によると「柴田勝家が敵に奪われた旗を、その小姓の水野次郎右衛門が奪い返し、勝家に手傷をおわせた相手を、難なく倒してしまった」と、元亀二年五月十日の条にある。
 私どもは「鬼柴田」とよんで「勝家は強い」という概念があるが、実際は、彼よりも遥かに勇猛な小姓が側にいたのだ。つまり乱丸兄弟だって容色より、腕力で奉公していたのであろう。今日でいうボディーガードである。
---引用ここまで---

次に、本能寺周辺の武家屋敷にいた武士は何をしていたかについて、書かれています。

---引用ここから---
 さて、
「湯浅甚介、小倉松寿の両人は、町の宿にてこの由を承りて、敵の中へ交じり入り、本能寺へ駆けこみて討死」
 と<信長公記>の小姓名の羅列の最後に、こういう記載がある。だが、いかに解釈すべきなのか。
「一万三千に包囲させられている所へ、どうして二名が潜って入って行けたか。これはデフォルメであって、小姓組の悲壮さや健気さを強調するための造り事である」
 と、きめつけてしまえば、これは簡単である。だが、「もし事実かもしれぬ」と認めれば、こんな訝しな話が有ってよいものだろうか。
 当時、安土には各邸地を賜って、諸大名の安土屋敷があった。しかし京にも各大名の留守屋敷は、あったのである。
 明智光秀の二条屋敷も、元亀元年の姉川合戦のあと、信長主従の重だった者を宿泊させているくらい宏壮なものであったと、
<毛利家文書>には、七月四日の条にある。
 つまり、秀吉時代の伏見城程には、各大名屋敷は、ぎっしり並んではいなかったろうが、それでも細川屋敷、筒井屋敷を初め、すくなくとも五十や六十はあった筈である。
 家がある。ということには、そこに人間がいたということを意味する。留守(るうず)とよばれた者達が、どの屋敷にも最低四、五十人はいた筈である。
 万一の際には、そこの屋敷に立て篭もって防戦し、あくまでも留って守るにたるだけの武者が、何処も待機していた。
 京の一条から九条までに散在していた大名屋敷を最低四十とみて、平均五十名の留守武者がいたとすれば、ここに二千名の精鋭部隊ができ上がる勘定ではなかろうか。
 そして、この時点。天正十年六月二日午前七時半に、本能寺が炎上する迄は、間違いなく「織田信長は天下びと」つまり国家主権者だったのである。そして、各大名屋敷の計二千の留守武者は、信長の家来の又家来、つまり陪臣ではあるが、やはり命令系統には入っていた筈である。何故、彼らは出動しなかったかのか。という疑問がどうしても湧いてくる。
 いくら当時の小姓は勇猛であったとしても、僅か二名の者が包囲中の本能寺へ入って行けたということは、なにも寄手へ斬りこんで、それで辛うじて境内へ駆けこめたと言うのではない。もし戦って侵入しようとしたものなら、本能寺の外で討死と見るべきだろう。
 そうではなくて、木戸口から中へ入れたのは、
「信長さまの小姓です」「そうですか。どうぞ」と、中へ入れたのだ。としか考えられない。
 そうなると包囲陣の態度も、従来の説明では通らなくなるが、何より不審なのは、本能寺へ駆けこもうとすれば楽に通行できたのに、このとき、一人も行かなかった大名屋敷の連中である。
(中略)
 このとき、二条の妙覚寺には、信長の嫡男で、かつて秋田城介の官位から三位中将に昇っていた二十六歳の織田信忠がいた。これには直属の寄騎である城持ち大名が約六十三人衆。
 旗本と後年は呼ばれる子飼いの武者や、小姓。そして、それらに従う陪臣がすくなくとも、初めの内は千はいた。
 だから、各大名屋敷の留守武者さえ行動をおこせば、信忠の手勢と共に、謎の上洛軍を一応は喰い止められるし、又そうすれば半日の距離である安土には、このとき、
<当代記>や<信長記>にあるごとく、
 本丸留守番は、津田十郎、加藤兵庫頭、野々村又右、遠山新九郎、世木弥左、市橋源八、櫛田忠兵衛。
 ニ丸御番衆は、蒲生賢秀、木村治郎左、雲林院出羽守、鳴海助右、祖父江五郎右、佐久間与六郎、箕浦次郎右、福田三河守、千福遠江守。
 といった陣容で、中国攻めの仕度をして、すぐにも出陣できる信長自身の旗本衆数万が揃っていたのだ。だから、これらが駆けつければ、本能寺は、ことなきを得た筈なのである。
 それなのに、彼らは動かずに、信長を見殺しにしてしまった。それも一糸みだれず何処からも打って出ず、まるで無人のごとく、ひっそり閑として、見送ってしまったのである。
 この時代は、まだ後年のように「忠義」というものは流行していなかった。大名は領地を、武者は銭を貰う恩賞しか、考えていなかった時代ではある。それにしても、これは、あまりにも極端すぎる。前もって、信長が死ぬ予報でも、出ていたのであろうか。
 そうでなければ恩賞目当てに、みんなで本能寺へ駆けつけ、信長公に尽くして、銭の一握りずつでも貰おうとした筈だろう。なにしろ儲かる機会だったのである。
---引用ここまで---
本能寺の火災は激しかったわけですから、駆けつける前に燃えちゃったんでしょうか?
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