もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 18





森蘭丸は美少年か・目的(122~129ページ)

続けて、<信長公記>に書かれている信長の行動がおかしいと八切氏は書いています。

---引用ここから---
 その巻の十五の<信長公御上洛のこと>原文によると、
「御小姓衆二、三十人召しつれられ、五月二十九日ご上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り候て、御いっそう次第、羆(まか)りたつべきの旨、御触れにて、今度は、お伴これなし。さる程に、不慮の題目しゅったい候て、」
 で終わっている。ここで引掛るのは、
「御いっそう」という語句である。さっと読んでしまうと、中国地方へ出陣するのだから、至急いっそう次第に出立するというので、意味がその儘のみこめるようでもあるし、判らなくもある。但し原文は「一左右(いっそう)」となっている。ということは、この時代も、まだ漢字の使用法は発音を当てはめて用いるのであって、今日のように熟語の定型はないのだから、なんとも言いようもないが「一つのものを右から左へやる」のが「いっそう」ならば「一掃」という文字でも、良いのではないかと想える。まあ、こう当てるのが常識というものであろう。
 すると信長は、中国へ出陣するに先立って、
「何かを一掃する目的」で上洛した事になる。
 そしてその何かは、京都にあった。
 しかも、その何かは、信長が出陣に当って後顧の憂いのないように、自分で整理して行かねばならぬ程の大問題であるが、小姓ニ、三十を伴ってゆくだけでも、事たりてしまうような相手で、その示威のためであろうか、今度は「お伴これなし」それで、「舐めてかかったから」あべこべに「不慮の題目」が出来(しゅったい)してしまったというのである。
 これを検討していくと、信長殺しの謎の中の一部分は判ってくる。
 つまり六月二日に洛中の大名屋敷の留守武者二千が動かなかったのは、これはストライキではない。命令によるものらしい。しかも、その命令たるや、皮肉な話だが、信長からの発令らしい。
 おそらく「何かを一掃するために」上洛してきたのだから、
「洛中に騒動これありとても、構えて一兵も出すまじきこと」といったような指令が、本能寺門前にあった司所代役の村井長門守から、各大名屋敷へ通報されていたのではあるまいか。当時の事だから、もとより詳しくは教えてなかったのだろう。
 だから四条の本能寺で大騒動が起きて、各大名屋敷は色めいて周章狼狽したが、前もって、天下びとの信長から「絶対に出動すべからず」と命令されていたから、もし違反したら、大変であると、まさか当人の信長が包囲されて居るなどとは、夢にも想わず、みな自分の屋敷だけを厳重に守っていたのではなかろうか。と、これから納得できる。すると、その一掃すべきものは、これは、大物という事になる。
---引用ここまで---
~らしい。という文末がたくさん出てきます。ですから、ここは八切氏の想像が多分に含まれていそうなところです。

次いで、本能寺の変前日に茶会を催したことについて、追求している。
---引用ここから---
 さて<角川新書の織田信長>をもち出しては悪いが、その中に、左記のような記述がある。こと事件前日のことなので、徹底的に解明をしなければならない。
「<仙茶集>というのに<御茶湯道具目録>と題する覚え書が入っている」と、まず書かれている。
「それは『日付は午(うま)の六月一日』『宛名は宗叱(そうしつ)まいる』『差出人は長庵判』とあり、三十八点の名物茶器の名が列記されている。つまり、この覚え書は、天正十年六月一日、本能寺の変の前日に、博多の島井宗叱に披露して見せる信長秘蔵の名器三十八種の目録をかきあげ、宗叱に与えたものである。また長諳(ちょうあん)の追記として『この他にも沢山あるが一々書きたてるのは止めた。また、三日月の葉茶壷、松島の葉茶壷、岸の絵、万里江山の絵図、盧堂の墨蹟などは、大道具で、持運びが不自由なので、安土の城に残してきたから、また次の機会に改めて拝見させる』とことわりが出ている。だから、この目録にかいた三十八種を安土から本能寺に運搬してきて、本能寺の書院で茶会を催すために、信長は上洛してきたのである」
 と説明されている。そして、
「信長は単なる武将ではなく、茶の湯ずきの趣味家で風雅の道に志が深く武略にたけた強豪である反面に、かなりの数寄者でもあって、西国出陣の途中、わざわざ秘蔵の名物茶器を披露する茶会をやる為に、本能寺へよって、災難にあったのだ」
と、これを尤もらしく説明しているが、はたして、この人の説は、どんなものであろうか。奇怪そのものである。
 これによると、まるで楠長庵が、信長の代理人のように、「これとこれとを見せてやる。この他の物は沢山あるから書くのはやめた。大きな物は持ってこられないから安土の城へきたら、そこで見せてやる」と大言壮語をしているが、それ程のポストの人間だったのだろうか。
 吉川弘文館の<戦国人名辞典>においても、彼は、
「文禄元年、朝鮮の役にて、肥前名護屋城にて、宿直番士の記帳に当っていた」と出ている程度の人間である。つまり「誰某は宿直、誰某は、あけで帰った」という人間のタイム・レコーダー係である。しかも、これが本能寺の変から十年後の長庵という人物の現実の姿である。
 しかも初めは大場長左衛門といっていたのを、楠木正儀(まさのり)の子、正平の八代の孫だと自称して「楠正虎」とまで名のった人物である。
 だから<戦国人名辞典>では、彼に関しては「信用出来ない」という言葉を繰り返して二ヶ所も出している。
 もちろん「楠」に改名したのは、信長の在世時代ではない。その頃は長左衛門といって、祐筆の下の書記ぐらいの身分らしい。というのは、その後、安土城が炎上して実物が何も残っていないから、よい加減なことを書いているが「三日月の葉茶壷や松島の葉茶壷が大道具で、持ち運び不自由で安土へ残してきた」というが、この二つは普通の茶壷の大きさである。運び瓶(かめ)の茶の大壷と、掌にも乗る茶壷との区別さえ、この男は知っていないのである。
 それと、もう一つ訝しなことは、まるで彼が、信長の側近として、本能寺へ同行してきているような書き方を、この筆者はしているが、六月一日に本能寺で茶会を催しているというのに、彼と島井宗叱は双方とも唖で口がきけず、当日二人は筆談を交したのだろうか。
 さもなければ、手紙なら、いざ知らず、向きあった長庵が、眼の前の宗叱をつかまえ、
「うまの六月一日、宗叱へまいる。これこれと三十八点。この他に沢山あるが、いちいち書くのはやめた。また、あれとあれとは大道具で持ち運びできなかったから、後で見に来い」
 と、口でいったというなら話の辻つまも合うが、なぜ紙にかいて、それに判を押して、手交しなければならないのか、いくら頭をひねっても、愚かな私には、納得できもしない。
 常識で考えても、向き合った二人が筆談して、判までおし渡しあうというそんな変てこな状態は想像もされない。
 もし筆者が書いているような、そんな「覚え書」があるものなら、それは楠長庵が書いたことに、三百八十五年後の誰かがしてしまった想像の創造であろう。
 なにしろ当日、その宗叱が主客だというのなら、「耳がつんぼだったかも知れないから、向き合って筆談をしたか」とも、ごま化しはきくが、「六月一日の信長の名物びらきの茶会は、本能寺の書院でもよおされ、正客は近衛前久であって、地下人に相当する宗叱と宗湛は、相伴を命ぜられたのであろう」と、筆者は説明している。すると、主客は放りっぱなしにして、たった二人だけで紙にかいたり判をおしたりして、やりとりしていたのか全然ピンとこない。
 そして、おまけに筆者は、しつこくも、その島井宗叱が、初夏のころ、同じ博多衆の神谷宗湛を同道し、六月に信長が茶の供応をするというので本能寺に参上したところ、明智光秀の乱が起こった為に、早々と本能寺をひきとった。そのとき「弘法大師の真筆千字文の掛軸」をもち帰ったという。又、神谷宗湛の方でも、宗叱と同伴上洛し、本能寺で信長に謁見したが、そのとき、明智の乱が起こったので、本能寺書院の床の間にかけてあった「遠浦帰帆の図の一軸」を持ち戻った。というが<山科言経卿記>では「近衛前久ら四十人の公卿が本能寺へ集ったが、それは『数刻御雑談、茶子、茶有之』という原文になっている。つまり、茶会などひらいてはいない。御述するが、もっと大切な密談なのである。
 それなのに筆者は、宗叱と宗湛の二人だけを、旅館のように本能寺へ勝手に泊めてしまい、夜明け方明智の乱にあったという。だったら、この二人や楠長庵は、全員玉砕だからヘリコプターでも使って脱出したのだろうか。
 しかも、生来、手癖が悪いのか、二人で共犯で床の間の軸や掛物をかっぱらったということを、書き加えている。
 ふつう、他家の他人の物を黙って持ち出してきたということは、あまり賞められたことではないから、事実そうであっても、こんなに堂々とは書かないものである。処が、この場合は、明白に「窃盗行為」の事実をしめしている。ということは、歴史屋である一面、書画骨董(こっとう)の鑑定をば営んでいる筆者が、前述二品の書画に折紙をつけて、その市場価値を高めて謝礼を得る者に頼まれ、出所を権威づけようとして、信長の遺愛品として証明したさに、彼自身の都合で、六月一日を尤もらしく茶会にしてしまったり、架空のフィクションをさも本当らしく舞文曲筆しているのではあるまいか。いくら宗湛や宗叱が泥棒にされたり、楠長庵を勝手に躍らせても、四世紀前の人間では何処からも文句がこないからであろう。
 なにしろ、この筆者は歴史学者には惜しいくらい、小説家以上に創作能力があまりにも豊かにありすぎる。
 さて、この茶会が六月一日という彼の発想は、私の想像では「忠臣蔵」からの借りものではなかろうか。
「頃は元禄十五年、十二月十四日の赤穂浪士の討入」が、「吉良邸の茶会のあと」だったという連想から、「茶会 疲れてみな寝ている。夜明け前に討入り」というプロセスをかりて、あわれ織田信長を吉良上野介と同じようにしてしまったのではなかろうか。
---引用ここまで---
鉄砲の火薬欲しさに、信長は一時キリシタンを歓迎し、その後茶の湯を始めた豪商と手を組んだという八切氏の考えを以前紹介しています。だから茶会を行うとしたら、その豪商相手か、狭い場所で行うので武将と密談をしたり脅したりとかはありそうな気がします。
でも本能寺の変の前日の茶会はどうやらなさそうですね。

---引用ここから---
 歴史家の中でも唯物史観にたつ若い人は、よく勉強しているが、この筆者のような、尤もらしく書く人は困る。私の父と同年輩なので、あまりいいたくはないが、
「織田信長が安土から出洛してきた五月二十九日」
 この日、京にいた徳川家康は穴山梅雪と共に堺へゆき、同日は、津田宗及(そうきゅう)の昼茶席。
 その夜は松井友閑邸へ泊り、翌日は堺衆の茶席が催されている。ということは、彼の説をとるならば、同時に二ヶ所で盛大に茶会が催されたことになる。
 ところが、千の利休が、秀吉の御抱え茶頭になったのは翌年天正十一年五月からであり、当時の信長の茶頭は、やはり堺衆で、皮革商武野紹鴎(じょうおう)の門下津田宗達の伜の宗及である。それなのに、信長の茶頭役が、本職の信長の方の名物披露を放りっぱなしにして、堺の方で当日は家康接待の茶席を催している。こんな事が、有り得るのであろうか。
 そしてこの天正十年六月の頃は、まだ北向道陳の、流れを汲む利休の時代ではなく、武野派の油屋紹佐、茜屋(あかねや)宗佐、銭屋宗訥に、今井宗久の全盛期である。だから宮内卿法印の官名を持つ堺の政所(まんどころ)の友閑邸へ、六月一日、彼らは集まっていたのである。
 筆者の説によると、まるで徳川家康が信長に対抗して、同日に茶会を催していた事になるが、そんなことをしに、わざわざ信長へ献上の三千両を担いで出てきたのではない。しかも案内役というか随行に、安土から信長の近習の長谷川秀一がついてきている。信長が本能寺で名物披露の茶会をやるのに、何故同じ日に堺で同じようなことをやらせるか、とても常識では考えられもしない。一流の茶匠の数は限定されていて、しかも当時は圧倒的に堺在住が多い。
 それなのに堺で同時開催というのは、これは明瞭に、信長への対抗であり妨害である。もちろん、松井友閑も信長の家来である。どうして邪魔になるような事をするだろうか。この歴史学者は、今日の神風タレントの掛け持ちでも考えたかもしれないが、その頃の交通機関では、京と堺間の、同じ昼間でのトンボ返りは無理である。
---引用ここまで---
結論。本能寺の変前日の茶会はなかった。では何が有ったのかは次に書かれています。

※八切止夫氏の息子は、神楽坂でトレドというカレー店を営業しています。そこで『信長殺し、光秀ではない』を読みました、といったところ、読みにくかったでしょうと言われました。
森蘭丸は美少年かという大きな章の中の小さなブロックの途中から、森蘭丸のことは全く無くなり、前日茶会が有ったかという話になり、実際は茶会でなく◯◯だったというのが次回紹介するところで、勿論ここにも森蘭丸はでてきません。なんというか、推敲が全然足りないんです。たしかにそんなところは読みにくさにつながっていると思います。
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