もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 19


ちょっと間があきましたが、前回は本能寺で信長は茶会は開いていないという話題でした。
今回は、では、信長は本能寺の変前日に何をしていたかです。



森蘭丸は美少年か・デモ(129~137ページ)

大雨であった本能寺の変の前日、おびただしい来客があったため、お茶を出しただろうから、茶会という連想をしたのかもと八切氏は想像しています。では、押しかけてきたのは一体どのような人たちなのか。

---引用ここから---
 信頼すべき史料として、改めて、ときの権中納言の<言経卿記>の六月一日の日記から、その来客メンバーを列記してみる(客は近衛一人ではない)。
 関白 藤原内基   太政大臣 近衛前久
 左大臣藤原内基(兼)右大臣 近衛信基
              内大臣 近衛信基(兼)
 前関白九条兼孝   前内大臣 二条昭実
 つまり、宮廷における関白以下、前職まで一人残らず揃っている。次に、五摂家を筆頭に、
 鷹司信房、聖護院道澄、今出川晴季、徳大寺公維、飛鳥井雅教、庭田重保、四辻公遠、甘露寺経元、西園寺実益、三条西公国、久我季通、高倉永相、水無瀬兼成、持明院基孝、(言経)、庭田黄門、勧修寺晴豊、正親町季秀、中山親綱、烏丸光宣、広橋兼勝、東坊城盛長、五辻為仲、竹内長治、花山院家雅、万里小路充房、冷泉為満、西洞院時通、四条隆昌、中山慶親、土御門久脩、六条有親、飛鳥井雅継、中御門宣光、唐橋在通。
 堂上公卿のオール・メンバーである。筆者の言経も、この中に加わっている。間違いないところであろう。つまり、上の御所とよばれた内裏から、この本能寺へ来ていないのは、愕り多いが、主上とあとは中宮、女御の婦人方だけであり、下の御所と称されていた二条御所から見えていないのも、皇太子殿下の誠仁親王、及び皇弟殿下や、御皇族の方だけにすぎない。
<言経卿記>では、この人名を羅列したあとへ、もっていって、前述したように、
「数刻御雑談、茶子、茶これあり、大慶々々」と結ばれている。
(茶菓子がでて、茶が出たから、これは信長名物の茶器の披露の茶会であったのだろう。それで大慶至極と書かれているのだ)と推測するような粗雑な思考では困るが、一刻とは現在の2時間、つまり数刻といえば、これは五時間から六時間である。しかも当日は夕方まで雨である。平安朝のような宮廷勢力の強かった時代なら、彼等は自家用の牛車にでも乗ってきたであろうが、この天正十年では、せいぜい関白や太政大臣クラスが輿(こし)にのってきたくらいで、あとは、まだ雨傘なんか発明されていなかったから、簑をきて集まってきたものと思われる。
 だから茶会ぐらいの事なら、これは、「雨天順延」になるか、又は信長の方で、それ程見せたいものならば、宮中まで持参して、一般公開をしている筈だ。というのは、なんでも信長の真似をした秀吉でさえ、この三年後の天正十四年の正月には、自慢の折畳み式黄金茶室を見せたいばっかりに、禁中へ運んで、これで茶会を催している。だから、この六月一日の本能寺は、接待用に茶は出しているが、茶会とか、五十人あまりのティー・パーティーではないことは、はっきり言えると想う。
 その例証として、<言経卿記>の六月一日の頭初に、
「一、前右府ヘ礼ニ羆向了(まかりむかわれ)、見参(けんざん)也。進物(しんもつ)者(は)被返了(かえされる)、参会衆者ハ‥‥」
というのが、メンバーの列記の前についている。これを岩波書店版の<大日本古記録>では(東大史料編纂所)が、「延臣ヲ信長ノ館ニ列参シテ、ソノ上洛ヲ賀ス。進物ハ受ケズ」
 と欄外に注釈を施しているが、これは、どういう意味による解釈であろうか。すらっと読めば気がつかないが、ゆっくり読んでは、私ごとき頭の悪い者にはてんで、この注釈では判らないのである。
 つまり前日の<廿九日、丙戌>の項に、
「一、前右府(のぶなが)、御上洛了(おわ)る。
 一、御局(おんつぼね)御出了、軈而(やがて)御帰了(おかえりになる)。
 一、毘沙門堂ヨリ、入夜愛州(よるになってから)薬所望(しょもう)、遣了(やる)。
 一、(約十行分空白)」
 とあるからには、もし「信長の上洛祝賀」ならば、彼によって四月前から、太政大臣にして貰っていた近衛前久達の信長派だけでも、前日の二十九日に、つまり出京してきた日の内に、本能寺へ挨拶にゆくべきである。
 それなのに同日は行っていない。五月は二十九日が月末だから、晦日(みそか)で忙しくゆくことができなかったと、いうのでもあろうか。
 でなければ、みな協議しあって、御所の中で回覧板でも廻して、翌六月一日に、何処かで集合して、宮中の全員が一堂に集まり、そこから雨の中をてくてくと、本能寺へ行ったのであろうか。
 (一部略)、見逃しては大変なのが、
「‥‥進物者被返了」という六月一日、一行の記録である。
 せっかく雨に濡れて持って行った進物である。勿論たいした物ではなかったろうが「気は心」ともいうし、これは受取ってやるのが礼儀だし、人情というものだろう。それを、みな突き返したということは、何を意味するのだろうか。これでは「賀」にはならなかろう。
 もしも、これが茶会だったら、たとえ半紙一枚を色代にもってきても、これは有難く受けとるのが作法というものである。だから、茶会なんてものではない。といって、東大史料編纂所みたいに「列参シテ信長ノ上洛ヲ賀シニ」きたものなら、その進物を断るのは、賀しにきたのを拒絶した事になってしまって、「その説明」は、到底ここではなりたたない。成立は不可能である。
「お公卿さんは貧乏だから、気の毒がって信長が『好意だけで結構です』と受取らずに歓談して帰したのだ」とある歴史家の珍説もある。あまりに愚劣すぎて、これは書名をあげる気もしない。
---引用ここまで---
天皇家に仕えている主だったメンバーが本能寺の変の前日に本能寺に押しかけたことが説明されています。
タイトルの『デモ』から考えると、公卿たちが信長に団体交渉しようとしたということなんでしょうか?

続いて、信長がたった5ヶ月で右大臣を辞めたことが説明されている。そして、
---引用ここから---
 つまり、天正十年六月の信長は、既に四年半前から宮廷の官位を自分から擲げ、民間人になっていたのである。だから、雨の中を、ぞろぞろやってきた連中は、正規にいえば、みな身分や官位の高い、目上の者たちということになる。それなのに、その進物を拒絶するというのは、こんな非礼な沙汰はない。これでは、まるで喧嘩である。
 もし、公卿衆が貧しくて気の毒だというのなら、それ迄の信長の慣習通りに、たとえ末広(扇子)の一本でも快く納めてやって、返り際に、応分以上の銀一枚でもくれてやるべきだと想う。
 これ迄でも信長は何かを恰好だけ貰い、お返しとして、そうしていた。彼が気前よく金銀を撒いて居ったからこそ、信長派という堂上公卿の集団があった。前年の観兵式(<信長公記>に記載されている八月一日安土挙行は、時日場所相違)の馬揃えの当日も、前関白近衛前久が、信長の家来の格で馬場に並び、天覧の主上をして、いたく慨嘆させられたものである。それなのに、そうした取巻き連中の公卿までが、この日は玄関払いの扱いである。
 今でこそ、持参した進物を、帰り際に、「詰まらない物ですが」と差出しもするが、天正期から幕末迄は、まず玄関で、持参の進物をおいて、それから挨拶したものである。だから当時は挨拶のことを、
「色代」といい、それを先ず置く入り口の玄関の板台を「式台」という。なにも踏み石の代わりに縁台をおいたものではない。あれは手土産品の提示台だったのである。
 だから、進物を断られるということは「本能寺の客殿へ通してやらない」という拒絶である。
 つまり、関白一条内基以下、彼らは御所を空っぽにして四条の本能寺へと、大雨の中をくりこんで行っても、この有様では、どうみても「招かれざる客」でしかない。
 といって、彼らの方でももちろん「面会謝絶」は承知だったのだろう。だからこそ、五摂家を始め堂上公卿が、一家一名みな打ち揃って出向いているのが、メンバー表で、はっきりしている。つまり彼らは三百八十年後の、権威ある東大史料編纂所の意向に反して、「祝賀行列」をしに行ったのではない。
 あれは公卿を総動員して、デモに行ったのである。勿論、表向きは、信長の機動隊に棍棒で頭を殴られては痛いから、「嘆願」の形式だったのだろう。プラカードが発明される以前だし、手ぶらだったろうが、集団示威運動には違いない。それが何よりの証拠には、
「玄関の式台で、進上物を突き返された連中が、結局は上へあがりこんで数刻、つまり五、六時間も団体交渉」をしている。もちろんシュプレヒコールはしたらしい。
 そして、もし招いた客とか、普通の来訪者ならば、いくら人数が多くても、それだけの長時間ならば、今でもそうだろうが、飯ぐらいは出す筈である。なにも出前の店屋物(てんやもの)を注文しなくても、本能寺の台所で「お寺のおとき」ぐらいは、すぐにも仕度は
できたと思う。そして、この時代は「お振舞い」と称し、相手が呑めても呑めなくても、酒食を供応するのが来客への慣しであった。
 それなのに「お茶子とお茶」だけというのは、冷遇というより、「酒食」など出せるような、そんな話し合いではなかったのだ、としか想像できない。
 言経卿が「大慶々々」と結んでいるのは、びしょ濡れになって本能寺へ行ったところ、「‥‥公卿衆は、みな甘党だから、酒など出されずに済んで、お茶のみだったから、胃かいようの吾々にとっては、大慶、大慶、ベエリ・グッドだった」などと言っているのではなかろう。
 これは「逢ってくれまいとデモをかけ、みんなで押しかけたところ、流石の信長も往生して、上へ通してくれ、どうにか話ができて良かった」と、解釈すべきだろう。
---引用ここまで---
やっぱり団体交渉だったか。

ではデモの内容については・・・・・、まだ決定的なことは出さないみたいですね。

---引用ここから---
 それと、妙なことは<言経卿記>のメンバー表である。彼は自分の事を「予」という表現で、その十九番目。つまり中央に目立たないように挿入している。初めは「権中納言」という彼の官位からして、中納言の順番の下へもってきて、これは宮中席次の配列かとも考えた。
 ところが調べてみると、大納言や正中納言の名が、その後になっている。だから、これは、それでは本能寺への到着順かとも想った。しかし、これは日記である。別に公文書ではない。
 普通こういうメンバー列記のときは、自分も、その中の一員に加わっている場合、
「私を初めとして、誰某たち」と並べるか、
「誰某たちと一緒に、自分も参加した」
 と書くのが、これは決まりきった定型のようである。それなのに言経卿は、わざと、四十人列記した名前の、丁度まん中へ自分を入れている。どうも、人数を勘定してから、書きこんでいる。しかも、目立たないように「予」の一字である。
 そこで考えるのだが、日記というのは、何も、他人のために書くものではない。山科言経だって、三百八十年後の岩波書店の為に、これを書き下しをしたというわけではない。東大史料編纂所だって、勝手な注釈を上へつけて、印税をとったからといって、山科言経の供養祭をしてやったこともきいていない。つまり、これは、言経の都合において、片っ端から名前をかいているのだ。ということは、「AもBもCも行った。だから私も本能寺へ、ついて行ったにすぎない」という自己弁解である。子供が「悪いことをしたのは自分だけではない。甲も乙も丙もしている」と告げ口するのと同じことであるらしい。
---引用ここまで---
ということから、公卿のデモは目的を果たせなかったが、長く居座られた信長が早く返って帰ってもらうために、代わりに生活の保証や官位を約束したのではないか、そしてそれが保護反故にならないように証人の名前を書いたのではないかと推察しています。
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