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『信長殺し、光秀ではない』 20



前回は、本能寺の変の前日に、主だった公卿が勢揃いして、本能寺に押しかけたことが説明されていました。そして、おそらくその内容は伝えられていないけれど、信長に対して団体交渉を行ったのではと考えられるということを書きました。



森蘭丸は美少年か・避難(137~141ページ)

---引用ここから---
<言経卿記>の六月一日の条では、「大慶々々」の次の行には、
「一、七宮御方御腹中気ノ由、薬進了」とある。
 胃痛というのは、精神障害による中枢神経の作用によるのが多いと言うのは、現代医学でも解明されている。つまり、本能寺へ押しかけた結果、彼は、「大慶々々」と戻ってきたが「七宮御方は心配されて病になられたと使が来たから、薬を調剤して差上げた」と言うのである。そして、次の行になると、
「一、家中衆、礼ニ来、令飲盃了」となる。
 なんの前祝いかわからない。だがしかし、家中集って祝盃をあげている。
 ところが呑んでる内に気になってきて、
「一、冷泉ヘ立寄了」となる。
 冷泉為満は親類である。庭ごしに行ったのだろう。そして二人で今日の本能寺での話をした。
 やはり後めたいところが有ったのだろう。話している内に、今日は一日だから、禁中へ酒肴を届ける例だと想いだした。冷泉が、
「麿も、まだだから一緒に届けよう」と言ってくれた。
「では頼む」と戻ってきてから、冷泉為満の妹にあたる自分の妻に、立替えの銭をもたせて、礼にやろうとしたところ、「あたいも、ついてゆく」と伜も、はしゃいで一緒にいったという情景が、次の、
「一、禁中ヘ一荷両種、如例月進上了。
 一、北向、阿茶丸オ里ヘ礼ニ被行了」
 となるのである。本来ならば、禁中への献上などは、まっ先にやるべきであるのに、どうも浮々して、夕方まで忘れていたものらしい。
 さて、その次の行は、
「一、========」
と、抹消されている。都合が悪くて削ったものらしい。
 この日記は、前日五月二十九日も、約十行は削除され空白になっているし、六月四日の条も、
「四日、
 一、禁中徘徊了。
 一、洛中騒動、斜メナラズ」
で、後四行分が抹消空白。
 そして、五日、六日、七日、八日、九日、十日、十一日、十二日の八日分は、むしり取られて、残されてはいない。
---引用ここまで---
ですから、四日までしか資料がないから、「信長の遺体が見つからなくて六月二日から四日まで大騒ぎをして、京都中を探し回った」と言われているが、その後まで大騒ぎが続いていただろうと、八切氏は推測しています。
ただ、個人的には、抹消されたということは、公卿衆も信長殺しに関係していたのかなと想像させられます。そして、公卿衆がもし信長殺しをしたのならば、天皇の地位に絡んだことなのかなと思ったりします。

六月二日の経緯は、<兼見卿記>もあるが、二種位の日記があるために信頼性性が欠けると感じたようである。言継卿記の追求を続けている。

---引用ここから---
 しかし、信長が、何を一掃しにきたのかという肝心な事となると、この日記は、言経自身が何も知らされていなかったらしく、表面に出ているのは、六月一日の「七宮御方の御病気」とのことと、その前日の、
「一、御局(おんつぼね)御出られ、やがて御帰りになる」
の二ヵ所しか、鍵になる手掛かりはない。
「おんつぼね様」というのは、ときの主上の御寵愛遊ばされていた女性の事である。
 その御方様が、信長が上洛するや、出てゆかれて、やがて、お帰りになられたという記載である。だが、下々のように夫婦喧嘩などなされて、ヒスを起こして、その御方さまが家出をされたが、やがて思い直されて戻られたというのではない。
 御所を出られて、一応は何処かに居られたが、やがて、お里方へお帰りになったという「椿事」である。重大事件なのである。
 でなければ、冷泉家から妻を迎え、その間に産まれた阿茶丸という児を、いつも連れ歩く家庭的な、マイホームのはしりのような山科言経が、現今の女性週刊誌のような興味本意の記事を、ことさらに、自分のその日記に書きこむわけはない。
 すると、その御方様というのは「絶世の美人で、揚貴妃のような女性で、玄宗皇帝にもあたる主上をして、誤らせること多きを憂え」信長は、当時の毛利輝元という安禄山の叛乱に際し、彼女を一掃するために上洛したのだろうか。
 成程、相手が女御一人とあれば、鎧も武器も不必要だろうし、御伴も不要だったろう。
 しかし信長というのは、はたして、そんなに皇室中心主義の男だったのだろうか。
「桶狭間合戦」を奇襲戦法の典型のように、明治の軍部が、故意か無智か判らないが、とりあげて以来、とってつけたように、
「勤王の家柄、織田信長」という文句が生れてきた。なにしろ善玉は全部、勤王家でなくては、都合の悪かった時代だから、
「信長の父の織田信秀は、勤王の志が厚く、御所へ献金して、従五位下の官位を頂き、備後守に任ぜられた程である」と、なった。
(金を出して勲位や勲章を買ってはいけない、という天野賞勲局総裁の疑獄事件)が大正期におきた。そして献金して官位についた連中が逮捕されたが、織田信秀の方は天文十二年の四百年も昔の事だから、時効にかかっていた。別に、なんの問題にもならなかった。反って、その買官行為が、そのまま勤王の事績とされ、
<徳富蘇峰の近世日本国民史第一巻>にも、「織田信秀勤王心のこと」というのを別項目で、(献金したから、位が貰えた)と掲げている。
 そして、それをもって「父は子の縮図」と題し「信長、彼も確かに勤王心を有した者の一人であった」と、まことに苦しい具合に、こじつけられている程である。
 だが、もし信長の目的が、勤王の志から出た、その御局様の一掃であるならば、彼女は逃げてしまわれたゆえ、それでは信長が入洛した途端に、その所期の眼目は達成されてしまったことになる。ならば、何故、翌六月一日に、公卿たちは雨中のデモ行進を本能寺へしたのだろうか。
 御局様を、もとの鞘へ納めて差上げようという、
「愛の運動」だったのだろうか。それにしても、御所を空っぽにして、太政大臣から関白、しかも前の大臣衆たちが、まる一日も本能寺へ詰めかけて、まるで帝国議会でも開催しているような騒ぎを、信長がもし勤王家ならば、叱りつけずに、あべこべに「大慶々々」と喜ばせて戻してやるというのは、少し訝しすぎはしないだろうか。
 どうも、御局さまが御所を出られたのは「緊急避難」のような感じがしてならないが、どんなものであろうか。
---引用ここまで---
天野賞勲局総裁の疑獄事件のwiki
まあ、このwiki読まなくても、内容はわかると思いますけど念のためリンクしときます。

結論として、公家衆は団体交渉に赴いたが、その時天皇の寵愛なされていた女性は難が来ないように緊急避難させたと考えているようです。抹消部分が残っていれば、団体交渉の中身も判るのでしょうが、公家衆自身の存亡に関わることなんでしょうか? 謎のままです。
そして、なんでも信長の真似をしていた秀吉が、天皇の退位を迫ったことがあることから考えて、もしかしたら信長も天皇に退位を迫っていたのではないかという想像を八切氏は書いた後、信長自身は本能寺の変で骨も残さず消えてしまったことから、何もそのような証拠は残っていないとも書かれている。
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