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『信長殺し、光秀ではない』 23


前回は、秀吉伝記の中の織田信長の最後の場面で、信長が夜に女性を寵愛したと書かれていることを紹介しましたが、信長自身はホモであったことを八切止夫氏は述べています。勘違いされないように補足しておきます。



真実は雲なのか・デフォルメ(155~159)
小瀬甫庵(おぜほあん)の<太閤記>の本能寺について、まるっきり講談で引用できないと切って捨てた後、田中吉政の臣の川角三郎右衛門が元和三年に纏めたといわれる<川角太閤記>について、追求をしている。

---引用ここから---
<巻一の明智勢、本能寺に乱入のこと>
 は、四章で構成されている。
 一は、光秀が桂川へつくと、軍勢の者共に火縄を切り点火し、草鞋をはきかえ、戦闘準備をせよと命令を下したということ。
 二は、(まだ本能寺へも向かっていないのに)光秀が本日から上様になられると、家来どもが喜び勇んだということ。
 三は、主格が、いつの間にか、光秀から斎藤内蔵助に転換されてしまい、彼が下知するには「町へ入ったら、いつもの如く、町木戸の潜り戸はあいて居るだろうから、その戸を押して開けて中へ入れ。入ったら後からの者のことを考えて、閉めずに戸は開けておいてやれ。次に目標は本能寺の森のさいかちの樹か竹薮と決めておけば、まあ暗くても、月明かりでも道を踏み違えることもなかろう」と声高にいうのが聴えた。
 四は、この後は<信長公記>に詳しく出ているから、向こうをよめ。ただ違っているのは、二の家来が喜んだ話と、三の斎藤内蔵助の命令であるが、これには二人も証人があって、直接にきいた。だから正しい。と書いてある。
---引用ここまで---
もっともらしいけれど、そこは八切止夫ですから、ここはおかしい、という点が追求されていきます。

---引用ここから---
 これは元和元年に、大坂夏の陣が終り、どうも泰平ムードの時代のものかと思ったが、とんでもない。もっと後年の贋作らしい。
 一の章に原文では(馬のくつ切り捨て、かち立ちの者共、新しき草鞋足半(あしなか)をはくべきなり、火縄一尺五寸にきり、その口々に火を渡し、五つずつ火先を逆に堤げよ、との触なり。さて桂川をのりこし候こと)とある。だが、<相州兵乱記>に「急坂を駆け降りなむと、馬の藁沓の結びを縮め」とある。つまり結んだ端がピンと立っていては、馬が勾配(こうばい)に掛ったとき、前脚の切れ端が後脚を刺してはいけないからと言うのである。だが、これから桂川へ入るのである。たいていの藁は水に浸かると柔らかくなる。ピンと刺さる筈はない。あべこべに、水にふやけるから後で締め直さなければならない。そのとき、前もって端を切っていたら、どうして締め直しをするのだろう。
 おそらく、これは<摂戦実録>にもある「大坂夏の陣で、木村長門守が、決戦の心構えで、二度と兜をはずすまいと、その結び目を短かく切って出陣した」という高名な話からヒントを得て、兜の緒と馬沓の紐をうっかり書き間違えたのであろう。
 次に、川を渡ってから新しい草鞋に履きかえろと言うのなら判るが、今から水に浸るのに、はきかえろではこれは二重手間ではないか。(足半(あしなか))というのは、半分の草鞋という誤説もあるが、雪沓(ゆきぐつ)みたいに藁で編んだ半長靴である。川を渡るのだから、これをはけというのだろうが、六月一日は雨である。桂川の水かさは増している。まさか、そんなものを穿(は)いたところで、浅瀬にしたって、膝まであったろう。だったら、わざわざ六月に雪沓をはくことはない。それに第一、そんなものを持ってきている筈もない。
 次に、火縄を点火して逆にしろというのは、携行ランプの代用のことらしいが、普通は、川を渡るときは、濡らさぬように桐油紙で包むか「雨火縄」とよぶ革袋に入れ、頭のてっぺんへ結いつけて渡河したものである。この<川角太閤記>みたいに、当時所定の五本全部に火をつけ、しかも、ぶら提げて川を徒歩で渡ったら、びしょ濡れで廃品になってしまう。
 これは、どうも、桂川に橋があったと間違えているらしいが、ここへ架設されたのは、ずっと後年のことである。当時ここは細川藤孝領で、細川番所の渡船があったきりである。だから、細川家で手伝ってくれても、せいぜい二三艘の小舟で、一万三千が渡っていては夜があけてしまう。やはり徒歩で水中を渉って渡河したのだろう。
 それから、<兵器物具考>によると、
「火縄一尺五寸は、風なく一刻なり」とある。
 つまり一尺五寸という寸法は、点火させてから風の吹かないときでも二時間しか保たないと決まっていたのだ。
 桂川を渡る前に火を、五本ともつけてしまうというのは、徒歩では三時間半かかる本能寺へ急行できるように、川向こうにジープやトラックでも待たせてあったのだろうか。そうでなければ、余りにも変である。なお、当時の軍用草鞋は、水中へ入っても切れぬように、木綿の芯が入っていて、これを武者草鞋と言い、高級品は皮編みになっていた。だから、江戸期の博徒の出入りみたいに、それっと言って、新しいのにはきかえるような事はなかったものだ。
---引用ここまで---
書かれている内容はよく検討してみるとおかしな事だらけ。なんというか、日本の歴史は講談とか小説が現実と思われているのでしょう。

・・・・

話は変わりますが、ちょっと前の教育課程編成で、聖徳太子の名を厩戸皇子に変えると計画されていたようですが、日本人の常識として聖徳太子の名は残さななければならないという議論が出たらしく、又、聖徳太子という名称を復活させようという動きになったそうです。
個人的には、聖徳太子というのは死後に付けられた諡(おくりな)だそうで、生前に呼ばれていた厩戸皇子でも何も問題はないと感じます。天皇になれた人は区別するために諡で呼ぶのは仕方ないんですが(言霊信仰のある日本では、本名を知られることは支配されることという信仰があったようで、天皇現職中は名前が無くなります。天皇名はすべて死後の諡。戦後の天皇は除きます。)、聖徳太子は天皇になれなかった人です。それに聖徳太子という名で呼ばれる時は、一度に10人の言うことを聞き分けたとか、常人よりもすごいという伝説のときが多い気がします。歴史の学習からは、伝説のようなことは除いたほうが、歴史学のためにもいいのじゃないかなと個人的には感じます。

・・・・

<川角太閤記>の分析は、まだ続いていますが、今日はここまで。
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