もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 24


<川角太閤記>には、<明智日向守、謀叛を企てること>というのがあるそうで、それが、信長殺しが光秀である理由の補強になっていると八切氏は指摘しています。



真実は雲なのか・分析(159~164ページ)
<川角太閤記>では、六月一日に重臣たちと本能寺へ出発し、亀山の東柴野へ打って出、そのまま東へ進み、斎藤利三らを召し寄せ、決意を告げたとなっている。
小瀬甫庵作<信長記>では、亀山出発前に五人に心中を打ち明け、五人から起請文を取り人質を取ったと書かれている。ただし、八切氏は本能寺の変後、本拠地の亀山に戻っていないことから、内容に疑いを持っているようである。

---引用ここから---
 さて、川角太閤記は、その次の条に、
「日向守殿は腰掛から敷皮の上に居直って、存ずる旨を申し出すなり」と、まるで浄瑠璃のような語り口で始まって、
「さて、わが身三千石のとき、俄かに二十五万石を貰ったから、家来をあまり持ち合せず、他から止むなく引き抜きをしたところ岐阜で三月三日に叱られ、其後は、信濃の国の上諏訪では、暴力をうけて殴られた。そして今度の家康卿ご上洛のとき、安土に御宿をいいつかって泊めたところ、ご馳走の次第が、どうも手を抜いて油断しているように叱られ、俄かに西国出陣を仰せつけられた。こう再三にわたって苛められていては、終には(所領没収又は切腹追放)という我が身の大事に及ぶべしとも想う。だが、よく熟考してみると、以上あげた三つの怨みは、或いは目出たいことかも知れん。なにしろ有為転変は世の慣(なら)い。老後の思い出に、たとえ一夜たりとも天下をとった上で、その痛快さを味わってみたいものであると、この程、この光秀は思い切ってついに謀叛の覚悟をつけた。だから、家来の其方らは気が進まなくば同意しなくともよい。そのかわり、それならそれで、今から、この光秀一人で、本能寺へ乱入し、そこで暴れ廻ってやってから腹を切って、‥‥思い出をつくる決心なのである」と、まず一息に光秀がいう。
 これが川角太閤記における、犯行自白の録取書なのである。つまり光秀自身の口から、犯行の動機と、これが怨恨を目的とする犯罪で、決して突発した精神錯乱ではなく、謀殺であって、この殺人予備罪にも該当する相談は、光秀自身の発案で、言い渡されたのであるとされている。
---引用ここまで---
ここの部分の分析が、ここでの眼目なんだろうと感じる。

---引用ここから---
 もちろん光秀の遺恨説というのは、この他にも数限りないくらいあるから、それはそれで一括して解明するにしても、さっぱり理解に苦しむのがここへ出てくる「我が身三千石のときに、頼みもしないのに一躍、二十五万石にされた」という段階である。この時点を、「岐阜城で、三月三日の節句、大名高家の前にて、面目を失いし次第」と原文にはあるが、
「高家(こうけ)」というのは、慶長十三年十二月に徳川家康が関白二条康道と相談して、持明院の末孫の大沢基輔と、足利氏の裔の吉良義弥をもって、それにあてたのが嚆矢とされ、のち江戸幕府の職名になったものである。ところが信長が美濃井の口城を奪って、岐阜城と改め、そこにいたのは永禄七年から天正四年二月までである。すると、ここ江戸期までに三十五年間という最低のギャップが生じる。
 つまり高家などと呼ばれる者が、岐阜城にいた筈はない。まだ、そう呼ばれる者は作られていなかったからだ。
 次に三月三日の節句というのもおかしい。
 これは桜井秀の<雛祭考>に<時慶卿記>を引用して説明されているように、
「上巳の節句は寛永六年三月三日より始る」か。
 又は「お湯殿日記」を史料にする有坂与太郎の<雛祭新考>に、「上巳の節句の始りは、寛永二年三月三日」の、どちらかが正しく、いずれにしろ信長時代にはない節句で、これは江戸期からの年中行事である。
 それまでは宮中に於て(周や魏の風俗で三月三日に汚れを川へ流す風習をうけつぎ)この日を「曲水宴」といって酒宴にしたり、漢詩はつくっていたが、大陸の行事なので、節句とは決して呼んでいない。また武家は絶対に、この遊びはしていない。つまり、三月三日を節句にしたのは徳川秀忠の五女の東福門院が、後水尾帝の中宮になられてから、関東の「おしら神」を祝って白酒をあげ(白木のままで彩色したのが子消し神)そして白桃を供えだしたのは、信長の死後四十余年経過したあとの事である。
 それでも江戸初期は、まだ「三季」とよばれ、「節句」ときめられていたのは、「五月五日の端午(たんご)」「九月九日の重陽」「十二月二十一日の歳暮」の三日である。
 つまり「三月三日の」が節句になったのは、ずっと後年の江戸中期以降のことであるから、この<川角太閤記>が、「元和七年から九年までの著作」とする校注者の説は可笑しい。三月三日の節句だとか、高家といったような書き方からみれば、これも、天和、貞享、元禄の頃に一大流行をした古書贋作ブームによるもの。やはり源内たちのような偽作者達が、せっせと書いて、それを故買(けいず)業者が、わざと灰汁につけて古色蒼然とした用紙に、筆耕させて仕上げたものだろう。なにしろ天下に浪人が溢れていて、コピーライターに不自由しなかった時代である。
 だが、右から左へ、その通りに筆写するのは、つい億劫でリライトした結果が、
<桂川を渡る場景>みたいに馬の藁沓の紐を切ったり、雪沓を夏にはかせたり、当時は桂川に渡橋があったから、光秀の頃に間違えてしまったようである。
 なにしろ、この<川角太閤記>が偽書であると、明確に指摘できるのは、その書かれたと称せられる元和七年から寛永二十年までの時代は、明智光秀の家老斎藤内蔵助の娘阿福が「春日局」として天下の権勢を振っていたからである。その彼女の父のことを書いた物が、写本とはいえ流布できる訳はあるまいと考えられる。
---引用ここまで---
このようなことから、この<川角太閤記>は、春日局の死後(元禄から天保時代)に成立した偽書であると、八切止夫氏は結論づけているようです。
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
【Font & Icon】
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

kaneya

Author:kaneya
もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。
真似してもいいけど、その場合は自己責任でお願いします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
趣味・実用
3142位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
700位
アクセスランキングを見る>>
カウンター
2014年5月19日カウント開始