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『信長殺し、光秀ではない』 25


八切止夫氏は川角太閤記において、登場人物について追求しています。



真実は雲なのか・講談(164~172ページ)

<細川家記>では、信長に仕える前に信長に仕える前に溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら五百あまりの家臣を持つ身分で、江戸期なら浅野内匠頭より上の十万石くらいの身分だそうです。
---引用ここから---
 と思うと、また忙しく<川角太閤記>では、「三千石から一躍俄かに二十五万石拝領仕り候とき、人手がないから他からスカウトしたところ、信長に叱られ続けた。よって、我慢ならぬから謀叛をするのだ」と光秀自身の口から宣言をさせている。
---引用ここまで---
とのことだが、光秀は元々家来を五百余りもいたのだから、ここはおそらく川角太閤記の創作なんでしょう。怨恨説の一角はこれで崩れていると感じます。

---引用ここから---
<浅野旧侯爵家史料>によると、天正十一年に、「江州坂本二十一万石のところ、城代として二万石を拝す」という浅野長吉時代のものがあり<亀田高綱記>では二万二千石とある。つまり旧坂本領は二十万石位らしい。
 そして丹波亀山城主羽柴秀勝(信長の子)天正十二年突然変死したあと、前田法印が伜の前田利勝に先だち五万石にて亀山城主になっているから、その合計で二十五万石割り出したものと想像するが、それは後年の話である。
 江州坂本の支城でさえ二十万石の余を拝領している明智光秀に、「本城として丹波亀山旭城」をもたせる時に、支城の四分の一以下ということはない。丹波丹後に跨って、その頃やはり三十万石以上はあった筈である。
 つまり天正十年当時の明智光秀は五十万石以上と思えるのに<川角太閤記>は、後年の、
<慶長分限料>や<伏見城作事割当表>の石高から割り出して、すっかり間違えている。
---引用ここまで---
なんというか、怨恨説のために、光秀の身分を操作したのかなと感じさせますね。

---引用ここから---
 さて<川角太閤記>では、光秀が「人一円も持ち合わせず」つまり、目星(めぼ)しい家来が一人もいないのでと言わせているが、光秀と最期まで生死を共にしている三宅藤兵衛や溝尾庄兵衛にしろ、昔からの家臣である。
 ところが<川角太閤記>には変な家来が現われてくる。まず最初はその溝尾と、斎藤内蔵助を二つ合わせて、二で割ったような、「溝尾内蔵助」という人物である。初めの内は別々に書いてあるから、二人のことかとも思うが、それなら、溝尾や斎藤とか、庄兵衛内蔵助と併記するべきなのに合体させているのは何故だろうか。なにしろ筆頭の名前からして、江戸後期に流行した講釈の「湖水渡りの明智左馬助」である。実存は「明智秀満」で、これは荒木村重の嫡男新五郎の許へ嫁にいって戻ってきた光秀の長女の婿である。
 さて怪人物の溝尾内蔵助が言うのには、「目出たき御事を思召されました。では明日からは上様と仰せ奉れるでしょう。さて今日は、夜が短かいから急いで本能寺を五つ前に片づけ、それより、二条の御所をお討ちはたしなさったら、ごもっともと思います」
 と賛成している記述が出てくる。だが二条御所へ、信忠が妙覚寺から移ったのは、実にこの六時間あとの午前八時である。当時は、まだ行ってはいない。
 千里眼でない限り、予測ができる筈はない。だから怪人物であるとしか言いようもない。なにしろ御所に当時いられたのは誠仁親王なのだから、信長を倒したついでに、二条御所に居られる皇太子も亡きものにし、光秀を明智帝にしようという魂胆なのであろうか。どっちみち、出鱈目もよいとこである。
---引用ここまで---
(結果)を先に出して、それに話を結びつけて行った結果、わけがわからなくなるのだろうと八切氏は推測しているみたいです。なにせ江戸期の制作物ですから。

---引用ここから---
そのくせ、一方ではリアリズムぶって、
「沓掛の在所にて兵粮(ひょうろう)をつかい、馬を休ませてから『味方の者で本能寺へ注進する心いやしい奴が居るかも知れんから、見つけ次第に斬りすてえ』と天野源右衛門を尖兵(せんぺい)隊長にして先行させた。天野は東寺辺の瓜畑の百姓を、もし本能寺へ知らせに行かれては、まずいと追いかけまわして、二三十人も切りすてた。別に罪や科(とが)はないのだが、天野は(武者の心得)として念(ねん)のために処分したのだと、筆者はうけ給って(感心した)」と結んでいる。
 いかにも本当らしい。だが尖兵として早駆けを言いつけられた者が、徒歩で、てくてく行くとは考えられない。乗馬だろう。すると、(うり畑の百姓が、彼らより早く本能寺へ注進するのを気遣った)というからには、きっと百姓も馬にのって畑仕事をしていたのらしい。しかし、そんなばかげたことはなかろう。
 だが、そんな百姓よりも、続いて並んでいた細川番所の方は、どうしたのであろうか。
 江戸期に入って細川は九州へ転封され、豊前小倉から寛永九年十月には、肥後十二郡、豊後三郡に加増移封され、肥後熊本五十四万石になっていたから、この本の筆者は、天正十年六月二日には、(この一帯が、洛中警護のために当時丹後宮津城主だった細川の飛び地支配になっていて)細川番所というのが並んでいたのを、まるっきり知らなかったのでは、あるまいか。罪もない百姓を殺すより、番所の者を始末しなければ、大変な事になる筈である。
 ところが、そんなことは一行も出ていない。
---引用ここまで---
切羽詰ったときの判断はおかしな判断になることもありますが、もしそうだったのなら、番所からの通報で、本能寺の変が失敗したと思います。でもそのような事実(番所からの通報)はまったくありません。

---引用ここから---
 だが、出ていないには出ていない訳がある。この天野源右衛門というのが、これまた明智左馬助同様に、江戸後期の張り扇から叩き出されてきた人物である。後述もするが、「あいや暫らく、お待ちあれ、右府さまとお見上げ申して、御首級(みしるし)頂戴」と大身の槍をつきだし、信長の肘に傷をつけたところを、「あいや推参なり」と前髪だちの花も恥らう美少年の森蘭丸に邪魔をされて、怪我をして階段から、ころげ落ちる安田作兵衛という髭もじゃの五十男が、この男だそうである。
 講談では、安田作兵衛が九州の立花家へ奉公したときに、世をはばかって、天野源右衛門と名を変えたことになっているが、<川角太閤記>では、早手廻しに、まだ本能寺へ赴かぬ先から名を改めている。講談を利用しても、結果をさきに出している一例である。
 さて昔の江戸時代の辻講釈というのは、連日、読み続けて「さあ、あとは明晩のお楽しみ」と客を引っ張って行かなくてはならなかったから、信長も死に蘭丸も死んでしまう<本能寺>の続編に、仕組んだのが、傷はさせたが、命は助けておいた安田作兵衛である。
 これを天野とかえ、立花宗茂の家来にして、次の読物にしてしまった。おかげで現在なら、まだ高校一年か二年の宗茂が、張り扇のおかげで豪傑になり、やがて朝鮮の役になると、
「朝鮮碧蹄館、天野源右衛門と十時(じっとき)伝右衛門との一番槍の争い」という講釈になる。
 正確にいうと、本能寺の変後十七年たっているから、五十歳の彼だって六十七歳のわけだが、そこは講談だからアンチ・リアリズムで勇ましい。
 だから講釈で相当にあたったらしく、「天野源右衛門覚書」という当時の赤本も幕末に出たくらいである。
 その<覚書?>なるものによると、源右衛門を主にする立花宗茂の二千か三千の兵が、「明軍三十万を斬り殺した」と面白可笑しくかいてある。一人が平均百人を斬ったことになるが、テレビや映画のジュラルミンの刀ではあるまいし、そんなバッタバッタとやれたものであろうか。
---引用ここまで---
織田信長の桶狭間は、最初降伏したのに、雨で火縄銃が使えなくなったところで、反撃に転じたというのが八切説です。約束を守らず裏切って勝利です。でもドラマではそんな信長はみたくない。当時の講談もそんなところがあるんでしょうね。

けっこうこの後もいろいろ興味深いことが書かれていますが、偽書と考えるしかない<川角太閤記>、本ブログではこのくらいにしておきます。

次は、<川角太閤記>の本能寺関連部分の原文(172~176ページ)が引用されていますが、省略します。

ふう、ようやく半分まで読んだぞ。
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