もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

しばらく読書を休んでましたので、

八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』の、紹介した章を簡単に纏めて、次回以降に続けたいと思います。



・てきは、本能寺
時代小説の信長の最後は、「こんな風に壮烈きわまりない敢闘をしてから、潔く、人事をつくしてのち、従容として死についたろう」となっているが、大部分の資料がそうなので作家も(読者もかっこいい信長の最後を期待しているから)それに従っているからであるが、資料の大部分は秀吉・家康の時代や江戸時代中期以降のものが多くすべて焼き直しなので同一なのは当たり前である。小説のような信長の最後は信用出来ないということが書かれている。また光秀の実態も誤解されていて、信長と出会ったときには信長よりも裕福な武将であったと言うことが書かれている。また当時のイエスズ会は、耶蘇教(どうもこの訳語だとプロテスタントの方を指すらしい。)ではなく、天主教(わかりやすく言えばカトリックに分類されるらしい)であるということも書かれている。そして、大雨の後だったのに、全焼して骨も殆ど残らない状態だったので、イエスズ会が火薬で爆殺した可能性についても触れている。

・光秀にはアリバイがある
記録では光秀が本能寺(京都)に現れたのは、午前9時から午後2時までのことで、本能寺の変は、完全に終わっていること、本能寺を囲んでいた兵は、信長により光秀に付けられていた武将たち(今まではそもそも光秀と一緒に行動はしなかったと考えられていた兵団)の可能性の指摘、イエスズ会は、信長がマカオに出航して、宣教師を通さずに火薬を手に入れること(同時にそれはマカオへの武力侵攻)と勘ぐった可能性に触れている。
また、江戸時代の資料については、源内某という贋作者がいたことを指摘し、江戸期の資料の大部分は贋作の可能性すらあることにも触れている。その証拠としてか、本能寺本丸からは、光秀の馬印、白紙のしでしないは小さくて見えるはずがないということを説明している。

・森蘭丸は美少年か
森蘭丸(正式には乱丸)は、容貌魁偉と言われた「鬼武蔵」こと森長可(ながよし)が兄である。下の弟も元服後の名のりがあるから、二十六・七歳くらいと考えられる。当時なら十分中年であろう。その彼が美少年になったのは、明治以後の何度かのブームのため。
最初のブームは終戦時までのもので、少年兵募集のためと説明している。(ついでに、桶狭間の戦いは、明治以後の軍隊が寡兵で大軍に勝利した戦いを探している中で重要視されるようになったことも説明している。)
明治から大正の時代は、稚児趣味の流行ったホモの時代だったからと説明されている。そのため、十五・六歳くらいの森蘭丸が定着したと考えているようである。
そして、新たな謎として、近くにあった大名屋敷から何故増援が来なかったのかとか、そもそも信長は何を目的に本能寺にきたのかという話題に移っていっている。矢切氏の分析は、中国へ出陣するに当たり、今日にある何かを一掃するために本能寺にきたと分析している。茶会が目的ではない。公卿衆が本能寺にきたことはもしかするとそれに関係あるかもしれない。

・真実は雲なのか
信長関係の資料について、これは贋作であるという追求をしている。
追求されたのは、
<太閤さま軍記のうち>の中の<織田信長の最後>という短い一章。太田牛一著と言われているが疑っているようです。
小瀬甫庵の<太閤記>。まるっきり講談であるとバッサリ切って捨てている。
田中吉政の家臣の川角三郎右衛門の<川角太閤記>。小節などにはよく引用されている。しかし、あちこちにおかしなところがあり、江戸の太平期の贋作のようである。

ここまでは読みました。

こうやって要約してみると、大きなタイトルに関連することはすぐに終わって、その他の話題に変わっていっています。その点がどうも読みづらさになっている感じがします。まさかこの作品は、口述筆記でしょうか?

次回は、
・信長は腹を切らない
からです。



おまけの動画。
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