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『信長殺し、光秀ではない』 26





信長は腹を切らない・合戦

山科言経(ときつね)の六月二日の記事から判断すると、夜の暗いうちから本能寺を取り囲んでいた一万三千の部隊は、午前四時から少なくとも午前七時半頃まで(おそらく消火活動もしないで)囲んだままで、焼けてしまってから、信忠の行方を探し、二条城方面へ向かったことになる。あの小さな本能寺に対しては、こんなに人数は要らないので、なぜ二方面同時侵攻作戦を行わなかったのか八切氏は疑問を持っている。
また、二条城は、信長自身が(人夫が通行人の婦女子をからかったことに腹をたてその人夫を成敗したくらい)熱を入れて作ったために、後に義昭が叛旗を翻したときに、信長は四方から攻撃したが落ちず、やむなく正親町帝に勅使を出してやっと開城させたというくらい堅固な城である。何故すぐにそちらへの備えをしなかったことのかということである。そして、そのような堅固な城であったのに、午前中には二条城も全焼してしまっている。(誠仁親王は里村紹巴が見つけてきた荷輿に乗って女官らとともに脱出している。)
そして、どちらも最初はのんびり構えているが、最後は皆殺し。(二条城では、信長の弟の有楽斎が戦闘前に脱出しているが、ほぼ全滅している。)戦闘の最初と最後が違いすぎる点も八切氏は疑問に思っている。

当時の実際の戦闘は、殲滅戦は殆どなかったことも説明されている。

----引用ここから----
 当時の日本人同志の国内戦というのは、講談本などでは誇張して凄じい戦ぶりをいわれているが、尼子と毛利の般若谷の決戦などでも、
「尼子方の武田信実は郡山城を襲わんと、熊谷、香川の寄手を突破し、毛利元就の吉田城へ侵入。元就の臣、国司元相らは、これを迎え討って、般若谷にて決戦を挑み、敵数人を討取り、大いに之を破る」と<国司文書>や<毛利元就書状録>にあるし、<元就感状集>や<元就卿郡山籠城日記>によれば、
「元就の先手岡宗左衛門光良は宍戸元源の軍勢と共に、尼子方の宮崎長尾を攻め、伯耆の南条、小島、出雲の高橋、安芸の吉川興経の軍と各所に転戦し、岡の軍勢は、敵首十二級を獲て、敵を悉く敗退させる。毛利方においては手傷を蒙りし者、高新五郎以下十余名あれど、死者は一人もなし」
 といった具合に、戦死者は零という合戦でさえ、あけくれ戦の頃は、珍らしくはなかったのである。
 現代よりも戦国時代の方が人命は尊重されていて、「首代」さえ払って「落し前」をつけたら、むやみに殺人はしていなかったようである。また、人口が尠(すくな)い頃なので、双方で殺掠しあっていては、人手不足で、どうともならないから、そこは互いに考えて戦をしていたものらしい。
 ところが、この本能寺にしろ、二条御所にしろ、これは「みな殺し作戦」である。

 おなじ日本人同志の間だったら、こんな酷いことはない。信長だって、宗教戦争のときは仏門の者が、進んで狂信的に向ってくるから、余儀なく大量虐殺をしているが、普段の戦では、あまり殺しあいはしていない。
 どうも、この殲滅(せんめつ)戦は、これは、どうも「日本人対外人」といった感じがする。
----引用ここまで----

そういえば昨年年末今年1月にこんな漫画がコンビニに並んでいました。

なんというか、人間のエゴが丸出しになっている時代劇で、爽快感はまったくない話でした。



おまけの動画。

レキシは関ジャムの番組で初めて知ったんですが、このライブでは、なんと上原ひろみ(レキシネーム:オシャレキシ)が参加。どうもお互いにあんな曲やこんな曲のフレーズを入れすぎたため、権利関係の問題でDVD化はおそらく無理とのこと。とっても残念。
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