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『信長殺し、光秀ではない』 29





信長は腹を切らない・ダワイ(192~197ページ)

---引用ここから---
 さて、なんといっても不可解なことは、六月三日以降、つまり、その翌日以後も引き続く、「洛中騒動不斜」の連続である。
 従来の歴史家の解明では「信長の遺臣狩りをして、捕えては六条河原で斬殺した。その騒動が、ずっと続いて、洛中は上を下への騒動だった」というのだが、洛中どころか、六月二日までは誰彼なしに、みな信長の遺臣の筈である。
 叛乱軍側の叛徒探しならわかるが、一人残らず信長の旧臣であって、その連中を明智側では、味方に抱き込もうとしているのに、どうして、全部を敵に廻してしまうような「遺臣狩り」などするわけがあるだろうか。
 これは、はっきりいって「信長探し」であろう。なにしろ、まるっきり残されているものがないから、「事によったら本能寺に泊まって居られずに、どこか、他所で外泊されていたのではあるまいか」と、手分けして明智側で洛中を探し廻っていたのだろう。
 ということは、「信長の死を確認できずに、狼狽していた明智光秀」の方は、なにも、犯人ではなく、「遠隔の土地にいたとしても、信長の死を、はっきり知っていた連中」及び、同日、遠くへ逃げのびてしまった者の方が、これは怪しいということになるのではなかろうか。
---引用ここまで---

そして、光秀側が信長の死を確認できなかったのは、光秀軍はただ本能寺を囲んで見ていただけで、攻めかかっていないからと八切氏は考えている。なるほど、これなら、弓一丁、槍ひとつで何時間でも耐えることは出来る。何しろ攻めかかってこないのだから。そして、光秀側が信長の死を確認できなかったのも理解できる。

---引用ここから---
 どうして本能寺の方は、あくまで弓も射らず、槍もふるわず、全然、戦っていなかったかというのは、時間からも割り出していける。<当代記>によれば、二条へ信忠と一緒について行った連中というのは、坂井越中、団平八、野々村三十郎、赤座七郎左、猪子平介、菅屋九右父子といった、自分から槍をふるって奉公し、ようやく生き残って何万石かの大名になった、いわば立志伝中の武者である。
 当時の言葉でいえば「武辺(ぶへん)者」と呼ばれた豪傑である。この一騎当千の連中が約五百人で篭城したのが「武家御城(ぶけごじょう)」と呼ばれた洛中唯一の要塞の二城城。この方が、午前七時から午前八時までの間に攻撃され、午前九時には落城しているのに、壕もなく溝で囲まれ塀とてない本能寺の信長が、鉄砲一挺の供えもないままで午前四時から午前七時又は七時半まで持ち堪えられたということは‥‥
 対比さえしてみたら、その訝しさは、すぐにも判るものである。
---引用ここまで---

そして、日本側の資料は、権力者で改変された可能性や、陣内グループによる贋作の可能性もありますから、八切氏は宣教師側の、フロイスの日本史の資料を検討していきます。



おまけの動画。

原曲では確かパンフルートも使われていたような気がしますが、そこのところは、尺八で表現。いいフレーズは楽器が違ってもいい。
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