もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 30



前回のダワイでは、日本以外の資料を調べる必要性を述べ、フロイスの記録について少しだけ触れています。

---引用ここから---
(一部略)さて、フロイス記述に係る<日本史>には、信長殺しは洩れてはいるが、そのフロイスが、九州の口(くち)の津(つ)港にあって、五畿道各地の師父(パードレ)によって報告されてくるものを整理して、彼や、その同僚が転写をし、<日本ゼズス会報>として、マカオへ送っていたものの中にはこれは入っている。
 しかし、これとても、正規の年一回の、<日本ゼズス会一五八二年(天正十年)年報>ではなくて、何故なのか。そこは不明だが、<日本ゼズス会年報の追信>として別稿として扱われている。つまり、天正十年の年報を纏めてしまって、マカオへ発送した後になって、信長の、この事件が持上がったから、第二報として送ったという形式である。
 もちろん当時、彼等の用いていた太陽暦と、日本の太陰暦は違う。といっても、問題の六月二日は、当時のヨーロッパ暦でも六月二十一日にすぎない。
 どうして一年ごとに一回ずつ出されていた年報が、この年に限って、半年前で、しめ切りになって、「第二報」の追加版となっているのか、不思議である。
 しかし実際は五月の記事も入っていて変である。そして、この追加版の末尾を引用し、それに註をつければ‥‥
ーーー引用ここまで---

ゼズスはおそらく、ジーザス、つまりイエスのことでしょう。そして、信長殺しが第一報になかったことはもしかしたら、宣教師たちも信長殺しに関係しているのではと思わされます。



信長は腹を切らない・会報(197~201ページ)
---引用ここから---
「当都〔何処か不明、九州の口の津港か〕において、日本の至宝がなくなったといい、日本人自身の手で葬り去ったのだと話して喜んでいる者さえ少なくない〔註・ここが重点である。喜ぶ者とは誰か。それこそポルトガル人を主にした師父(パードレ)達をさすからである〕。この世においてのみならず、天においても勝(まさ)るものはないと考えられていた人物が〔註:師父達にすれば、天にまします神が唯一である。それなのに信長は、それを冒涜して、自分こそ全智全能の神であると宣言していた。紀元前においては、バビロンの神に対立した国王はいたが、この十六世紀の時点において、『イエス・キリストより自分の方こそ天帝である』と言い出したのは、古今東西、信長一人きりである。つまり織田信長たるや、天主教徒からみれば、それは呪わしい悪魔(ジャボ)以外の何物でもない。ここが、本当のところである。いくら汝の敵を愛せよといっても、遥か故国を後にして日本列島へきている神々の使徒と、自負する者にとって、その天帝をないがしろにする地上の暴君を愛したり赦せる筈はありはしない。俗界でいえば、これは商売敵であるからだ〕かくの如く信長は、不幸にして哀れな死をとげ、彼におとらず傲慢であった明智も、また同じく不幸な終焉をとげた。だが前述した通り、信長が、まれなる才能を有し、賢明に天下を治めた事は、これは確かな事実であって、哀れ彼は、その傲慢さの為に身を滅ぼしたのである〔註・この、日本人が読んでも抵抗を感じさせない書きぶりは、なんと言ったらよいのだろうか。信長の死を喜んだ事を明瞭に冒頭に匂わせながら、続いては、さも同情的に、また尤もらしく書いている筆致は、いかに解釈すべきなのだろうか。再言すれば、信長は、マカオよりの火薬が入手したさに、初めの内こそ天主教にはシンパであった。しかし、この時点に於ては、彼は既に偶像崇拝者。といっても、単なる仏体や神体を拝むのではなく、自分こそ天帝であると、師父達の説くイエス・キリストを凌駕する至上の神に、自分はなっていたのである。異教徒(ゼンチョ)などというものではなく、師父からみれば、不倶戴天の悪魔(ジャボ)なのである。それなのに、これが、師父たる者の悪魔に対する者に対する言葉であろうか。この作為、この不自然さは何を匿しこんでいるのであろうか〕。毎日、新しい事が起こっているが、あまり長くなるので次の季節風期に譲る。〔註・テレビの番組欄ではあるまいし、そんなに毎日変わってはたまらない。しかしこれは、六月の出来事を追信の恰好にしたことを、さも自然に見せかけるように、信長の死ぐらいな新しい事は、次々と毎日起こって珍しくもないと、ごまかしているのである〕われら一同、尊師の聖なる犠牲において推薦せられ、また祝福をうけんこと願い奉る。
  一五八ニ年 11月5日 ルイス・フロイス」
---引用ここまで---

八切氏はゼズス会の公式文書である<日本ゼズス会>にフロイスの私信がそのまま載っていることに疑問を持っている。フロイス自身も編集員の一人だが、他の会報には署名はつけていないのにこの追信会報だけは署名が有る。八切氏は、わざわざこんなことをしたのは、私信に信用を持たせるためではと疑っているようである。ちなみに、原文はマカオで消失してしまっているようである。そして日本の歴史学者はフロイスの名前に騙されていると考えているようである。

---引用ここから---
 ところが、中心になっている本文たるや、これは日本の<信長公記>に輪をかけたものである。しかし<中公新書南蛮史料の発見>などでは、
「キリシタンらが、私にこう話した……というように一人称で記したことが、怪我の功名というか、この唯一の報告書を、絶対的に権威あらしめる結果となった」というが、はたしてどうであろうか。私には、拵えすぎが目につきすぎ、唯、信頼できるのは「信長が、髪毛一本残さず、灰塵のように、ふきとび消滅した」という情景描写の一章節だけと思う。
 なにしろ、当時の京都管区長はオルガチーノであるに拘らず、何故なのか彼は、沖の島へ遁れてしまう。そこで、「止むなく代理に自分が報告します」といった形式で、一司祭にすぎなくて責任者でもないポルトガル人のカリオンが<私>という一人称で、この報告書を書き綴っている。
 どうも腑に落ちない。オルガチーノは、その後、秀吉の宣教師追放令が出たときも、なぜか彼だけは特に黙認の恰好で、その儘日本に滞在し、慶長十四年に長崎の天主教会堂で昇天しているが、この天正十年の時点。沖の島といえば、京より遥か遠い九州の涯なのに、どうして、そんな遠い所へ、交通機関もない当時、徒歩で京から下関まで歩いて逃げ、そこから九州へ海をわたって、逃亡したのか理解に苦しむ。
 なにも、京から脱出するんなら、すぐ近くの高槻や伊丹、茨木に、和田とか高山、中川といった切支丹大名が、びっしりと目白押しに並んでいたから、オルガチーノ一人ぐらいなら、何処の城でもすぐ匿(かくま)ってくれ、手厚く大切にされた筈である。
 それなのに、そこを通り越して、九州の涯まで逃亡したという事を、フロイスが書いているということは、ここに二つの答えを提示しているのであるまいか。
 一は、「オルガチーノが、秀吉に何か依頼されて六月二日に、何か重大な事をしてしまった。そして、もし、それが発覚したら、自分一身の危険だけでなく、ゼズス派の教会や信徒みんなに迷惑を及ぼす。だから日本式にいうならば、長い草鞋(わらじ)をはいて逃げのびた」
 二は「この、フロイスの名入りの、一五八ニ年ゼズス会年報の追加版は全くの偽物である……ということは、或る種の秘密の漏洩を防ぐために、日本から当時送られてきた師父たちの報告はみな消却してしまって、日本へ行ったこともない人間の手によって、これは贋作された。だから、日本の地理に詳しくない人間が、沖の島というのを琵琶湖に浮かぶ竹生島ぐらいのつもりで書いてしまい、距離感を失念していたのが、その例証である」
---引用ここまで---

オルガチーノは、現在では、オルガンチーノと表記されるのではと思いますが、この人物が本能寺の変の最中には京都から逃れていることが気になります。手下に命令して、自分は疑いの掛からない場所でアリバイを作っていたのかと下世話な話が好きな私は勘ぐってしまいます。

---引用ここから---
 さて、この追加版には、こういう記事がある。
「安土に總(そう)見寺という社をたて、信長は自分から神と仰がれるようにと望み、神体を祭壇に飾り五月の彼の誕生日には、参拝する群衆で、ごった返した」
 という、私共が読めば、たいして奇異は感じはしないが、天帝を唯一の神と仰ぐ天主教徒の師父たちにとっては、まことに天地いれざる悪魔の所業を、まっ先に書いて信長を弾劾している。つまり原因結果論の、これは原因というところなのだろうか。さて、当日の事である。「六月二十一日(日本では二日)、まだ夜も明けぬ頃、ミサを行うため祭服に着替えていた私、つまりカリオンは急報に接した。〔註・誰から、そして何処からは、書かれていない〕「そして銃声が聞え、火の手が上るのが見えたのである。新町通りに接した南蛮寺から、西洞院通りの現場までは目と鼻だった〔註・雉も鳴かずば、撃たれもすまい。というが、こう言う不条理を書き残しておくから、私の疑惑を招いたのである。六月二十一日の天候の夜明け前と言えば、午前四時である。いくら早朝のミサといっても、服を着替えるのには、まだまだ早すぎる。これは急報を知らせにくる使徒の来るのが判っていたからこそ、手さぐりで灯をつけ着替えていた。次に、「暫くして」なら、まあ譲歩もできるが、「そして」とある。すぐである。銃声がして火の手が上がったというと、これでは午前四時半には、本能寺は炎上したということになる。それでは、この包囲軍が二条城に現れるまでの、以後三時間半というもの、この謎の上洛軍の首将達は、この南蛮寺へきて、カリオンにミサをしてもらい、神の祝福でもうけていたと言うのであろうか。それも距離が遠くて、はっきり判らないというのなら別だが、新町通りの裏通りが西洞院通りである。つまり南蛮寺の裏口から本能寺正面までは一町どころか、その半分もないことを、カリオン自身も、これを認めている。だから余計に訝しい。謎以外のなにものでもない〕
---引用ここまで---

流石に夏至の近くなった6/15付近では、秋田県の北の外れにある我が家では、朝4時では日の出前ですがそこそこ明るくなってきますが東経が違う京都ではどうなんでしょうね。6/2頃の京都の朝4時は矢切氏の言うように暗い時刻なのか私はわからないので知りたいなと思ってます。

ほとんど老人になりつつ有る我が家周辺では、年金暮らしのため電気代を節約するためか日の出とともに起きて活動し、夜8時ちょっと過ぎには寝てしまう、うちの親父みたいな人間が、電気照明なんか無い戦国時代はほとんどだったと思います。ですから、京都での6/2の朝4時の明るさがほんとに気になります。

それはさておき、宣教師側も信長殺しに関係していそうな感じが濃厚になってきてますね。



おまけの動画。

アップした人の紹介文によると、

足軽先生のラップをフィーチャーしたナンバー。ラガマフィン風のラップは先生自らのアイデア。 この曲では物事を鵜呑みにしちゃいけないよってことを伝えたくて。歴史には事実とは違う出来事が混じってたりするし、鎌倉幕府が開かれた年ひとつとっても、いろんな説があるんだよって。

とのこと。
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