もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 31


これが原本。


これが私の手に入れた本。


これが、私が手に入れた本の底本。



信長は腹を切らない・剽窃(201~208ページ)

カオリンの報告は続きます。

---引用ここから---
 次に、また詳細に繰返して、
「信長は都で宿泊する慣わしであり、坊主をみな追出し手入れをよくした本能寺という寺の周囲を、三万人が完全に包囲したが、街では、まったく意想外な出来事なので、何か騒動でも起きたのかと考え、その報らせを伝えた。
 なにしろ、わが南蛮寺の教会は、信長の所から、ほんの僅かしか離れていないから、キリシタン達はやってきて、ミサのため着替えていた私、つまりカリオンにむかい、寺で何か起こり、重大事件と想われるから、ミサを待つようにといった。すると間もなく、銃声が聞こえ、火の手があがって、つぎに喧嘩ではなく、明智が信長に叛いて彼を囲んだのだという知らせが来た。明智の兵は寺の木戸の中から入った。そこでは、このような謀叛を夢にも考えず、誰も抵抗する者がなかったので、彼らは更に内部に入り、信長が手と顔を洗いおわって、手拭でふいている背へ矢を放った。しかし、信長は、この矢を抜いて薙刀(なぎなた)とよぶ柄の長い鎌のような形の武器をもって、しばらく戦ったが、腕に弾創を受け、その室に入り、戸を閉じた‥‥
 ある人は彼は『切腹した』といい、他の人達は『客殿に火を放って死んだ』という。
 だが、吾らが知りえたことは、諸君〔バードレ諸君〕が、その名を聞いただけでも戦慄〔註・恐ろしくてとか、乱暴だからというのではない。悪魔(ジャボ)とノブナガとは、同義語だった点において〕した人が、髪一本残さず霧散消滅した事である‥‥」
---引用ここまで---

<信長公記>の「本能寺にて、お腹召され候こと」とほとんど内容が同じであるため、本当らしいと扱われているが、八切氏は<信長公記>を元に創作されたものだと考えている。

怪しげなところとして、
---引用ここから---
 当時のキリシタン信者というのは、午前四時頃から、ミサをうけるために教会へ集まってきたものだろうか。なにしろ初めは、
「重大事件らしい」と予報したものが、後になって「あれは、喧嘩ではない」などと言いにくるのは不自然すぎると考える。
 それに、このとき本能寺内部にいて、外へ脱出できた者は一人もいないのに、いくら、すぐ近くの三階建のバルコニーにカリオンがいたからといって、信長が顔を洗って手拭でふいていたから、背中を矢で射ったと、まるで実況中継みたいな書き方は、信用のできぬところである。
「講釈師みてきたような嘘をつき」という言葉あるが、これでは「宣教師みてきたような‥‥」と言わざるを得ない。

 なにしろ彼らは信長や諸大名に面接はしているが、日常の起居は共にしていない。
 だから、こういう叙景描写をするが、信長の頃から幕末まで、武家の殿様や奥方は、宣教師の考えるように、自分で洗顔したり用便の前後の始末はしないものである。小姓や腰元が、耳盥(みみだらい)に水をくんできて、一人が洗い、一人がふき、一人が、いつでも殿さまが手をかけられるように、刀の柄をさし出している。排泄のときは、左右から裾をめくって持ち上げ、背後の者が拭く仕度をして待っていたものである。
 と言って、これは人使いが烈しいとか、横着というのではない。自分の手を用いて、それに掛かりきっていて、もし敵に襲われたら大変だから、決して自分の手はふさがなかったのである。用心のための自衛行動である。

<カリオン報告書>をみると、まるで信長が洗面所へ立って行って、そこで一人で顔を洗い、外部へ背を向けたところを射られたというが、こんな西欧型の洗面の仕方は、野戦の時でも、武士たる者はしてはいない。
<相州兵乱記>でも「御寝なされしが、瞑られずと起きらる。侍臣ただちに、飼馬桶の新しきに水をくみ、幕内に運び四人がかりで手水(ちょうず)をあそばされ候」とあるし、
<越国春秋>にも「きんじの者が左右より顔を拭き奉れば、早よとせかされ、長尾をここへ呼ぶようと政景を召さる。政景、幕外より色代(あいさつ)し」と、野営の上杉謙信が、洗面しながら姉婿を呼ぶ場面がある。
 つまり野外でさえも、張りめぐらした幕から外へは、洗面といえど一歩も出ないのが、これが仕きたりである。だから本能寺のような建物の中なら、寝所へ洗面道具は運ばせ小姓どもが、座敷内にて、御湯敷(おゆしき)とよばれた白ごま油の油紙を広げて洗顔をさせていたわけである。ついでにいうが、その為に信長は、小姓を三十人も連れて行ったのである。なにも一人で、のこのこと外部に背をさらすような恰好でカリオンに見物されに洗顔に行くのなら、小姓などは一人も不要である。
 再言するが信長は、学校の体育教師ではないから、青少年鍛練のために小姓共を引率して行ったのではない。
 自分の身のまわりをさせる必要上から、彼ら三十人を随行させたのである。
---引用ここまで---

さらに、おそらく誤訳から起こったと思われる表記についても解説している。

---引用ここから---
 この間違いから、<信長公記>で「お弓をとり二つ三つ引きたもう」とあるところを、弓と矢と間違えて誤訳した。「矢を引きたもう」つまり「射る」という固有形容詞が判らなかったから文字どおりに Atrair というポルトガル語にし、それを「引く」「引きよせる」「引っぱる」と誤訳。矢を引っぱるとは、信長に刺ったからと訳した。致命傷ではないから背中にしよう。と考えた。「それには、洗面中という事にしよう」と、<信長公記>をポルトガル訳して自作とした。筆者は、つまりポルトガル人の翻訳者は知恵をしぼって、つけたしを書き加えてしまったのであろう。
 しかしである。<信長公記>の原文では、「すでに御殿に火をかけ、焼けきたり候、御姿を、お見せあるまじきと思召され候か、殿中奥深く入り給い、内より御納戸口をひきたて、無情にお腹召され」と、なっているのは、時代も後世だし、翻訳に困ったのであろう。
 初めに本能寺は、寺(templo)だと書いておきながら、「客殿」の意味である御殿は判らなかったとみえ、これを宮殿(palacio)と訳し、「信長は宮殿の奥深くに入ってドアを閉めた。或者は切腹したというし、別の者は火を放って死んだという」と、もう初めに「火の手の上るのを見た」と書いているから、ひっこみがつかず逃げをうっているが、さて嘘というものは最後までは、つけるものではないから、ここの<信長公記>の翻訳だけで止めておけば良いものを、とうとう終りへもってきて、
「吾々が知りえたところでは、信長は髪毛一本残さずに、その遺骸をふっとばしてしまった」と、本当のことを書いてしまっている。
---引用ここまで---

そして八切氏は、フロイス署名の有る追記も後世に後から書かれたのではないかと疑っているようです。

---引用ここから---
そして、何故<信長公記>が出廻った後の時代になってから、さも、もっともらしく改まってから、それを土台とする創作するというか、脚色の年報追記が、何ゆえにマカオで作成される必要があったのか。ということになる。
 この報告書の表面の人物である司祭カリオンは、その後は名前が何処にも現れてこない。だが、天正十年の時点で本能寺から一町以内の天主教公会堂の主であり、神による全命令権を握っていた京都管区長オルガチーノは、信長殺しの時は、アリバイがあって、京都から天馬(ペガサス)にのったか、鹿児島の南端の沖の島へ行っていたそうだが、何故か秀吉の非公式の庇護をうけ、彼のみは天主教弾圧後も追放される事なくして、長崎で暮し、慶長十四年まで生きていた。
 だから、フロイス名による「この不可思議な、天正十年版という第二通信」が、慶長時の作成であったとしても、オルガチーノの申請で製造されたものなら、これは怪しむにたらないかも知れない。--中公新書の<南蛮史料の発見>の信長殺しの描写は嘘だとも言える。
 なにしろ、天正九年三月八日(洋暦)最高巡察使のヴァリニヤーノが、フロイスやロレンソーメンスを従えて豊後の日出(ひじ)港を出発し本州へ入ってきたとき、京都管区長オルガチーノは、これを迎え、二十九日に、信長の許へ拝謁に伺候するときは、巡察使の伴をし、四月十三日の安土城拝観の時も、そのお供をしている。
 そして、ヴァリニヤーノが天正十年二月二十日に日本を離れるに際し、伊藤マンショ、千々岩(ちぢわ)ミゲル、中浦ジュアンの三名。他にスペアというのか、身分の低い原マルチーニと、やはり洗礼名を持つ少年を、ふいに人選して連れだす時にも、フロイスと共に、その謀議に加わっている。
 さて、
 フロイスが<日本史>を執筆したのは天正十五年から文禄二年の間とされている。そして、
<信長公記>は、文禄五年が慶長元年に当るから、其後のものとされている。しかし、その巻十三の<無辺成敗のこと>などという一章は、そっくり以前に書かれた筈のフロイスの<日本史>にそのままで入っている。
 尚<信長公記>巻十二の<法華、浄土宗宗論の事>の一章のごときは、京都管区長オルガチーノによって、既に天正七年に九州のフロイスの許へ詳細が送られ、村上博士訳の「エーヴォラ版」では同一であると、松田毅一氏の対照表まである。こういう具合にフロイスのものと、太田牛一筆ともいわれるものが重複している点からして‥‥
 一五八ニ年つまり天正十年<日本ゼズス会年報通信>の信長殺しの場面が<信長公記>と同一であったとしても、間違いが共通していても不思議ではないかもしれない。
 とはいうものの、何故、そこまで作為をしなければならないのか、という疑問は残る。
 なにしろ、ヴァリニヤーノ==オルガンチーノ==フロイスと、三人とも、立派なのが揃いすぎている。そして彼等は信長に対しては極めて友好的でありすぎ、死後さえも、そうである、と文字では残っている。
 しかし実際において、信長たるや異教徒(ゼンチョ)どころか、自分が天帝だと自称する悪魔(ジャボ)である。天にまします唯一の神しか信じない彼らにとって信長は外道(げどう)以外の何者でもない。
 また信長も、火薬の硝石を入手しなくては困るから、外面では友好的に彼らを偶していた。だから互いに笑顔をみせあっている。
 だが、双方の内心は互いに見抜きあっている。そして天正十年五月、信長は堂々と、自分が天上天下、唯一の神であることを、誇示する殿堂をたて参拝者の人山を築いた。
 だからこそ、その結果が、翌月二日、髪毛一本残すことなく吹っ飛んでしまった。
 これはどういう事になるのだろうか。
 --だが、そこを突きつめる前に、また、これまでの犯人とされている光秀に戻らねばならない。
---引用ここまで---

自分が神になってしまえば、天皇も不要ですから、変の前日、公家衆がデモに押しかけたのかもしれないと思ったりします。
信長に敵対する勢力が居なくなった時期ですが、それだからこそ、天皇(公家)、宣教師、・・・、など、実は周りは敵だらけになっていたのかもしれない。



関係ないけど、現在の安倍政権、野党があまりにもお粗末なため、敵無しな状態です。まるで、本能寺直前の信長のような感じです。

加計学園メール問題で、マスコミも野党も安倍政権を追い詰めようとしてたようですが、私は絶対ムリだと思っていました。
メールは絶対に保管されているはずだと私は思っていました。何故かというと、文科省職員が何故こんなことをしたんだと追求されたときに、こういう命令だったでしょ、という証拠として、職員自身が追求されないために残しているはずだと。

ただ、メールでは、裁判などで証拠として取り上げられるかどうかはちょっと弱いなということも感じていました。だって簡単になりすましが可能ですから。自筆の文書なら、筆跡鑑定などで個人をある程度絞り込むことができそうなので証拠となるでしょうが、メールでは。
内容も、規制改革会議などで推し進めると決定した後なので、総理のご意向と書かれても不思議はないという評論家が居ましたが私はなるほどと思いました。

ただこのような問題が出ていることは、まだまだ安倍一強なんですが、安倍政権に対する反発が強くなってきている感じがします。



おまけの動画。
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