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『信長殺し、光秀ではない』 32





信長は腹を切らない・筒井記(208~212ページ)

八切氏は、追求資料が足りなくなったために、俗悪書とされているものも読みあさりだしたことが書かれている。

---引用ここから---
 すると、その中に<筒井家記>もあった。この本には、別に<増補筒井家記>と二種類があるが、私が、これは、この種のものの中では真実性があるまいかと、気になったのは、その前者の方である。
 というのは、勿論、光秀を謀叛人にしている点では、他書と大同小異であるが、どうも内容が、あまりリライトされていなくて、天正十年の当時に、比較的、もっとも近い時点に書かれたもののように想えてきた。
 つまり「ああである」「こうである」と尤もらしい筆で、押しつけがましい説得力のくどさがなくて、他書に比べると、少し間が抜けたような部分も多いので、こちらの判断を押し込んで読んでゆくと、非常に思い当たる箇所もすくなからず見つけられた。
 まず、この歴史家の相手にしない<俗悪書>は、「信長公より出兵の命令が出たことをきき、秀満、治右衛門、伝吾、庄兵衛、及び妻木主計頭、四王天但馬守、並河掃部助ら十三人がより集まって『信長の無道と、将来の利害』をもってとき、主人の光秀に謀叛をすすめた」
 と、これを説明している。
(秀満、妻木、並河というのは、講談で作られた人名ではなく、実在の人物なのである)
「そこで、光秀も熟考ののち、坂本城に入って、これを利三以下のおもな人々に計り、また叛逆の慫慂(しょうよう)を十三人から、しきりに受けて、ついに決心をした。そして、兵を亀山に集めることに定めて、二十七日に坂本を発して、丹波亀山へと赴いた」となっている。珍らしく、これは光秀を受け身として扱っている。そして、「信長から光秀に出兵の命令が出たのは、五月十七日であるから」決心説としては<川角太閤記>や<甫庵信長記>より、この方が、とびきり早期説をとっている。
 そして今日でさえ、光秀が犯人だとは言いながらも、「違やあしないかな」という引っ掛りがあるように、四世紀前にも、この疑問は相当拡まっていたのであろう。
 だから、
「光秀は、その気がなかったのに、よってたかって十三人の者が、彼をそそのかしたのだ」
 という、いかにも、真相らしいような説である。だが、この筆者は当時洗礼を受けていた人間と、想われる節もある。
 何故かというと、光秀を受難の聖者にみたてている筆致だからである。つまり十三人の家臣というのは、十三人の使徒を、なぞらえているような匂いがする。この中に、一人のユダが混じっていた。その男の為に、光秀は煮え湯を呑まされたのだ。つまり、「その秘密を、ここには書けないが、本当は知っているんだ」
 といわんばかりのような箇所さえも見える。
---引用ここまで---
家臣の名として出ている秀満は、春日局の父親です。謀反人の家臣の娘が家光の乳母になれたのは、光秀を説得して本能寺の変を起こしてくれたので、家康が信長から討たれる事を防いだ事を感謝したからなのかとちょっと思ったりしました。でも確証はまったく持っていませんけど。

---引用ここから---
 そして、この<筒井家記>が「俗悪書ときめつけられている理由」たるや、これは<川角太閤記>や<信長公記>が、みな、筆を揃え、「中国(備中)へ向うのなら三草山を越えていくべきなのに、東向きに馬首を転じ、老の山(大江山)へ上り、そこから京へ向かった」
 と、これが光秀の叛乱行動の第一歩で、「この方向転換こそ、計画的逆心の現れである」と、ただそれを、唯一の確証として決めつけ、光秀が備中攻めを仰せつかっているのだから、「西へ向かって進撃すべきなのに、京都へ向かったのは怪しい」けしからんと、同じように書いているのに反して、この<筒井家記>のみは、悠々と違う事を記載しているからである。
 つまり、
「備中赴援に、明智組下として出向するよう、安土より命令を受け、居城大和の郡山城を出発し、京へ向け上洛しようとしたところ、途中にて、本能寺の変をきき、信長公は、ひとまず安土へ戻られたゆえ、京へ行かずにすむと、六月二日、そのまま郡山へ引きあげ、翌三日には、筒井の砦のある大安寺、辰市、東九条、法花寺へ、引き上げた兵を戻して、そちらを守らせた」
 と出ている。つまり「筒井軍も一応は京へ向かった」と、これは各書と全然、相違するからである。
 だから「俗悪」の烙印を押されているらしい。

 しかしである。この<筒井家記>をみると、
「京都から、出陣の用意ができたら本能寺へ来い」と信長の命令があったというのは、光秀の詐称ではなく、事実ではなかったかと思われる。
 筒井順慶の軍勢に上洛するように信長からの指令が出ているものなら、その寄騎親であり司令官である光秀にも、必ずや、通達は出ている筈である。
 そうなれば、これは嘘ではない。
 本来ならば、光秀が命令受領をしてから、各管下の筒井や細川、高山の各部隊へ連絡すべきだったが、それでは間に合わないと見て、信長から各部隊宛に同文指令が出たのではあるまいか。
 と言うのは、これは六月一日の喰い違いである。
 信長は、その前日の五月二十九日に、いと手軽く考えて、(あるもの)を一掃する目的で上洛した。処が現実に於て、六月一日になると折柄の雨天をついて、招かざる太政大臣や関白らに押しかけられた。思いもよらぬデモ騒ぎである。しかも、忙しいのに、五時間も六時間もねばられてしまった。手をやいてしまった。
「大慶々々」と山科言経たちは帰っていって、自分の家で前祝いの祝杯をあげた。
 しかし信長は、忙しい最中に、なにも公卿達を喜ばせる為に上洛したのではない。あまり集まった公卿共がうるさいから、なんらかの形で譲歩したにすぎない。そこで早速、次の手段を何か考えたのであろう。それは今も昔も同じである。デモに対しては、実力行使の機動隊である。
 それを召集するために「用意ができ次第上洛せよ」と、明智を寄騎親とする出動準備中の各部隊に対し、緊急通達がされたのではあるまいか。名目は「検閲(けんえつ)」であったとしても、信長が何を一掃しに上洛したか位は、近畿管区の武将は、前もって知
っていたのだろう。だから臨戦体制で洛中へ入って行ったのだろう。
---引用ここまで---
おそらく、公家や天皇に圧力をかけたかったのでしょうか?

この後、大江山から京に向かうと、細川番所を通ることになり、隠密に京に向かうことは不可能でないかということも八切氏は指摘している。そのようなことから、信長の命令で京に向かった可能性が高いと八切氏は考えているようです。



加計問題はそろそろ収束かなとちょっと前に書いたんですが、どうもマスコミは、そのような事実は見たくないようで、青山氏の国会質疑はまったく無視されたままですね。

松居一代の件は、裏取りしているマスコミ(文春)も、加計問題では裏取りもしないし、両論併記で報道するということもない。どうもこれは、マスコミの人間は、マスコミの記事で世の中を動かしたいと考えているからではないかという、武田邦彦教授の説が当たっていそうですね。でも、マスコミの人には、そのような野望は捨ててもらいたいものです。そんな野望を持っているなら、どんどん選挙に打って出て、政治家になってもらいたい。世の中を変える役割を持っているのは政治家です。
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