もっぱら、プァ・オーディオを追求・試行錯誤してます。

『信長殺し、光秀ではない』 33





信長は腹を切らない・細川記(212~221ページ)

<筒井家記>は明智の寄騎として、京に向かったことが書かれているが、そうならば、他の寄騎、細川、高山、池田、中川も当然京に向かって進軍しているはずだと、八切氏はにらんでいるようである。そして、<筒井家記>では六月二日の早朝に出発したことになっているが、親分である光秀よりも子分である筒井がゆっくり移動するはずはないだろうから、寄騎衆は、六月一日夜半に、部下を率いて出動していたはずだと確信しているようである。

そして、<細川記>に対して厳しい追求を試みている。

---引用ここから---
つまり、この時点で、信長の動員令が下って、方面軍指令官の光秀を初め、寄騎衆の各師団が京へ、集結に向かっていると言うのに、この細川家の宮津師団だけは、
「六月三日になりて、本能寺の変を、その居城の丹後宮津城にてきく。細川藤孝及び御長子の忠興のご父子は、早速に、もとどりを切り払われ、信長公に弔意を表し奉り。このとき藤孝の大殿は、世をはかなみ直ちに隠居。一切をあげて忠興公に委ねられる」
という。
 こんなバカげたことが、はたしてあるであろうか。
 せめて、<筒井家記>のように、京へ向うための途中で「包囲されている」と本能寺の変をきき、「急いで駆けつければ間に合う」とは迷ったが、「信長公を助けに行くべきではない」と思ったから止めた。そして罪滅ぼしに髪を切った、というのなら、まだ、すこしは話にもなるが、これでは、てんで変てこではあるまいか。
「抗命拒否」つまり宮津師団だけは、のっけから信長の至上命令に背いて、出動をしなかった。ということになってしまう。
 だから、常識の線にたてば、この<細川家記>の記載は、まったくのフィクションで、細川父子も京に六月二日早朝は入っていたか、又は近づいていたかであろう。これは作為されたアリバイである。なんといっても、
「天正十年六月二日の暗い内」までは、織田信長は、絶対的な国家主権者である。
 何十年と奉公してきた者でも、その逆鱗に触れたら、前年の林道勝、佐久間父子、安東伊賀守らのように追放されている。
 それを承知の上で、敢えて命令に従わず、六月三日に到るも、のうのうと宮津の城内に父子共に、まだ居座っていたという細川父子の横着な態度を示す、この、
<細川家記>を、従来の歴史家のように全面的に信頼するとすれば、これは、とりも直さず、
(細川父子が預言者ヨハネでない限り)予め、つまり前もって「六月二日朝のクーデターを予知していた」と、しか考えられない。でなければ、当日の実行部隊である。
 前にも書いたように、老の坂のある大江山は、丹波ではあるが飛び地としてこの当時は丹後の細川領で、京への関所だから、細川番所が並んでいたのである。この領内から出兵すれば、細川父子は二日の午前中に目的をすませ、三日には悠々と、宮津へ戻って居られた筈である。

---引用ここまで---
信長の命令に反抗して、生き残ったのは、吉川英治の新書太閤記だったと思うけど、それを信じれば秀吉くらいでしょう。

細川親子が髻を切って信長に弔意を表し、光秀に味方しなかったのは大抵の本能寺の変の小説に描かれています。でも、よくよく追求すると、これは本当に信じがたいことなんですね。

---引用ここから---
 ところが<細川家記>では、原文をひけば、
「これより先に幽斎は、家老の米田(よねだ)求政(もとまさ)を京へ遣わして、信長父子の上洛、且(か)つ佐久間甚九郎の勘気赦免を喜び聞えんとせられしを、求政が、今出川相国寺門前に着せし時、本能寺の変を聞きしかば、愛宕下坊幸朝と相(あい)議(はか)り、早田道鬼斎というものを急ぎ丹後にさし下す。このとき忠興は、中国出陣の筈にて、先手はすでに押し出したりしに、道鬼斎は泥足にて広間に走り上り、文箱をさし出して、本能寺の変を告げまいらす」という事になっている。
 佐久間甚九郎というのは、天正八年大坂本願寺攻めを怠っていたと勘当状をつきつけられ、高野山へ放逐された佐久間信盛父子の子の方である。しかし、これは織田の家では先代から奉公の家系の譜代衆。それを、ここ十年くらい前から足利義昭を捨てて信長に奉公した新参者の細川幽斎などが、仲へ入って勘気を願うとか、取持をしたというのも訝しい。だいいち赦免になったのは、この時ではない。それは本能寺の変後であって<寛政譜>によれば、織田信雄に仕え、小牧長久手合戦では秀吉方の尾張蟹江城を攻めている。細川幽斎が喜んでくれるように、彼の骨折りで勘気が許されたものならば、まさか二年後に、細川にそむき、反秀吉方の陣営にたつ事は、まずあるまいと想われる。
---引用ここまで---
本能寺の変を告げに来た人物は、本当に家臣だったのか怪しくなってきてますね。

---引用ここから---
 さて次に、「信長父子の上洛」というが、なにも父子揃って上洛してきたのではない。信長は、本能寺の変の二日前の五月二十九日の上洛だが、信忠は違う。
<信長記>の五月十四日の条によれば、「丹羽長秀が仮殿をたてた江州番場に、家康と穴山梅雪が一泊して安土へ向かった後、信州諏訪から凱旋してきた信忠も通りかかって、立ちよって休憩、長秀が一献献上した」とある。
 つまり、<細川家記>に「これより先」と書かれているのは、信忠が上洛した頃をさすのであろうか。すると、五月十六、七日か二十日ぐらいの事になるが、その頃から、丹後を出発して、六月二日の事件当日の最中に、彼米田だけが一人で京へつき、しかも相国寺前の私宅へ着いたと言うのは、どうしたことをいうのだろうか。この当時、丹後宮津から京までは途中で物見遊山しても、二日しかかからない事は、<西国紀行>にもあるし、また当然なことである。だから米田という家老が主命をおび、真面目に歩いて来たものならば一日か、一日半の道程である。それが半月掛りの計算である。
 そして普通なら、細川の京屋敷へ直行すべきなのに<細川家記>には肝心な、殿様の屋敷はなくて、米田個人の私邸。しかも今出川の相国寺前というのは、この後、大坂方の残党の長曽我部盛親が寺小屋を開いていたような、京における下町である。そう
いう場所に米田の京邸があったとは、まるで妾宅でも連想しそうな粋な書き方である。
 だが、殿様に京屋敷がなく、家老だけが別邸をもっているなんて事は、考えられもしない。全く奇妙である。
---引用ここまで---
これより先にをいつと見るかで日程は変わるので、そちらは判断保留。

---引用ここから---
 さて、次に、ここで大切なのは、
「愛宕(あたご)下坊幸朝」という人名である。つまり、愛宕権現の下坊の神官で「幸朝」という男が、ここに出てくるのである。この愛宕権現というのは、細川幽斎の上の娘の伊也を再嫁させた京の金融を司っていた吉田神道の兼治の出店にもあたる神社なのである。
 後世になると、愛宕山頂の勝軍地蔵を拝みに、出陣前の諸将は登山したように伝わっているが、実際は戦費の借出しに行ったのである。そして、金策がつくまで連歌をしたり、茶湯をたてて待っていたのは、(今日でも、預金者は入口の腰掛けで待たせても、貸出の客には、何処の銀行でも応接間へ通して、そこで茶を振舞うのと)同じである。
 そして、
「五月二十八日に愛宕へ登山した光秀が、二十九日に(その日は土砂降りの雨なのに)西坊から下山したに相違ない」。六月二日の午前九時すぎまで光秀の姿は京で見た者はいないが、その前日の六月一日まで愛宕にいたような事は、絶対にない」
 と、後になって証言するのが、この下坊の幸朝である。
 といって、この男は、予め信長が六月二日朝殺されることを知っていて、愛宕山から下って、洛中の米田と連絡をとっていたのか。それとも米田が、愛宕山まで駆け登って相談に行ったのか、ここは判らない。
 ただ、<大日本神祇史>並びに<山城名勝志>によると、
「愛宕神社は<延喜式>に丹波国桑田郡阿多古神社とある、是なり、丹波、山城両国の境にあり、当今は山城国葛野(かどの)郡に属す。東西南北に四坊ありて栄ゆ」とあって、西坊とか東坊というのはあったが、<細川家記>に出てくるような、下坊や上坊はない。たぶん米田との打合わせしやすいように、山頂では訝しいから、この時点だけ、まるで麓にでもありそうなと想えそうな、下坊なるものを、文字の上だけで作って、辻褄を合わせたのだろう。また、
「中国出陣の筈にて、先に、先発隊は押し出し出陣していたが」と、まことに苦しそうに説明しているが、いやしくも信長の命令なのに、「筈にて」というのも訝しい。また先発の部隊がすでに出ているのに、後続部隊は、まだ宮津城にて、オイチニとやっていて、幽斎や忠興は、暢気に城中にいる程の陸続とつづくような大部隊を、当時の細川はもっていたのだろうか。どうも信じられない。
---引用ここまで---
実際には存在しない下坊が出て来るあたり、信憑性が少ないですね。

---引用ここから---
 それに奇怪すぎるのは、信長の死体が本能寺に見当らず、生存説も高くて、四日、五日ずうっと洛中が騒いでいる時に、丹後の宮津城から動かなかったという細川幽斎と倅の忠興が、自信をもって、死を確信し、
「死んだ信長様への供養」と称して、父子揃って、バッサリ髷を切ってしまった事である。こんな不可解な事があるだろうか。
---引用ここまで---
確かに判断が速すぎる気がしますね。

この後、細川家の不自然な加増についても八切氏は疑問を持っているようです。たしかに、加藤清正よりも武勇が優れている細川家とは思えないんですが、清正は肥後の国半分で、細川は後に肥後一国です。

まだこの章は続いてますが、ちょっと長くなったので、続きは後で。
以下は7/20の追記。

この後、二条城での攻防に着いての記述がありますが、ちょっとだけ順序を変えて引用したいと思います。
まずは本能寺の変の10年ほど前です。

---引用ここから---
 十年前の、この二条城攻撃の時に、信長は、その全勢力をもってしても落とす事ができずに、<東寺>の<光明過去帖>に残っているように、上京(かみきょう)の二条から北を、すっかり焼野原にしてしまって、攻め易いようにまでして、改めて城の四方に、見下せるくらいの高い望楼の砦を構築。そこから、当時の輸入されていた火薬を使って攻撃。
 だが、どうしても落城させる事が出来ずに、とうとう正親町帝に願い出て、勅使下向を仰ぎ、やっと開城させた程のところが、どうして、僅か、たった一日。それも数時間でかたがついてしまったのか。
 二城城の周囲は、本能寺と違って、4米(m)幅の深い濠、跳ね橋をあげたら中へは一人も入れない。つまり普通の状態なら、何日でも篭城できる状態である。それに信忠は、なにも血戦するために、そこへ入ったのではない。
 安全を期するために、ここへ逃げこんだのである。それが一時間か二時間で全滅。
 まったく話が合わない。そこで<当代記>や<信長公記><川角太閤記>では筆を揃えて「二城御所に隣接した近衛関白邸の大屋根によじ登った兵士が、そこから二条御所の中を狙い撃ちして、全滅させた」と記述している。
 もちろん一緒に筆をとって同時に書かれたのではないから、この中のどれかが書いたものを、他の筆者は、そっくり失敬しただけだろう。だが、近衛関白邸が右隣だったら、左側に移ってしまえば、狙撃は免れる筈である。何故、信忠以下五百の精鋭は、わざわざ撃たれるために近衛邸の側よりに集まってゆき、そこで全滅したのだろうか。
 こんな可笑しな話があるだろうか。
---引用ここまで---

二条城が堅固な城であることや、義昭がここに篭って籠城したとき、信長は攻めきれなかったと以前書かれていましたが、その詳細がようやくここに出てきたということでしょう。そのように堅固な二条城が短時間に落城した理由について、このようにかんがえているようです。

---引用ここから---
 さて、<当代記>の原文で、さきに示したように、寄手が二城城へ近よりながら、あまり戦意を示していなかった点でも窺えるが、二城城にいた信忠の軍勢は寄手と同志討ちを、結果的にはしたのではあるまいか。
 つまり、城の内部と外部の双方へ、まったくの第三者から、不意に攻撃というか、爆弾でも仕掛けられたら、そういう結果を生じたかも知れない。なにしろ、混乱と昂奮が渦を巻き、それに六月一日は大雨だったが、この日は晴れていて暑い。
 当時の洋暦では六月二十一日になるが、現在の太陽暦では七月一日にあたっている。眩しいくらいの夏の陽ざしに照りつけられている双方の軍勢が、幻のような敵‥‥つまり僅かな少数の、目につかぬ相手から、着火された爆薬を擲げこまれたら、これは、
双方とも、それとは気付かずに、初めて寄手と城内の信忠勢との間に血戦が、ふって湧いたように開始されたかもしれない。

(上の引用部分なので中略)

こんなに短時間のあっけない全滅というのは、閉じこもった信忠勢に放りこまれた新型の爆薬としか、考えられはしないだろう。
 だが、これは一応この侭にして、また本能寺へ戻ろう。
---引用ここまで---

マカオから輸入されていた火薬に注目していた八切氏らしい推測だと感じます。

この後、前日の大雨でまだ濡れていた本能寺の建物が、全焼するだけでなく、隣の家屋まで焼いてしまっている事実の不審さを書かれ、

---引用ここから---
 こうなると、これまでの俗説のように、
「信長が、もはや最期と思召され、本能寺に火をつけ、お腹を召された」という話は、まったくのデフォルメになってしまう。
 しいて自害とみたいなら、また、<当代記>にある「終(つ)いに、御死骸見え給わず」という答えにあわせるためには、硫酸の水槽へとびこんで、身体を融かしてしまうか、その屍体の始末方法はないはずである。
 しかし、この時代に硫酸は、まだ日本にはない。
 すると、信長は、「弓もひかず、槍もつかず、火もつけず、腹もきらず」という事になる。
---引用ここまで---
腹を切ったかどうyかを判断する手がかりは実際は無いと思うが、戦国時代の武将が簡単に諦めたり、名を惜しんで腹を切るというのは個人的には考えにくと思う。

次の章は、信長は腹を切らないの中の最後の章ですが、大村由己の天正記の「本能寺」と「二条御所」関連の引用ですが、省略します。



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